それでも幸せはココにある。
案内された診察室には、穏やかな陽射しが柔らかく差し込んでいた。
カーテン越しの光が壁に淡い模様を描き、外の庭の花壇もちらりと見える。
消毒液の匂いが微かに混じり、どこかほっとする、優しい空間だった。
ラフィーナが「失礼します」と小さな声でドアを開けると、室内には白いローブをまとったセルジュがすでに待っていた。
額に長めの前髪がかかり、優しげな顔立ちと穏やかな眼差し。
その瞳の奥には淡い光が宿る。
神殿所属の神官らしく、身に着けたローブの刺繍が静かな権威と気品を感じさせる。
ラフィーナの姿を見ると、セルジュはふっと穏やかな微笑みを浮かべた。
「ご無沙汰しております。レオノール様、カッシュ様」
ゆったりと一礼し、机の横から静かに立ち上がる。
その所作には、長年人々を癒してきた者ならではの落ち着きがあった。
「お久しぶりです、セルジュ先生」とレオノールが会釈し、カッシュも静かに頭を下げる。
診察室の空気に、やや緊張と安堵が交じる。
窓の外では風に花壇の花が小さく揺れている。
一歩前に出て、レオノールは尋ねた。
「ラフィーナの体調は大丈夫でしょうか?」
セルジュはラフィーナの方へ優しく目をやり、ゆっくりと頷く。
「とても良好ですよ。ご本人の自然治癒力も素晴らしいですが――何より、あの『力』が大きく影響しているのでしょう」
ラフィーナは小さく肩をすくめる。
「やっぱり……わたし、あのとき……」
声が少し震える。カッシュがその横顔をちらりと見て、気遣うように黙って寄り添う。
「ラフィーナ嬢が使われたのは、間違いなく『浄化』の力です」
セルジュが静かに告げると、診察室の空気がふと静止した。
ラフィーナは両手を膝の上でぎゅっと握る。
しばらく迷っていたが、やがて顔を上げてセルジュに向き直る。
「……本当に、わたし……役に立てたのでしょうか」
「ええ。あなたがいなければ、状況はもっと悪化していたでしょう」
セルジュの言葉は、柔らかくも芯のある響きだった。
「ありがとう、ラフィーナ。助かったよ」
レオノールは隣に座るラフィーナの肩にそっと手を置いた。
その仕草にラフィーナも、照れたように笑う。
「うん……でも、本当はちょっと怖かった」
カッシュが短く「お前はよくやった」とぽつりと言う。
その声はいつもより優しく、診察室の空気が少し和らいだ。
セルジュは一度、ラフィーナをじっと見つめてから、静かに頷く。
「この『浄化』の奇跡が本物なら、私から神殿にも報告しなければなりません。ラフィーナ嬢、あなたは今後『聖女見習い』という扱いになります」
「せ、聖女……っ!? わ、わたしがですか!?」
ラフィーナが思わず立ち上がりかけて声を上げる。
レオノールも内心ぎょっとした。
(やっぱり展開早くないか?もっと先でバレると思ってたのに……!)
カッシュがすぐに「父にも報告します」と真面目な顔で頷く。
ラフィーナは戸惑いながらも、何度も「聖女見習い……」と小さく呟いていた。
――しばし場が落ち着きを取り戻したころ、セルジュが卓上のトレイに用意された白い手袋を丁寧にはめながら、「もうひとつ、確認したいものがあると伺っています」と切り出す。
「あ、はい」
レオノールはカバンからベルベットの箱を取り出した。
中にはルビーが納められている。箱を開けると、光を浴びたルビーは鮮やかな赤にきらめいた。
「こちらです」
セルジュは慎重に箱を受け取ると、白いローブの袖口からすらりとした指を覗かせ、ルビーをそっと取り出して光にかざす。
カーテン越しの柔らかい陽光が、石の中に不思議な深みを与えていた。
レオノールは息をのむ。
カッシュもじっと石を見つめ、ラフィーナも無意識に背筋を伸ばして見守っていた。
「これは『記憶石』です」
セルジュが静かに告げる。
「記憶石?」ラフィーナが小さく問い返す。
(記憶石なんてアイテム、あったか……?)
