噂話には乗り遅れるタイプです。
ほどなくして、カッシュ・グラードが人混みの向こうから戻ってきた。
人波を避けながら進む足取りは落ち着いていて、その姿勢にも一切の乱れはない。
静かで穏やかな顔立ちは変わらずとも、どこか深く思考の渦に沈んでいるような雰囲気があった。
「で?」
ヴァンツァーがわずかに顎を上げ、軽く探るような声をかける。
「ブラーフ伯爵令嬢とは、どうだったのだ?」
真正面から向けられた問いに、カッシュはまぶたをひとつ瞬かせると、平静な口調で応じた。
「ご挨拶を交わしただけですよ。ご令嬢も緊張されていましたから、長くは話しておりません」
「確か、彼女も今日がデビュタントだったはずですね」
横から静かな声が重なる。シリウスがグラスを手に、眼鏡越しにじっとカッシュを見ていた。
「それにしては、ずいぶん周囲が騒がしかったけどな?」
ラシッドが肩をすくめると、少しだけ唇を吊り上げてから、すっと視線を横に流した。
「……で、どこまで進んでるんだ? 婚約話は」
その言葉に、カッシュが一瞬だけレオノールのほうを見た。
その視線にはわずかな揺れがあったが、すぐに元の落ち着いた顔つきに戻る。
「話を進めたいのは、伯爵家と叔父のほうです。父も私も、現段階で婚約を考えているわけではありません」
「へぇ? 意外だな」
ラシッドが軽く笑い、グラスの中の氷を揺らすように指先を回した。
「でも、そろそろ決めないとじゃないか? 俺たちも動き始めてるしさ」
レオノールに一瞬目をやりながら、ラシッドは冗談めかした調子で続けた。
「ん? オレ? 辺境伯家の次女と話が進んでる。もうそろそろ、って感じかな」
「私は、レイワード子爵家の長女と」
シリウスも簡潔にそう言って、視線をグラスに落とした。
二人の報告を聞いたヴァンツァーは、にやりと笑みを浮かべる。
「なるほど。つまり、俺の側近の中で、まだ婚約が決まっていないのは……お前だけか、カッシュ」
からかいを含んだ視線が、彼へと注がれる。
「来年には学園だ。周囲の目もあるし、それまでに婚約者を決めておくのは当然だろう? 必要なら、俺が誰か紹介してやってもいい」
その言葉に、カッシュはほんのわずか目を細めた。
だが、語気は変わらず冷静だった。
「殿下、ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、我が家にもそれなりの事情がございますので」
その声には、礼節と共に、どこか断るための確かな意志が感じられた。
レオノールは、そのやり取りを静かに見つめていた。持っていたグラスの縁を、知らず知らずのうちに指先が強く押しているのに気づいて、そっと緩める。
カッシュとは何度も言葉を交わしてきた。レオフィアとしても、レオノールとしても。けれど。
婚約の話など、一度も聞いたことがなかった。
周囲にいる女性といえば――ラフィーナと、自分、レオフィアだけ。
だが、レオフィアは自分自身。
消去法で残るのは、ラフィーナ。
彼女は平民だが、グラード家の後見を受けている。立場として近くにいてもおかしくない。そう思った瞬間、喉の奥がひりつくように熱くなった。
三人で過ごす時、そういう空気を感じたことは一度もなかった。けれど、それがただの“演技”だったとしたら。
心に、小さな疑念が芽を出す。
もし本当に二人が想い合っていて、それを自分だけが知らなかったとしたら――
ラフィーナも、何も言ってくれなかった。
親友だと思っていた。でも、その思いを共有していたのは、自分だけだったのかもしれない。
そう考え始めた瞬間、不意に肩を掴まれた。
「……っ!」
反射的に身を引き、振り返った先にいたのは、険しい表情のヴァンツァーだった。
「さっきから、呼んでいるだろ」
「……申し訳ありません。少し、考え事をしていて」
ヴァンツァーの眉が深く寄り、冷ややかな視線が突き刺さる。
「考え事? 俺の声が聞こえないほどにか?」
その目が語っていた。“無視された”という怒りを。
言葉を返すより早く、彼は短く言い放った。
「……もういい」
きびすを返し、怒りを残したまま去っていく。
シリウスとラシッドが目を交わし、無言でその背を追った。
最後に残ったカッシュが、レオノールの方を見て静かに言う。
「……また後ほど」
その一言が、やけに遠く感じた。
ふと顔を上げると、すでにヴァンツァーは令嬢たちに囲まれていた。
先ほどまでの怒りは影もなく、笑顔さえ浮かべて、談笑の中心にいる。
レオノールは、扇をゆっくりと開き、口元を隠す。
その目元には、どこか遠くを見つめるような疲れが滲んでいた。
ついさっきまで怒っていた相手が、何事もなかったかのように振る舞っている。
それを見て、胸の奥に冷たい何かが降り積もっていくのを感じた。
もし本当に、自分に興味をなくしてしまったのなら――それは、ひとつの目的が達成されたということになる。
ヴァンツァーに嫌われること。
それができれば、いずれ彼の口から婚約破棄を望むようになるかもしれない。
でも。
望んだ結果が手に入りそうになっても、心は少しも軽くならなかった。
視線の先、ヴァンツァーの隣に立つカッシュに目をやる。
ラフィーナの姿が頭に浮かぶ。
付き合っているなら、それでもいい。
ただ、自分だけが知らされていなかったことが、なによりも堪えた。
知らなかった自分が、ただただ滑稽だった。
レオノールは、グラスをそっとテーブルに置いた。
(……もう、十分だ)
勝ったはずなのに、なぜか心は敗北感に沈んでいた。
(……帰りたい)
誰にも知られないところで、ただひとりになりたかった。
ふと見上げた天井には、幾重にも連なるシャンデリアが揺れていた。
光の粒が瞬くたびに、眩しさだけが胸に突き刺さる。
その煌めきが、自分だけを取り残していくような気がして、レオノールはそっと目を伏せた。




