忠告はありがたく、聞き流します。
曲が終わると、レオノールはカッシュと軽く礼を交わし、ふうっと小さく息を吐いた。
肩がほんのわずかに落ちる。長丁場の舞踏会。華やかさと緊張が幾重にも押し寄せるこの空間は、想像以上に体力を削っていく。
「……ありがとな」
「いつでも」
カッシュはそれだけ言って、ちらりと貴族席を振り返る。
親族らしき人々が彼に手を振っており、彼はレオノールに一度だけ視線を返してから歩き出した。
一人残されたレオノールは、胸の奥に残る熱をなだめるように息を整え、近くの給仕からそっとグラスを受け取った。
「ありがとう」と小声で礼を言い、煌びやかな天井から少し離れた、壁際の静かな一角へ足を運ぶ。
背筋を伸ばしたまま壁に寄りかかることもせず、そっと一口。
琥珀色の飲み物が喉を潤し、ようやく、張り詰めた神経の端がほどけていく。
そのときだった。
ヒールの音が近づき、数人の令嬢たちがふわりと香水の香りと共に現れた。
彼女たちは揃いも揃って、春の花が咲いたような笑顔を浮かべている。
「レオフィア様、本日は本当にお美しくて……! 入場のときから、まるで絵画のようで、目を奪われてしまいましたの」
「ええ、本当に……お姿もですが、所作もとても洗練されていて。ご令嬢方の中でも、ひときわ輝いていらっしゃいました」
レオノールは、にこりと形だけの微笑を浮かべながら、内心で首を傾げる。
(……褒め言葉の嵐。うまく返さなきゃ)
「お褒めにあずかり、光栄ですわ」
丁寧に礼を返すと、もう一人の令嬢が、ふと遠慮がちに口を開いた。
「それに……レオフィア様のお兄様、レオノール様も素敵な方ですよね。あの静かな佇まいと気品。何度か拝見しましたけれど、つい目で追ってしまって……」
(……自分のことをそんなふうに言われても、どう反応すればいいんだ)
むず痒さと気恥ずかしさを抱えつつ、レオノールは内心を悟らせぬよう、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「兄のことをそう仰っていただけるのは、妹として嬉しい限りですわ」
レオフィアとしての仮面を丁寧に被ったまま、落ち着いた声で続ける。
「兄は、公務や必要とされる場には、きちんと顔を出しておりますの」
言いながら、レオノールはグラスを見つめて一瞬だけ思考を巡らせた。
仮面の言葉を口にするたび、どこか遠くの他人を演じているような、不思議な感覚が胸に残る。
「けれど私のほうは……身体があまり丈夫ではなくて」
レオノールは微笑みを保ちながら、少し視線を落とした。
まるで本当に『弱い妹』を演じているかのように、柔らかく息をつく。
「だから、こうした場にはなかなか……王家主催の行事以外は、控えさせていただいておりますの」
その説明に、令嬢たちは小さく頷き合い、気遣うような視線を向けてくる。
だが、空気を変えるように、ひとりの令嬢がすっと一歩前に出た。
濃い紅のドレスに身を包み、眩い宝石を胸元に飾った彼女は、その場の誰よりも存在感を放っていた。
「でも……あまり表に出られないのは、体調の問題ではなくて? 王家に嫁がれるご予定なのに、それでは少々不安ですわよね?」
その声音は、あくまで優しげだったが、裏にある悪意は隠しきれていない。
場にいた他の令嬢たちも戸惑ったように視線を交わし、空気が微かに凍った。
(……来たな、典型的な“心配するフリ”)
レオノールは眉ひとつ動かさず、微笑を保ったまま口を開こうとした——そのとき。
「……随分と親切なことだな」
静かながらも圧のある声が割って入った。
侯爵令嬢がびくりと肩を揺らす。
視線の先には、ヴァンツァーとその側近シリウス・メルバ、そしてラシッド・レイブンの三人が並んで立っていた。
ヴァンツァーはまっすぐに嫌味を言った令嬢を睨みつけ、眉をひそめる。
その隣で、ラシッドが腕を組みながら首を傾げた。
「そのあたりは、王家がご判断なさっていることですから。ご心配には及びませんよ」
柔らかく微笑みながらも、言葉の端に一線を引くような確かな意志をにじませる。
そして、一歩後ろのシリウスが、柔らかな微笑を浮かべたまま、しかし低く響く声で言った。
「王家にとって最も重要なのは、誠実さと気品。そして今、この場において最も見苦しいのは、他者を見下す浅慮さでしょう」
言葉の矢は、綺麗に芯を射抜いた。
令嬢は青ざめ、戸惑いながらも礼を取り、その場を慌てて辞していく。
レオノールは息を吐く。思わず口元を手で覆いそうになったが、寸前で抑える。
(……あれはあれで、ちょっとやりすぎじゃない?)
けれど、胸の奥にひそかに積もっていたものが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「……ですが、助かりましたわ。ああいう言葉には、なかなか言い返しづらくて」
シリウスはわずかに目を細めた。眼鏡の奥に光がきらりと宿る。
「ご自身で受け流せるとは思っていましたが……貴女が傷つかないことのほうが、よほど重要です」
レオノールは、言葉の裏にある静かな優しさを感じて、そっと瞳を伏せた。
そのとき、ヴァンツァーが皮肉げな笑みを浮かべて言った。
「カッシュとのダンス、随分と楽しそうだったな」
レオノールは顔色ひとつ変えず、即座に言葉を返す。
「兄の友人ですもの。何度か練習に付き合っていただいただけですわ」
さらりとかわすその声音には、緊張を隠す強さがあった。
ヴァンツァーはわずかに身を寄せ、耳元で囁くように続けた。
「知っていたか? カッシュは今、ある伯爵家の令嬢と会っている。婚約の話が進んでいるそうだ」
その瞬間、レオノールの心臓が跳ねた。冷えたグラスを握る指にわずかな力がこもる。
(……え?)
だが、その動揺を微塵も見せることなく、レオノールは口元に薄く笑みを浮かべる。
「そうですか。それがどうかしましたの?」
完璧な令嬢の仮面は、崩れることはなかった。
(……なんで、教えてくれなかったんだよ)
胸の奥に広がったざらりとした苦味だけが、静かに、深く積もっていった。




