淑女の仮面は完璧です。
王宮の大広間には、午後の陽光が斜めに差し込み、ステンドグラスを透かして淡い色彩の光が床に落ちていた。
天井には金細工の施された高窓が並び、天蓋のような絹の飾りが風にわずかに揺れている。
この日、十四歳を迎えた貴族の子女たちによる『初めての社交界』──デビュタントが開かれていた。
入場の合図と共に、大扉が開かれた。
一瞬にして空気が張り詰め、視線が一点に集中する。
淡い青のドレスに身を包んだレオフィア・サヴィアは、優雅にドレスの裾を持ち上げ、一歩を踏み出した。
陽光を受けて胸元のエメラルドがきらりと光を弾く。
白い手袋をした指先は震えも見せず、背筋は真っ直ぐ。
緊張はあった。
けれど、表情には曇りひとつなかった。
完璧に仕上げた仮面の奥で、心臓がどれほど高鳴っていようとも──それは、誰にも見せない。
(……さあ、幕は上がった)
ヴァンツァー・フォン・リズベルト王子の隣に並び、礼を取る。
この数秒でさえ、会場の貴族たちは囁き合っていた。
「本物のレオフィア様は、もっと線の細い印象だったのでは?」
「まるで別人のような気品ね」
その言葉のひとつひとつが、レオノールの耳には届いていた。
だが、頬は緩めず、目元も伏せたまま。
一礼を終え、ヴァンツァーと視線を合わせることなく、そのまま手を差し出した。
ファーストダンス。
形式的な、初舞台。
それでも、身体が覚えている通りに。
音楽が流れ出し、二人は歩みを合わせて中央へと進み出る。
ヴァンツァーの手が触れた瞬間、レオノールの背筋に一瞬、冷たいものが走った。
その手には、温もりがあるはずなのに、
まるで鉄でできた義手のように無機質だった。
(……怒ってるの、バレバレだよ)
無言のまま始まった二人の舞。
ヴァンツァーは完璧に振る舞っていた。
足捌きも、距離感も、表情すらも。
けれど、その完璧さが逆に、彼の苛立ちを強く浮かび上がらせていた。
ぎこちない。
レオノールはそう感じた。
完璧な優雅さの裏に、感情のさざ波が隠せていない。
(……だったら、踊らなければよかったのに)
ふと、王妃が視線をこちらに向けているのが見えた。
優しい笑みをたたえ、そっと頷く。
レオノールは微笑み返した。
その仕草ひとつで、また会場がざわめいた。
そしてそれが、ヴァンツァーの眉をほんのわずかに引き下げる。
わかりやすい。
まったく、子供か。
(……お前のドレスなんて、最初から届いてないって、面と向かって言ってやればよかったな)
ドレスも、所作も、微笑みも。
全てが磨き抜かれていた。
だがそれは、彼のためではない。
――自分のためだ。公爵家の令嬢として矜持。敵に隙なんて見せられない。
音楽が終わり、ダンスも終わる。
礼を取ると、二人は離れた。
歓談が始まり、貴族たちが次々に声をかけてくる。
レオノールは笑顔のまま、完璧に受け答える。
ふと、人混みの向こうから見覚えのある姿が近づいてきた。
「見事でした、レオフィア様」
カッシュ・グラードだった。
黒の正装に身を包み、礼儀正しい所作で、しかしどこか飄々とした空気を纏っている。
襟元とカフスには、レオノールの瞳と同じ、夏の新緑を思わせる翠の色がさりげなく施されていた。
そのすぐ後ろから、ラシッド・レイブンが明るく歩み寄ってくる。
「レオフィア様、踊りも立ち居振る舞いも完璧でした! 本当に見惚れましたよ!」
騎士団長の息子らしく、堂々とした所作で、隠しきれない熱量をそのまま笑顔に乗せる。
「控えめに言って、文句なしの主役でしたね」
続いたのは、冷静な眼差しを眼鏡の奥に宿すシリウス・メルバだった。
彼はグラスを傾けながら、わずかに口元を緩める。
「殿下との調和……いや、それ以上に目を引く存在感でした」
「ありがとう、皆様。……でも、ちょっと褒めすぎではなくて?」
レオノールは穏やかに微笑み、気の置けないやり取りで返す。
その柔らかな笑みの裏では、ほんの少し緊張がほぐれていた。
カッシュが、グラスをひとつ差し出しながら、そっと一言。
「とても、似合っておられますよ」
レオノールはわずかに目を細めて、声を落とす。
「……からかってますの?」
「いいえ。感嘆です」
言葉は穏やかだったが、その声音にはごくわずかに、親しみと静かな敬意が滲んでいた。
レオノールはその気配に微かに目を細め、差し出されたグラスを静かに受け取る。
手袋越しに触れた硝子の冷たさが、緊張で熱を帯びた掌に心地よかった。
「ありがとうございます。では……」
グラスの中の琥珀色の飲み物を一口だけ含み、礼儀正しくグラスを小卓に戻す。
その動きには、洗練された貴族の所作と、レオノール自身の覚悟が滲んでいた。
そして次の瞬間、カッシュの手がすっと差し伸べられる。
「私と一曲、付き合っていただけますか?」
一瞬だけ迷う。
その様子を遠くから見ていたヴァンツァーは、ただ黙って背を向けた。
ヴァンツァーの背中には、言葉にできない感情が静かに沈殿していた。
その背に気づかないふりをして、レオノールは微笑んだ。
「ええ。喜んで」
二人はゆっくりと、舞踏の輪へと加わっていく。
カッシュの手は、先ほどとは違っていた。
柔らかく、けれどしっかりと支えてくれる。 音楽に合わせて、レオノールとカッシュはゆったりと舞い始める。
周囲の視線を気にせず、けれど振る舞いは完璧に――まるで昔から何度も踊ってきたかのように、自然に足が動く。
「上手く化けてる。さすがだな」
リードの合間、カッシュが低く囁いた。口元は動かさず、視線はまっすぐ保ったまま。
「ちゃかすなよ……踊ってる最中だぞ」
レオノールも小さく返す。睫毛の影に、ほんの一瞬だけ照れとも疲れともつかぬ色に染まる。
「本気で褒めてる。よく似合ってる」
言葉はさらりとしているが、その声音にはひとかけらの本音が滲んでいた。
その一言に、レオノールの瞳が微かに伏せられる。
ほんの瞬きにも似た動作。
それは心の揺れを隠すための、ささやかな防壁だった。
カッシュの指先が、レオノールの手をふわりと導く。
ぴたりと合ったステップ。気取らない会話。
だが、それこそが“親しさ”の証でもあり、二人の空気に周囲の令嬢たちの視線が集まる。
そんな囁きが漏れるなか、当の二人は気にも留めず――いや、意図的に無視して――踊り続けていた。
囁かれたその言葉に、レオノールの翠の瞳がほんのわずかに揺れる。
だが、それを悟らせることなく、また完璧な笑みを浮かべた。
まばゆい光と、虚飾と、思惑が渦巻くその空間で。
十四歳の少女──いや、少年は、舞台の中央に立ち続けていた。
その姿を、誰も疑いはしなかった。
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