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こんな裏設定があるなんて聞いてない!裏設定を知ったオレは悪役令嬢の婚約破棄を目指します。  作者: 雪野耳子


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華やかさ100%、居心地0%です。

 馬車の中には、柔らかなクッションと重厚な内装が生み出す静寂が満ちていた。

 走行の揺れにあわせて吊り下げられたランプの光がわずかに揺れ、カーテン越しの陽光が揺らぎながら差し込む。

 レオノールは揺れる窓の外に流れていく街並みを眺めながら、浅く、そして深く、何度も息を吐いていた。

 喉の奥にたまった緊張を吐き出すように。

 心臓の鼓動は服の下で密かに速まり、手のひらにはじんわりと汗がにじんでいた。

 隣に座るミーシャは、そんな彼の様子をそっと見守っていた。

 手元のレースの手袋を整えるふりをしながらも、その目は母親としての柔らかな慈愛と、公爵夫人としての揺るがぬ誇りを湛えている。

 対面の席では、リオンが背筋をぴんと伸ばし、深く腰掛けていた。

 窓から差し込む光が彼の白金の髪を鈍く照らし、年輪を感じさせる穏やかな眼差しを、静かに息づかせていた。

「もう一度、流れを確認しておこうか」

 彼は落ち着いた声でそう言うと、軽く片手を膝に添えて、待つように頷いた。

「……お願いします」

 レオノールは小さくうなずいた。

 低く整えた声のつもりだったが、わずかに震えが混じっていた。

 自分でもそれに気づき、拳をぎゅっと膝の上で握りしめる。

「まず控え室に入って、侍女たちと最終の身支度。ヴァンツァー殿下と合流し、式典の流れを確認。その後、殿下とともに広間へ入場。王に礼を捧げ、ファーストダンス。そして歓談に移る」

 リオンの声は端正で穏やかだった。

 その語り口はどこか朗読のように落ち着いていて、聞いているだけで心が静まっていくようだった。

「大丈夫。何も心配いらないわ。あなたは、この日のために何度も練習してきたでしょう?」

 ミーシャが優しい微笑みを浮かべてレオノールの手に触れた。

 その手は温かく、彼女の声には母としての誇りが滲んでいた。

「……ばれませんか?やっぱり、どこか変だって思われたり……」

 窓の外を一瞥し、レオノールは呟いた。

 不安を押し殺すように口元を引き結びながらも、その声はわずかにかすれていた。

「堂々としていなさい。君の所作には隙がない。君がレオフィアである限り、誰も疑いはしないよ」

 リオンはふっと目を細め、父としての静かな信頼を込めて言葉を贈った。

 やがて馬車が王宮の正門前で徐々に減速し、厚い石畳を滑るように進みながら停まった。

 外では衛兵が整列し、扉を開けるための合図がかすかに聞こえる。

 ミーシャはそっとレオノールの手を握り、柔らかな声で言った。

「胸を張って。あなたは、サヴィアの誇りです。行ってらっしゃい、レオフィア」

 彼女の声は穏やかで、けれども静かに背を押す力を持っていた。

 彼女の瞳には母親としての優しさと、貴族の夫人としての矜持が浮かんでいた。

 リオンもまた、ゆるやかに頷きながら口を開く。

「落ち着いていればいい。誰が見ていようと、自信を持っていれば、真実は揺らがない」

 彼の声音は深く静かで、凛とした信頼が込められていた。

 その言葉は何よりの盾であり、支えだった。

 馬車の扉が開き、まばゆい光が差し込んだ。

 レオノールは青みがかったドレスの裾を指で持ち上げて外に一歩を踏み出す。

 胸元のエメラルドが太陽の光を受け、きらりと控えめに輝いた。

「……ありがとうございます。行ってまいります」

 そう告げた声は柔らかく整っていたが、心の中では緊張と覚悟がせめぎ合っていた。

(大丈夫。オレは、レオフィアとしてここに立っている)

