大切なのは、当たり前の日常です。
翌日、空は文句なしの快晴だった。
窓の外では街路樹が風に揺れ、鳥たちが早朝のさえずりを響かせている。
朝食の席でリオンやミーシャに「今日も元気そうだな」と声をかけられ、レオノールは「うん」と素直に微笑む。
体調が戻ってからは、無理をせず、ずっと屋敷の中で静かに過ごしていた。
今日は久しぶりに外へ出る予定だと思うと、朝からそわそわしてしまう。
窓の外に広がるのは、よく手入れされた庭だけ――けれど、その向こうに続く街の賑わいを想像するだけで、胸がふわりと弾む。
昼過ぎ、用意していたルビーのブローチをベルベットの箱に納めてカバンへ入れる。
鏡の前で身だしなみを整え、玄関を出る。
今日は特別な日ではないけれど、『普通』の外出が少しだけ特別に思える。
家を出ると、陽射しがほんのり暖かい。
通りには花屋の店先やパン屋の香ばしい匂い、子どもたちの笑い声。
馬車の車輪が石畳を転がる音や、行き交う人々の挨拶。
そんな賑やかな街の風景に、思わず気分も軽くなっていく。
「今日はカフェでカッシュと待ち合わせだ」と思いながら、歩く足取りも自然と軽くなる。
――しばらくして、目的のカフェが見えてきた。
そのカフェは白壁とグリーンの蔦、丸いガラス窓が特徴のこぢんまりとした店だ。
街の人たちにも人気で、テラス席には常連らしき老紳士や親子連れ、優雅に紅茶を楽しむ婦人の姿も見える。
ひときわ目を引く青年が、窓際の席で本を読んでいた。
深い藍色のベストに白いシャツ、細身の黒パンツ、端正な横顔と無駄のない所作。
カッシュだ。
普段は近寄りがたいほどのきっちりとした雰囲気なのに、今日は肩の力が抜けていて、どこか普通の青年みたいに見える。
(……なんかズルいな、あいつ)
周囲のテーブルでは、若い女性たちがカッシュの方をちらちら見て、小声で盛り上がっている。
「あの人、モデルみたい」
「ねえ、あれ絶対貴族よ」
「紹介してほしい」
(やっぱりカッシュはどこに行っても話題になるよな。さすが乙女ゲームの攻略対象……)
レオノールは思わず肩をすくめて、
(――俺なんか、せいぜい『街の通行人B』がいいところだっていうのに)
と、ちょっと自虐的に苦笑する。
けれど、そんな内心を振り切るように、カッシュのもとへ歩き出した。
彼の視線が本から自分に移る。
その一瞬、カッシュがふっと微笑む。
「待ったか?」
レオノールが声をかけるより先に、カッシュが静かに本を閉じた。
「遅くはない。むしろ、きっかりだな」
その当たり前のやりとりに、レオノールの胸の奥にじんわりと温かいものが広がる。
(……こういう普通の瞬間が、一番贅沢なのかもな)
用意されたテーブルには、すでにカッシュの頼んだ紅茶と、空のカップが置かれていた。
「もう注文した?」
「レオの分も頼んでおいた。……ここのケーキは、お前が好きだろ」
カッシュは少しだけ照れたように言い、カフェの奥へ目をやった。
「うん。ありがとう」
レオノールも素直に笑う。
やがて、店のスタッフがやってきて、あたたかい紅茶と苺のタルトをそっと置いていく。
湯気の立つカップを手に取ると、甘い香りがふんわりと鼻をくすぐった。
しばらくのあいだ、二人は無言のまま、それぞれのカップに口をつける。
カッシュがひと息つくと、ふいに静かな声で尋ねてきた。
「体調、変わりないか?」
「うん。おかげさまで。もう、全然問題ないよ」
本心からの言葉だった。
それを聞いて、カッシュは小さくうなずいた。
「ならいい。……正直、最近のお前はどこか疲れような顔をしていたからな」
「……あはは、そうかも」
レオノールはちょっとだけ照れくさくなり、カップの縁を指でなぞる。
気まずさは感じない。
お互いの間に流れるのは、幼い頃からの信頼だ。
だからこそ、言葉を飾らずにいられる。
「ラフィーナも、待ってるはずだ。今日は先生もいらっしゃる」
