ドレスは悪役令嬢の戦闘服です。
「こちらが、アトリエ・セリーヌでございます」
御者の丁寧な声に導かれ、馬車の扉が開く。
柔らかなクッションを押しのけるようにして身を乗り出したレオノールは、侍女の手を借りて馬車からそっと降り立った。
革のブーツが大理石の石畳に触れた瞬間、胸の奥がきゅっと緊張で締めつけられる。
本来であれば、仕立て屋を屋敷に呼んで採寸と仮縫いを行うのが常だった。
だが今回は、舞踏会まで時間がないという理由で、急ぎ店を訪れることとなったのだ。
わかってはいても、この場所まで足を運ぶのはやはり緊張する。
目の前に広がるのは、貴族の間でも評判の高い高級仕立て屋の店舗。
真っ白な壁に淡い金の装飾が優美にあしらわれ、曲線を描いた扉には繊細な銀の細工が施され、朝の光を反射してきらきらと輝いている。
その荘厳な美しさに気圧されたように、レオノールは思わず立ちすくんだ。
「大丈夫ですわ、レオフィア様。あなた様にぴったりのドレスがきっと見つかります」
侍女のアリーが、後ろからそっとその背中を押す。
優しい声と掌のぬくもりに、緊張でこわばっていた肩がわずかにほどける。
「そうだといいけど……」
不安を押し隠すように呟いて、レオノールは一歩を踏み出した。
扉を開けた瞬間、ふわりと香水と花が混じり合った上品な香りが鼻をくすぐる。
大理石の床には絹のカーペットが敷かれ、天井からは小さなシャンデリアがきらめいていた。
空間全体を満たすのは、遠くから響く上品なピアノの旋律。
まるで舞踏会の幕が上がる前のような、静かで洗練された空気に包まれている。
両脇には美しいマネキンたちが並び、それぞれが夢のように優雅なドレスを纏っていた。
「ようこそお越しくださいました。公爵夫人様よりご連絡をいただいております」
出迎えた店員たちは、統一された柔らかな色の制服に身を包み、一斉に優雅に頭を下げた。
レオノールは一瞬たじろぎそうになりながらも、背筋を伸ばし、事前に考えていた台詞を口にする。
「試着は、付き添いの侍女たちに任せますので」
緊張を悟られぬよう、できる限り落ち着いた口調で言い切る。
「かしこまりました。では、ご案内いたします」
導かれた先は、店内奥の個室。
重厚な木の扉を開けて入ったその空間は、まるで一軒家のサロンのように広々としていた。
淡いクリーム色の壁、金の縁取りが施された大きな三面鏡、肌触りの良さそうなソファと、絨毯の上に並ぶトルソーには未完成のドレスがいくつかかけられている。
レオノールは侍女たちの手を借りながら、一着の淡い青のドレスを身体に当てて鏡の前に立った。
「お選びいただいたドレスの色味……こちらは、少しだけ光を透かすと、肌の白さがより引き立ちますわ」
そう言ったのは、控えめな態度ながら目にプロの自信を宿す年配の女性店員だった。
髪をきっちりとまとめ、所作の一つ一つが美しく、職人としての風格が漂っている。
レオノールは、彼女の言葉に自然と背筋を伸ばしていた。
布地の落ち着いた光沢が、室内の柔らかな照明に照らされて静かに輝く。
「それにしても……フリルを封印するだけで、こんなにまともになるんだな」
思わずぽつりとこぼれた声に、鏡越しの自分がくすりと笑う。
背中のリボンを整えていたシェラが、くすっと微笑みながら言った。
「お顔立ちが整っていらっしゃいますから、装飾が控えめなほうが映えるんですのよ」
それに続くように、レオノールが呟く。
「後ろ姿は完全に『令嬢』よね……」
その言葉に、今度はアリーがそっと耳打ちする。
「女装男子とは誰にも気づかれておりませんので、ご安心を」
「……言い方ぁ」
「声です、レオフィア様」
「はいはい……」
三人だけの個室に、くすくすとした柔らかな笑い声が弾ける。
緊張していたレオノールの肩が、少しずつ、確かにほぐれていく。
