安らぎは友と共に。
街の喧騒から少し離れた裏通り、静かなカフェの奥にある個室。
薄暗い木製の扉を開けると、そこにはカッシュとラフィーナが先に座っていた。
壁に掛けられた古びた絵画と、窓越しに差し込む柔らかな陽光が、室内に穏やかな空気を作っている。
窓の外には、揺れる街路樹の枝葉がちらちらと揺れており、微かな風の音が耳に届く。
時折、遠くから聞こえる馬車の車輪が石畳を叩く音や、行き交う人々の話し声がかすかに混ざるが、それらはこの個室の静けさを乱すことなく、むしろ穏やかな背景となっていた。
レオノールが扉を開けて一歩踏み入れると、ラフィーナがふわりと微笑む。
しかし、すぐにその笑みが固まり、眉がわずかに寄せられた。
カッシュも背もたれからわずかに身を乗り出し、レオノールの顔をじっと見つめる。
「遅かったね、レオ」
ラフィーナが声をかけるが、瞳には不安が滲んでいた。
「……顔色、悪いよ?」
その指摘に合わせ、カッシュの視線が細く鋭くなる。
「寝不足か?」
カッシュも眉をひそめて問いかける。
「大丈夫だよ。久しぶりだし、ゆっくり話そう」
レオノールは無理に笑いながら席に着いた。二人と会うのは久しぶりだった。
ほんの少し、肩がほっと緩む。この場の空気は、レオノールにとって特別な安らぎがあった。
「それよりさ、さっきヴァンツァーに会ったんだ」
話題を切り替えるように報告すると、カッシュが目を細める。
「殿下は今日は遠乗りの予定だったはずだが……」
「うん。でも、たぶん遠乗りって言っておいて、お忍びで街を見て回ってるんじゃないかな。雰囲気が、全然違った」
柔らかな表情と穏やかな口調。その印象を思い返しながら、レオノールは首を傾げた。
「遠乗りって、そんなによく行くものなのか?」
「月に二、三度はあるな。王宮を離れて風を感じるのが好きらしい。俺も何度かお供に出たことがある」
カッシュは腕を組み、少し考えるように続けた。
「ただ、時々護衛の目をすり抜けて別行動を取ることもあると聞いている。街を一人で歩いてみたくなるらしい」
「……そうか。じゃあ、確認してもらえる?また鉢合わせするのは、正直困る」
レオノールはため息を混じらせて頼む。
「任せろ」
カッシュは静かに頷いた。
一息ついたそのタイミングで、レオノールはふと思い出したように言った。
「……そういえば、少し前のお茶会で、ヴァンツァーにこんなものをもらったんだ」
レオノールは、ふと思い出したように話を切り出した。
ルビーのブローチ。あのとき、静かな庭園で差し出された黒い箱の中に、それは収められていた。
その記憶が胸の奥にじわりと蘇る。
「真っ赤なルビーのブローチ。まるで血が脈打ってるみたいな、ゾクッとするほど綺麗なやつだった」
レオノールは無意識に指先を擦り合わせる。
あのとき、肌に伝わった冷たい感触がまだそこにある気がした。
「ルビーのブローチ?」
カッシュが怪訝そうに眉を寄せる。
「そういえば、つい最近、いいものが手に入ったと殿下が自慢していた。異国で、国宝にも匹敵する代物だと。確か……珍しい石だとおっしゃっていたような……」
「そんな立派なものだったのか……でも、あれを見てると……」
言いながら、レオノールの胸の奥に鈍い疼きが広がった。
思い返すのは、箱を開けたときの光景。
深紅のルビーは光を受けるたび、内側からじわりと滲むように輝いた。
それは宝石の煌めきというより、まるで『生きている』もののようだった。
宝石の中心で、何かが緩やかに脈動している。
赤黒い光が奥底で揺れ、こちらの視線を絡め取って離さなかった。
──ぐらり。
頭の奥で、その赤が再び滲んだ。
瞼の裏に、あの脈打つような輝きが浮かび上がる。
視界の端でちらちらと灯る赤は、炎とも、血潮ともつかない。
それが一度滲んで、また明滅し、次第に視界いっぱいに広がっていく。
「レオ?」
ラフィーナの声が、すぐそこにあったはずなのに、遠く響く。
赤い光が視界の隅で揺れる。
その輝きは、何度も夢の中で見たはずの光。
見覚えがある――けれど、もう輪郭はぼやけていた。
(……知っている。これは、ずっと前に見た――)
心臓の奥がざわめく。
懐かしいようで、苦しい。
決して忘れたくなかったはずの何かが、指先からこぼれ落ちていくような感覚。
戻りたい。
そこに帰らなければいけない。
その想いだけが、胸の中で膨れ上がっていく。
けれど、どこへ帰ればいいのかがわからない。
伸ばした手は空を掴むばかりで、何も捕まえられない。
目の前にあったはずの景色も、誰かの声も、
赤い光の中で滲み、溶け、遠ざかっていく。
(忘れたくない……)
焦りとともに、その言葉だけが胸を締めつけた。
そして、赤がすべてを覆い尽くしていった。
椅子の背もたれに寄りかかったまま、レオノールの体が力を失う。
カッシュはすぐさま身を乗り出し、肩と腕をしっかりと掴んで倒れかかるのを防いだ。
「おい、レオ! しっかりしろ!」
その声が焦りを帯び、手に込める力も強まる。
だが、その声も届かず、赤い闇が視界を覆う。
耳鳴りが酷く、何も聞こえなくなる。
頬を何かが伝った。
そのとき、ラフィーナが震える手でレオノールの腕をぎゅっと握った。
「お願い、レオ……!」
彼女の手からほのかな光がじわりと溢れ出す。
それは澄んだ泉のような、冷たくも温かな感触。
レオノールの身体に染み込んでいく。
ざわついていた赤が、ゆっくりと後退し、闇がほぐれていく。
胸の奥に涼しい風が通り抜ける。
「……レオ!」
瞼を薄く開けると、泣きそうなラフィーナの瞳があった。
潤んだ瞳が、真っ直ぐこちらを見つめている。
「……大丈夫」
かろうじて笑みを浮かべると、ラフィーナはほっと息をついた。
視線を上げると、カッシュが険しい表情で見守っている。
「本当に大丈夫か?」
「……ああ、大丈夫だって」
そう言いながらも、レオノールの胸の奥には、まだ薄く震える何かが残っていた。