「うん。例のルビーも、ちゃんと持ってきた」
レオノールはカバンの中の箱をそっと確かめた。
少しだけ時間ができたので、カッシュと軽い世間話を交わす。
最近の街の噂――有名なパン屋が新作を出したこと、王都の外れで開かれる花市の話題。
カッシュはそれに淡々と応じながらも、ときどきちらりと店内の時計や通りの人波に視線を投げる。
「……やっぱり、お前の顔色は、今が一番いいな」
ふいにカッシュがぽつりと言う。
「え?」
「城の中でも、家でも。お前は『守られる側』の顔より、『日常の中にいる』顔が似合ってる」
「……なんだよ、それ」
思わず笑ってしまう。
「でも、嬉しいよ」
不思議と、心がじんわり温かくなった。
やがて、カッシュが椅子から立ち上がる。
「そろそろ行くか。先生に無駄に待たせるのも悪いからな」
「うん」
レオノールもタルトを食べ終え、ナプキンで口元を拭った。
カフェを出ると、午後の日差しが石畳の通りを優しく照らしていた。
春の風が、ふと頬を撫でていく。
行き交う人々の姿も、どこか穏やかで、平和そのもの。
二人は並んで歩き出す。
カッシュはさりげなく歩幅を合わせてくれる。
言葉少なだが、その距離感が心地よい。
「このあいだの手紙、ありがとな」
「礼には及ばない。俺の方こそ、何かあればすぐ知らせてほしい……何があっても」
カッシュは少しだけ真剣な表情で、レオノールの横顔を見た。
少しの沈黙――けれど、重くはならない。
しばらく歩くと、王都の中心部から少し離れた地区へと出る。
道幅も広がり、木立の間を抜ける涼しい風が心地よい。
馬車の往来も減り、町のざわめきが少しずつ遠ざかっていく。
やがて、白い外壁と青い屋根が特徴の治癒院が見えてきた。
敷地のまわりには花壇が並び、手入れされた庭の花々が咲き誇っている。
治癒院の前で一度立ち止まり、二人で深呼吸する。
「……ラフィーナ、元気かな」
「大丈夫だ。俺の父が後見人としているから、何かあればすぐに知らせが来る」
カッシュの声には、ほのかな誇りと、幼なじみを思う優しさがにじむ。
「じゃあ、行こう」
「うん」
ガラス扉を押して中へ入ると、院内は清潔で静かな空気に満ちていた。
白い壁、薄青のカーテン、壁にかかった淡い色の絵。
受付には、見覚えのある女性がにこやかに立っていた。
「いらっしゃいませ。ラフィーナ様は、奥の診察室にいらっしゃいます。どうぞ、ご案内します」
「ありがとうございます」
カッシュが軽く礼を言い、レオノールもそれにならう。
廊下を進む。
床は絨毯が敷かれ、外の光が長く差し込む窓から、柔らかい明かりが差し込んでいる。
案内されて診察室の前に立つと、扉の向こうから人の声が聞こえてきた。
ノックをすると、中から「どうぞ」と明るい声が返ってくる。
扉を開けると、そこにはすでにラフィーナが待っていた。
白いワンピース姿のラフィーナは、窓から差し込む光の中で、どこか嬉しそうに微笑んでいる。
その表情を見た瞬間、レオノールの胸にもやわらかな安心感が広がった。
「レオ! カッシュ様も! 待ってたよ!」
「こんにちは、ラフィーナ」
レオノールが笑顔で返すと、ラフィーナは元気よく椅子から立ち上がる。
「本当に大丈夫そうでよかった。……元気そう」
ラフィーナはレオノールの顔をじっと見つめて、ふわりと息をついた。
「うん、もう何ともないよ」
「良かった……」
ラフィーナの肩が、ほっと安堵したように緩む。
その隣でカッシュも「無理はするな」と短く言い添える。
ラフィーナは照れくさそうに笑って「うん」とうなずいた。
診察室の白い壁の内側で、外の穏やかな午後の陽射しが、柔らかく三人の影を落としている。
静かな、けれど温かな空気が、そこには流れていた。
やがて、奥のドアが静かにノックされる。
「先生がお待ちです」と、スタッフがにこやかに言い、部屋へと案内された。