レオノールは一瞬首をかしげる。
「やはり、記憶石だったか」とカッシュが唸った。
セルジュは、ルビーの表面を指先で優しくなぞりながら言葉を続ける。
「記憶石は、純度の高い宝石が長い時間をかけてその時の自然な魔力を吸い上げ蓄積し、力を持ったものです。幸運を呼ぶ石とも呼ばれています。そしてその力は持ち主にとって『いちばん幸せだった記憶』を思い出させる、非常に貴重な石です。誰かの幸せを祈り、願いを込めて贈られることが多いのです。決して呪いや悪夢を呼ぶものではありません」
「へぇ……」
ラフィーナがルビーを覗き込みながら、ぽつりと呟く。
「幸せを呼ぶ石なんですね」
「はい。本来は持ち主に安らぎや幸福感を与えるはずの石です。ですが、ごくまれに――幸せな記憶が、そのまま悲しみや切なさにつながってしまうこともあるのです」
セルジュは優しく例を挙げる。
「たとえば、幼い子供が親と過ごした何気ない幸せな日々。けれど親が事故で亡くなってしまった場合――幸せな思い出を思い出すたび、今はもう会えないという喪失感や寂しさが強くなり、心を痛めてしまう。そういうことも、まれにあります」
「でも、レオにはそんな記憶ないですよね?」とラフィーナが首をかしげる。
「俺の記憶でもレオにそんなことはなかったな」とカッシュも同意した。
ただ、レオノールだけが平静を装いながら、内心でセルジュの言葉を何度も反芻していた。
(……まさか、前世の記憶が『いちばん幸せ』だったなんて、思いもしなかった。だって、この世界でだって、楽しいことや幸せだと思えることはたくさんある。カッシュと、ラフィーナと……毎日、いろんな人と出会って――。それなのに……)
レオノールは目を伏せて、箱の中のルビーをもう一度そっと見つめた。
(オレは、帰りたいのか?前世に……。いや、違う。違うはずだ。今だって、こうしてみんなと笑い合ってる。それが嬉しいんだ。楽しいんだ。二人といるのが、オレは――)
ふいに、考え込んで無言になっていたレオノールにセルジュが小さく声をかける。
「レオノール様……? ご気分でも……?」
「えっ、あ、ごめんなさい。ちょっと考え事してただけです」
レオノールは慌てて顔を上げ、わざと明るい声を出す。
「本当に大丈夫?どこか、まだ悪いの?」とラフィーナが心配そうに覗き込む。
「無理はするなよ」とカッシュも眉をひそめる。
「いや、ホントに大丈夫。……なんで悪夢を見たのかなって、つい考え込んじゃっただけ」
レオノールは肩をすくめて笑ってみせる。
ラフィーナもカッシュも、少しだけ安心したような顔をする。
診察室の空気がほっと緩み、話がひと段落したころ、セルジュは改めてルビーをレオノールに返した。
「どんな記憶であれ、あなた自身がどう受け止めるかが大切です。これからは、ご自身の幸せを選び、歩んでいってください」
「……ありがとう、セルジュ先生」
レオノールはそっとルビーを受け取った。
その赤い石は、さっきまでとは違う静かな光を返していた。
三人は診察室を出て、明るい廊下を歩いた。
ラフィーナは「寄り道、して帰ろうか?」といたずらっぽく微笑んだ。
「パン屋の新作が気になってる」
「……また食べ物か」カッシュが呆れたように言い、レオノールも「せっかく元気になったんだし、たまにはいいんじゃない?」と苦笑いした。
「だって、特別な日だもん!」と胸を張って、二人に向き直る。
「レオの復活と私の聖女見習い昇格のお祝い♪」ラフィーナは満面の笑みを浮かべていた。
廊下の窓から春風が吹き込んで、花壇の花を揺らす。
何気ない日常の風景が、今日はどこかほんのり眩しく見えた。
けれど――レオノールの胸の奥にはまだ拭いきれないもやが残っていた。
記憶石が見せた「いちばん幸せな記憶」。
(まさか、オレにとってそれが前世の思い出だなんて……。今だって十分幸せなはずなのに。カッシュやラフィーナと笑い合って、寄り道の計画も立てて、穏やかな日常を過ごしているのに――)
レオノールは歩きながら、思わずポケットの中で拳を握りしめた。
廊下の窓から差し込む光が足元にやわらかい影を落とす。
(……それでも、心のどこかで『帰りたい』と考えている自分がいるのか?本当は……あの場所に、あの時間に。いや、そんなはずない。今を大事にしたい。今の幸せを、ちゃんと手放したくない――)
ふいに黙り込んだレオノールに、ラフィーナが「どうしたの? まだどこか痛む?」と覗き込んだ。
「無理するなよ」
カッシュも気遣って声をかけた。
「ううん、大丈夫。本当に。……ただ、なんで悪夢を見たのかなって、そればっか考えちゃってた」
レオノールは肩をすくめ、わざと明るく笑う。
二人は少し心配そうにしながらも、レオノールの様子を見てほっとした顔になった。
ルビーの箱をそっとカバンに戻しながら、レオノールは心の中で小さくつぶやいた。
(……これでいいんだ。今ある日常を、ちゃんと大事にしていこう)
三人は何でもない話をしながら廊下を歩いていたが、ふいにカッシュが足を止めた。
春の光が差し込む廊下で、カッシュはレオノールとラフィーナに向き直る。
その顔には、ふだん見せない真剣な色が浮かんでいた。
少しの間、カッシュは唇を引き結んだまま、静かに二人を見ていた。
レオノールとラフィーナも、思わず歩みを止めてカッシュに注目した。
「やはり、言っておいた方がいいな」
カッシュの低い声に、ラフィーナが小さく首を傾げる。
「何が?」
レオノールも隣で、いつもの軽口じゃないカッシュの様子に、自然と背筋が伸びた。
「どうしたの?」
カッシュはふっと小さく息を吐き、廊下の窓から外を一瞬だけ見やると、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「実は……昨日、殿下に会ってきたんだ」
その言葉に、レオノールもラフィーナも、一瞬動きを忘れてカッシュを見つめた。
空気がふっと張りつめ、静かな廊下に、三人の心臓の音だけが聞こえるような気がした。