 白い手袋をきゅっと引き直しながら、導かれるまま王宮の中へと進む。

 豪奢な回廊には淡く焚かれた香の香りが漂い、磨き抜かれた大理石の床には深紅の絨毯が静かに敷かれていた。

 天井には華やかな装飾が施され、光を受けて煌めくシャンデリアが頭上に揺れる。

 案内されたのは、他の令嬢たちとは別の個室控え室。

 特別に設えられた控え室には、白絹を透かすような陽の光が静かに降り注ぎ、季節の花々を束ねた香気が空気を撫でていた。

 絹張りのソファと三面鏡、大理石の化粧台が整然と並び、まるで時間さえも、優雅に歩いているような静けさが漂っていた。

「お待ちしておりました、レオフィア様」

 先に控えていたアリーが素早く頭を下げ、シェラが穏やかに微笑む。

「さあ、仕上げに入りましょう。今日の主役にふさわしい姿にいたしますわ」

 シェラの口調は落ち着いていて頼もしい。

 二人の熟練した手つきで、ドレスのシルエットが丁寧に整えられ、髪も手早く結い直される。

 耳元のイヤリングをそっと揺らし、シェラが微調整を加えると、アリーがうっとりと呟いた。

「まるで絵画の中の姫君みたいです……本当に、お綺麗です」

「そうそう、殿下の礼服と並ばれたら、きっと誰も目を逸らせませんよ」

 アリーがにこにこと笑うと、レオノールは苦笑交じりに鏡越しに視線を返す。

「からかうなよ……こっちは、緊張で心臓が持ちそうにないんだから」

「でも、その緊張も含めて、素敵ですわ」

 シェラが柔らかく微笑み、そっと背中に手を添えた。

 鏡越しに映る自分の姿に、レオノールはほんのわずかに眉を寄せた。

 そこにいたのは――どこからどう見ても、完璧な貴族の令嬢だった。

 透き通るように白い肌。

 長く整えられた睫毛に縁取られた大きな瞳は、青みを帯びた深い黒。

 丁寧に巻かれた髪は艶やかな漆黒で、後ろでまとめられた髪束からは、絹糸のような柔らかな光沢がこぼれている。

 淡い青のドレスは上品な光を反射し、裾や袖に施された銀糸の刺繍がまるで霧氷のように繊細で冷ややかに煌めいていた。

 胸元には、深緑のエメラルドがそっと揺れている。

 柔らかな曲線を描く白い首元を引き立てながら、静かに存在感を放っていた。

 仕上がった姿は、どの角度から見ても「レオフィア・サヴィア」だった。

 気品と知性と華やかさを併せ持ち、誰もが一目で見惚れるような――まさに物語の中の、理想的な令嬢そのもの。

(……ますます、ゲームのレオフィアに近づいてるよな)

 ふと、画面の中で見たあの凛としたヒロインの姿が思い出される。

 何もかもが完璧だった、あのキャラクター。誰よりも美しく、冷静で、強く、気高かった。

 けれど今、鏡に映っているのは「自分」だ。

 それなのに、まるで他人の顔を被っているかのような違和感が胸を刺す。

 自分という輪郭が少しずつ削られ、誰か別の誰かに塗り替えられていくような感覚――それが、どうしようもなく居心地が悪かった。

 唇を引き結び、そっと瞳を伏せる。

 そして、次の瞬間。

 レオノールはゆっくりと顔を上げた。

 瞳の奥に宿るのは、淡い決意の光。

 ぐっと背筋を伸ばし、わずかに顎を引いて、再び鏡の中の自分を見据える。

(――そうだ、これは戦装束)

 「オレ」がどれだけ戸惑っていようとも、今日の「私」は立たなければならない。

 この場はただの社交会じゃない。舞台であり、戦場だ。

 たとえ借り物の姿であろうと、ここに立つのは「オレ」自身。

 その覚悟を胸に、静かにうなずいた。

 その時、控え室の扉が控えめにノックされた。

「……そのドレス、前に送ったものと違うな」

 扉が開き、ヴァンツァーが姿を現した。

 ドア枠にもたれるように立ち、青緑の礼服姿のまま、鋭い視線をまっすぐ向けてくる。

 レオノールは背筋を伸ばし、優雅に一礼して微笑んだ。

「ええ、少々手違いがあったようで。でも、こちらの方が殿下のお姿と並ぶには、ふさわしいかと存じますわ」

 微笑を崩すことなく、レオノールは優雅に応じる。

 完璧な仮面の下で、神経だけが鋭く張り詰めていた。

 そんな緊張感が、全身を縛っていた。

 ヴァンツァーは言葉を返さず、ただじっと、鋭い視線で彼女を――いや、彼を見据える。

 怒りや苛立ちをぐっと飲み込んでいるのが、黙っていても伝わってくる。

 自身が用意したドレスも装飾品も、身につけてもらえなかった。その事実だけで、彼の機嫌は著しく損なわれていた。

(……誰のために、ここまで仕上げたと思ってるんだよ)

 レオノールはその視線を受け止めず、あえて視線を逸らすように首を傾け、まるで何も感じていないかのように装いながら、静かに思った。

(……悪いけど、どんなものだったとしても、“似合いたい”とは思わない)

 ヴァンツァーの好みに合うような令嬢になりたいとは思えない。

 仮にそのドレスがどんなに美しく、自分にぴったりのものだったとしても、それを身につけて“彼の理想”に沿う自分になるつもりはなかった。

 心の奥でそう断ち切るように言い聞かせながら、レオノールは再び穏やかな令嬢の仮面を被り、表情を整えた。

 ちょうどそのとき、控え室の扉がノックされる音が響き、皇室付きの侍従たちが控え室へ入り、式典の最終確認が始まった。

 淡々と説明される流れ、立ち位置、礼儀作法。

 レオノールとヴァンツァーは並んで座り、言葉を交わさず説明を聞き続けた。

 空気は張りつめていたが、レオノールは動じず、視線の波が押し寄せる舞台を前に、静かに深呼吸をした。

 そして、扉の外から控えめなノックが聞こえる。

「お時間です」

 従者の低い声が響くと、部屋の空気がわずかに震えたように感じられた。

 レオノールはゆっくりと立ち上がり、ドレスの裾を整えると、白い手袋の指先で胸元のエメラルドをそっとなぞった。

 その輝きに、決意を込めて。

 くるりと振り返り、ヴァンツァーに優雅に手を差し出す。

「参りましょう、殿下」

 ヴァンツァーは何も言わずにその手を取る。互いに視線は交わさずとも、重なる掌にはそれぞれの思惑と緊張がこもっていた。

 二人はゆっくりと歩を進める。

 扉の向こう、待ち受けるのは、数多の視線と虚飾が渦巻く社交の戦場――王宮の大広間だった。


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