思いはそれぞれです。
舞踏会の熱気がまだ残る広間の隅で、ヴァンツァーは無言のまま杯を煽った。
足元を照らす大理石の床には、揺らめくシャンデリアの光が波紋のように反射している。
天井には絢爛な装飾が施され、豪奢な布地を纏ったカーテンが風もないのに微かに揺れていた。
華やかなドレスに身を包んだ令嬢たちの笑い声が、音楽とともに空間を彩っている。
けれど、それらすべてが遠く感じられた。
まるで、ガラス越しに眺める別世界の光景のように、彼の内に届いてこない。
自分だけが舞台の外に取り残されているような感覚に、薄い苛立ちが胸の奥でくすぶる。
(……俺の送ったドレスを、着なかった)
レオフィアは、鮮やかな青のドレスを選んだ。
深い海のような色味に、月光を思わせる銀の刺繍がほどこされた、凛とした美しさのある一着。
だが、その青はどこか冷たく、こちらを拒むようにも見えた。
(……あえて俺の色を避けたのか)
その思いが胸を刺し、苦々しさを押し上げる。
「クソッ……」
ヴァンツァーが贈ったのは、濃緑のドレスだった。
自分の礼服とさりげなく揃えた色合いに、裾には金糸の刺繍を施し、格式と品格を両立させた特注品。
舞踏会で「並び立つべき存在」として、一目でそう見せられるデザインだった。
なのに、それを拒んだ。
(なぜ、着なかった)
答えのない問いが、心の中でじわじわと熱を帯びる。
視線をグラスに落とす。琥珀色の液体がわずかに揺れ、氷がかすかに鳴いた。
冷たい酒の香りが鼻腔をくすぐるが、それすらも不快に感じた。
思い出すのは、レオフィアがカッシュと踊っていたときのことだ。
彼女は軽やかに舞い、笑っていた。
あの笑顔は、自分と踊ったときよりも――柔らかく、自然で、楽しそうに見えた。
(……笑っていたな、あいつ)
試すつもりで口にした、カッシュの婚約話。
少しでも動揺を見せるかと期待したが、彼女は何ひとつ変わらぬ表情で応じた。
あの涼やかな微笑みと、澄んだ目。
(何も……感じていないのか?)
苛立ちがじりじりと胸を焼いていく。
どうして動じない? どうして、何も気にしてくれない?
この感情の正体を、彼はまだ直視できずにいた。
周囲の令嬢が名前を呼ぶ声が耳に届いた。
ヴァンツァーは即座に顔に笑みを浮かべ、いつも通りの完璧な仮面を被って応じる。
令嬢たちは喜び、微笑み、言葉を交わしてくる。
だが彼にとって、それはただの騒音に過ぎなかった。
耳に心地よいはずの声も、甘い香水の匂いも、何ひとつ心に残らない。
彼は笑っている。けれど、心は静かに荒れていた。
怒りと嫉妬が混ざり合い、冷たい波となって内側から彼を揺らす。
押し殺した思いが膨れ上がっていく。
(……アレは、俺のだ)
そう繰り返すたびに、胸の奥に黒い影が静かに染み込んでいく。
それが何かの境界を越えてしまう前に、彼自身も気づかないふりをしていた。
◆ ◆ ◆
馬車の車輪が石畳をゆっくりと転がる音が、規則正しく耳に届いていた。
揺れるランプの明かりがカーテンの隙間から差し込み、レオノールの青みがかった瞳を、うっすらと照らす。
窓の外には、夕焼けの名残がまだ空に溶け残っていた。
紫がかった橙の光が、街の屋根の影を長く引き延ばしている。
その美しさに気づきながらも、心がついてこない。
(……ヴァンツァーを、怒らせることには成功した)
そう考えて、思わず小さく溜息をついた。
あれだけあからさまな態度を見せてくれたのだ。
これからも、少しずつ。嫌われるように立ち回ればいい。
何度でも怒らせて、最終的には「彼の方から」婚約破棄を言わせてみせる。
そう思っていたはずなのに。
胸の奥には、うっすらと冷たい何かが広がっていた。
そっと膝の上で手を組み、思い出すのは――あの話。
カッシュの婚約話。
三人で並んで過ごしていた日々が、記憶の中でふっと浮かぶ。
ラフィーナはいつも、屈託のない笑顔でよく喋って、よく笑っていた。
平民出身とはいえ、その真面目さと頑張り屋な性格は、どこか眩しくて。
優しくて、誠実で、人を疑わない――まさに『乙女ゲームのヒロイン』そのものだった。
まだ治癒の力しか覚醒していないけれど、もうすぐ第二の力、浄化も芽生えるはずだ。
選ばれし力を持つ少女と、完璧な貴族の青年――絵に描いたような組み合わせ。
(……カッシュルートのフラグが立ったのかな、とは思った)
けれど、ふたりの態度は変わらなかった。
普段と変わらないやり取り、変わらない距離感。
だから、気づかなかった。
きっと――いや、もしかしたら、あえて隠していたのかもしれない。
(……教えてくれればよかったのに)
親友だと思っていた。
もしふたりが付き合っているなら、ちゃんと祝福したのに。
おめでとうって、言ったのに。
それだけのことで、オレの態度は変わらなかったのに。
(――薄情者)
冗談めかして心の中で呟く。
でも、その言葉の裏には、拭いきれない寂しさがあった。
(オレって、二人にとってなんなんだろう)
そんなことを考えた瞬間、ぐっと喉がつまった。
誰にも言えない感情が、波のように心を揺らしていく。
視線を落とせば、白手袋をはめた指先が、いつの間にか膝の上で強く握られていた。
気づいて、そっと力を抜く。
それでも、その手のひらの中には、小さな孤独の熱が、残っていた。
それは、誰にも見せられないまま、そっと胸に沈んでいく。
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