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こんな裏設定があるなんて聞いてない!裏設定を知ったオレは悪役令嬢の婚約破棄を目指します。  作者: 雪野耳子


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晴れやかな朝の向こうで、冷たい廊下を歩く

 王城の執務室。

 朝の日差しが重いカーテンの隙間から斜めに差し込み、分厚い机の上に淡い影を落としている。

 カッシュは書類を滑らかに捌き、必要な報告を淡々と進めていた。

 ヴァンツァーは椅子にもたれ、視線だけで「続けろ」と促す。無駄な言葉はない。

 けれど、その灰色の瞳は、どこかカッシュの内心まで測るように冷ややかに揺れている。

 ひと通りの報告が終わると、ヴァンツァーが「あとは?」と短く問いかける。

 カッシュはほんの僅かだけ姿勢を変え、声色を柔らかくした。

「この前、レオフィア嬢の様子を見てきました。殿下のご心配もあったので。顔色も良かったですし、特に変わったところもありませんでした」

 ヴァンツァーのまぶたがわずかに動く。

「……そうか。何よりだな」

「ついでに、例のルビーのブローチも見せてもらいました。なかなかの逸品ですね。殿下の趣味には毎度感服します」

 ヴァンツァーは小さく鼻で笑い、口元に淡い笑みが浮かぶ。

「そうだろう? あれはちょっと手間をかけてな」

 カッシュはさりげなく話を繋げる。

「どちらで手に入れられたんです?あの手の石、うちにもあればと、少し羨ましくなりまして」

 ヴァンツァーは少しだけ目を細め、肩を竦めてみせた。

「……誰かに紹介された宝石商だったと思うが、すまない。名前は忘れてしまった。また機会があれば思い出しておく」

 軽く流すその言い方に、(……やっぱり誤魔化されたな)とカッシュは内心で小さく舌打ちする。

「失礼しました。機会があればぜひ、紹介していただければ光栄です」

 そこから先は、ごく当たり障りのない話だけが続いた。

 ヴァンツァーがふっと気のない視線をカッシュに投げる。

 しばらくして退出の許可が下りる。

 カッシュは礼を述べ、静かに執務室を出ると、重たい扉の向こうでようやく小さく息をついた。

 石造りの廊下の空気は、朝よりもずっとひんやりと澄んでいる。

 カッシュは人気のない廊下の角で足を止め、しばし動かずにいた。

 拳を握り、冷えた石壁にそっと額を寄せる。

 思いのままに壁に拳を打ちつけ、小さく呻く。

「……クソッ」

 苛立ちを一瞬だけ吐き出すと、いつもの冷静さで呼吸を整え、目を閉じて思考をまとめる。

(まだ、やれることはある……このまま引き下がるつもりはない)

 ふと、背後から複数の足音が近づいてくる。

 さっき執務室に控えていた側近たちの声が、小さく廊下に響いた。

「殿下、またあの宝石商を呼べって仰ってたな」

「この前のルビーの評判が良かったから、またレオフィア嬢に贈り物を――とか」

 カッシュはその場で息をひそめ、会話の内容にじっと耳を澄ませる。

「カッシュ様が褒めてたのが、よっぽど嬉しかったんだな」

(……宝石商。やはり、『忘れた』は嘘だったか)

 心の奥底に残っていた苛立ちが、ひやりと冷たい確信に変わる。その一方で、ほんのわずかに口元が緩む。

(――ルビーを褒めておいて正解だったな。殿下がまた宝石商を呼ぶのなら……)

 カッシュは静かに小さく息を吐き、ふっと目を細めた。

(都合は、いくらでもつけられる。呼ばれなくても、何かと理由を作ればいい。今度こそ何か掴めるはずだ)