それは、日常の外にある非日常の空間がもたらす、ほっとした安堵の時間だった。
まさに、その瞬間だった。
「……やれやれ、まさかこんなところで会うとはな」
低く、聞き慣れた声が響いた瞬間、室内の空気がわずかに揺れた。
重厚な扉が静かに開き、現れたのはカッシュだった。
光沢ある木の床に響く足音を忍ばせながら、彼は数歩、ゆっくりと踏み込む。
深緑の上着に身を包んだ彼の姿は、整った所作と相まって、どこか威圧感を伴っていた。
彼は店内に飾られたドレス群を一瞥すると、すぐにレオノールたちに視線を向ける。
その鋭さと冷静さを併せ持つ灰色の瞳が、一瞬だけレオノールの全身を射抜いた。
「……カッシュ!? なんでここに?」
驚いたように声を上げたレオノールは、背筋を伸ばす間もなく、思わずドレスの裾を握りしめた。
けれど、その動揺を覆い隠すように、唇に笑みを浮かべる。
額には薄く汗がにじんでいたが、その表情は崩れなかった。
「母上の付き添いだよ。公爵夫人の紹介と聞いて、もしかしてと思ったら……案の定だ」
カッシュは腕を軽く組み、淡々とした口調で応じながら、レオノールの姿を真正面から見つめる。
その視線にこめられたのは、からかいでも好奇心でもない。
ただ、黙って寄り添うような静かな肯定だった。
「まさか試着姿までは見てないよね?」
レオノールは、半ば祈るように視線を逸らしつつ問いかける。
声の端がわずかに引きつっていた。
「残念ながら、間に合わなかった」
短く返したカッシュは、肩をすくめて微笑を浮かべた。
侍女たち――アリーとシェラは、互いに目を合わせると、どこか安心したような表情でカッシュに小さく会釈する。
顔なじみのやり取りに、自然と柔らかな空気が個室に流れた。
「カッシュ様がいらっしゃるとは思いませんでしたわ」
アリーが明るい声で笑いながら言う。
「まあ、カッシュ様なら意見もくださいますしね」
シェラは一歩下がりながら、落ち着いた調子で言葉を重ねた。
「信頼のおける方が傍におられるのは、レオフィア様にとって何よりでございます」
ふたりの視線には、安心と信頼、そして秘めた気遣いがにじんでいた。
カッシュは軽く頷き、ほんの少しだけ視線を和らげてレオノールを見やった。
「まあ、見守るくらいはするさ。あんまり無理はするなよ」
「……まあ、ちょうど今、終わったところだったし」
レオノールはわざと肩の力を抜いたように言いながら、手元の布地を軽く撫でた。
緊張を誤魔化す動きだったが、その指先にはどこか愛着がこもっていた。
「そうか。気に入ったのがあったか?」
カッシュの問いかけは相変わらずぶっきらぼうだったが、その目にはかすかな気遣いの色が浮かんでいる。
「まあまあ、ってところ。前よりは、ずっといい」
三面鏡の一つに映る自分の姿を一瞥し、レオノールは小さく肩をすくめて笑った。
「なら良かった。……当日は期待してる」
その声音は冗談とも本音ともつかない。だが確かに、見守る者の優しさがあった。
「さあね。当日のサプライズってことで」
視線を交わしながら、ふたりは言葉の端に探り合いと信頼をにじませつつ、軽口を交わす。
アリーとシェラは、微笑ましそうに視線を交わしながらも、さりげなくレオノールのドレスの裾を丁寧に整えた。
仕草は慎ましく、けれど気品を保ったまま、誰に見られても恥ずかしくないように。
その緊張と誇りが、レオノールの瞳に静かに灯っていた。
ふと、三面鏡に映るカッシュの横顔と、自分の姿が並んで見えた。
鏡の中では、正反対のようでいて不思議なほど調和している二人。
硬質な光を湛えたカッシュの灰色の瞳と、柔らかなドレスに身を包んだ自分。
その対比が、どこかくすぐったくて、そして、少しだけ心強く感じられた。
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