 淡々とした足取りで廊下を歩き出す。その胸の奥には、さっきまでの苛立ちとは違う、静かな自信と手応えが残っていた。


◆     ◆     ◆


 窓の外には、澄み切った青空がどこまでも広がっていた。

 朝日がカーテン越しに差し込み、ベッドの上にまだらな模様を落としている。

 レオノールは毛布の中で大きくひとつ伸びをして、深く息を吸い込んだ。

 胸いっぱいに新鮮な空気が満ちる。

 体の重さはすっかり消えて、五日前までまとわりついていたあの鈍い苦しさは、もはや夢の中の出来事のようだった。

「……ラフィーナのおかげだな」

 思わず、低く小さくつぶやく。

 窓辺に立ち、カーテンを左右に大きく開ける。

 途端に部屋いっぱいに朝の光がなだれ込み、壁も家具もきらめいて見えた。

 心の内側まで透き通るような明るさが満ちていく。

 洗面台で顔を洗い、服の襟を正しながら、ふと机の引き出しをそっと開ける。

 中には黒いベルベットの箱――あのルビーのブローチが静かに眠っている。

 今はもう、ただ美しく、静かな紅色を湛えるだけの存在に戻っていた。

(何もかも、もう大丈夫だ)

 胸の奥で、自然とそんな確信が湧き上がる。

 階下へ降りていくと、焼き立てのパンの香りがふわりと広がってくる。

 厨房からは朝の賑やかな物音、食堂のドアを開けると、陽光に満ちたテーブルが目に入る。

「おはようございます、レオ様」

 侍女が笑顔で迎え、ミーシャとリオンがすでに席についていた。

 リオンは新聞を手に、ミーシャは小ぶりなティーカップを両手で包みながら、レオノールにやわらかな視線を向けてくる。

「おはよう、レオ。体調はどう?」

 ミーシャが心配そうに目を細めた。

「うん、もう本当に大丈夫だよ。ありがとう」

 自然に笑みがこぼれ、頬がほんのり温かくなる。

 リオンも、普段より少し柔らかな表情でうなずいた。

「顔色も良くなったな。食欲も戻ったようだ」

「はい。今朝はとてもお腹が空いてて」

 少し照れながら答えると、ミーシャが嬉しそうに微笑んだ。

 パンとスープ、フルーツに卵料理。

 何気ない食卓の景色――けれど、心の奥にひたひたと幸せが広がっていく。

(……ああ、日常って、やっぱりこんなにも温かかったんだな)

 ほんの数日前まで、会話も空気もどこか重たかったことが嘘のようだった。

 ふいにリオンがカップを置いて口を開く。

「この調子なら、明日からまた妃教育と跡継ぎ教育も再開できそうだな。しばらく休んでしまったからな」

「うん、大丈夫。もう元気だから」

 レオノールは背筋を伸ばし、きっぱりと答える。少しだけ緊張はあったが、それよりも「普通に戻れた」安堵感の方がずっと大きい。

「そう。無理はしなくていいのよ」

 ミーシャがそっと声を添える。

「うん。ありがとう、お母様」

 素直にそう言えた自分が、なんだか誇らしかった。

 朝食が終わる頃には、すっかり「いつもの家の空気」が戻っていた。

 心地よい満足感と、わずかな眠気の余韻を胸に、レオノールは自室へと戻る。

 机に座り、しばらくはお気に入りの本を読み耽る。

 部屋の窓からは鳥のさえずりと、朝陽にきらめく緑の葉が揺れているのが見えた。

 何気ない静かなひととき――だが、この「静けさ」こそが、自分にとって一番欲しかったものなのだと実感する。

(……やっと、普通の朝に戻れた)

 ページをめくる手が、自然と軽やかになる。

 そんな時、部屋のドアを控えめにノックする音。

「レオ様、カッシュ様からお手紙が届いております」

 執事の穏やかな声。

「ありがとう」

 受け取った封筒を手にして、一瞬、胸がふっと高鳴る。

 きちんとした筆致で綴られた短い文――

『ラフィーナの先生が、もう一度会いたいと言っている。君にも話したいことがあるそうだ。例のルビーも持参してほしい。明日の午後、いつものカフェにて』

 その一文を何度も読み返しながら、レオノールはゆっくりと手紙をたたむ。

 気が付けば、窓の外では朝の光がさらに明るさを増し、庭の緑が眩しく揺れていた。

(……また、新しい一歩、なのかもしれない。でも、もう怖くない。カッシュも、ラフィーナもいるから)

 深呼吸して、そっと微笑む。

 胸の奥に、新しい風がすっと吹き込んできたような、そんな心地だった。

 レオノールは、窓の外を見つめながら、静かに明日を待つことにした。

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