息子が優秀すぎると、親は心配が尽きません。
大理石の床に朝陽が差し込み、白と金の調度が静かに輝いている。
サヴィア公爵家の応接室には、朝の光を柔らかく通すレースのカーテンが揺れていた。
窓辺には香のよい花が生けられ、わずかな風が甘い香りを運んでくる。
レオノールは、淡いラベンダー色の普段着用のドレスに身を包み、薄手のショールを羽織ってソファに腰掛けていた。
手元のカップから立ちのぼる紅茶の湯気は、朝の静けさをより際立たせるようだった。
「――あのドレスはやめて、別のものを用意したいなって」
声は柔らかだったが、芯に熱を宿していた。
向かいの椅子に座る母、ミーシャは品のある仕草でカップを置き、紅い瞳をゆるやかに細める。
朝陽がその横顔を照らし、彼女のプラチナブロンドの髪が金色に輝いた。
「やめて? あれは殿下のご意向で選ばれたものよ?」
声音は穏やかで咎めるような響きはない。
けれど、言葉の端々には、長年染みついた貴族としての思考が滲んでいた。
「……そうなんだけど、どう見ても似合わなくて。ミリーたちなんて、言葉を失ってたくらい」
レオノールは少し気まずそうに視線を逸らし、頬をそっと指先で掻いた。
あのドレスを鏡の前で当てたときの、ミリーたち侍女の苦笑と沈黙が脳裏をよぎる。
どんな言葉より雄弁だった。
自分でもわがままを言っているつもりはなかった。
ただ、どうしても――「ムリだっ!」と、心の奥が叫んでいた。
もちろん、本当に言いたいのはそれだけではなかった。
『あのドレス』はヴァンツァーが選んだものではない。
何者かの意図によって、途中ですり替えられた形跡がある。
だが、それをここで母に打ち明けることはできなかった。
母はすでに、公爵家の一員として王家と誠実に関係を築いている立場だ。
今は、ただ似合わないからという一点だけで、押し切るしかない。
ミーシャは喉元に手を添え、小さく笑みを浮かべた。
「ふふ……あなたの顔立ちに、あのフリルは確かに騒がしいわね」
まるで思い出し笑いのように楽しげに言うその様子に、レオノールは肩の力が抜けるのを感じた。
その微笑みに咎める色はなく、どこか楽しんでいるようにも見えた。
その反応に、レオノールは心の中でほっと息をついた。
母は勘の鋭い人だが、今のところ深読みされてはいないようだ。
「仕方ないわね……せっかくだから、あなたにふさわしいドレスを選びましょう」
ミーシャがそう言って背を椅子に預けたとき、光沢のあるドレスの裾が日の光にきらめいた。
「え……いいの?」
思わず身を乗り出すように問うと、ミーシャは紅い瞳で真っ直ぐに見つめ返してきた。
「もちろん。あなたのデビュタントですもの。納得できる姿でなくては」
その言葉は、ただの許可ではなく、誇りをもって立ちなさいというメッセージだった。
レオノールは、胸の奥で何かがふっとほどけるような感覚を覚えながら、ゆっくりと頷く。
「ありがとう、母上……」
ミーシャは優しく目を細めて、ふっと笑った。
「公爵令嬢として、恥のない選択をしなさい。それがあなたらしさにもなるわ」
言いながら、カップを手に取り、もう一度優雅に口をつけた。
「仕立て屋はこちらで手配しておくわね。あなたの希望も、しっかり伝えておくわ」
朝の光が満ちる室内で、紅茶の香りが静かに漂っていた。
そのひとときは、まるで長く続く緊張の前に与えられた、短くも確かな安らぎのようだった。
「それにしても、まさか『デビュタント』なんてね。はぁ……リオンも一体どうする気なのかしら」
それは自分も知りたいとレオノールは思った。
けれど今は、その問いに答える術を持たない。
だからこそ、レオノールは笑顔を保ったまま、何気ない仕草で話題を終わらせる。
やがて紅茶を飲み干したレオノールは、侍女たちに軽やかな口調で予定の確認をしながら、すっと立ち上がり部屋を出ていった。
扉が静かに閉まる音がしてから、ミーシャはカップをそっと置いた。
紅茶の残り香がふんわりと鼻をかすめる。
香りは優雅なのに、胸の内には微かな重みが残ったままだった。た。
レースのカーテン越しに射す陽光が、白金の床をきらきらと照らす。
春の訪れを感じさせる穏やかな朝。だが、その穏やかさとは裏腹に、心の中はずっとざわついていた。
「それにしても……まさか『デビュタント』なんてね」
誰にも聞こえないように、そっと呟く。
レオフィアという仮初の姿――けれど、もう『仮初』などとは言えないほど、あの子はその役割に馴染んでしまっている。
男の子として生まれた我が子が、今や王国でも注目される“公爵令嬢”として人前に立ち、そして第一王子の婚約者。
「……はぁ。リオンも、一体どうする気なのかしら」
机の端に肘をつき、額に指を当てる。
あの人は、あの子を守るつもりで動いたはずだった。けれど、その結果、レオノールは逃れられない立場に置かれたまま。
それがどんなに繊細で危ういことか。
ミーシャには、痛いほどわかっていた。
公爵家の威厳。王家との関係。世間の目。
そんなものの狭間で、あの子は“レオフィア”という仮面をつけたまま、今日も笑っていた。
「……でも」
カップをそっと手に取る。まだ温もりの残る紅茶を一口だけ含み、そっと息を吐いた。
「それでも、あの子は泣き言一つ言わないのよね」
そのことが、時々胸に刺さる。
泣きたいのは、誰より本人のはずなのに。
だからこそ、せめて今日のように、本人が「これがいい」と言ったものには、可能な限り応えてやりたいと思う。
例えそれが、公爵家の常識から外れていたとしても。
例え、リオンの思惑に背くことになったとしても。
「……あの子は、何を思って、何を守ろうとしているのかしらね」
そっと窓の外を見やった。
庭に咲き始めたバラが、風に揺れながら陽の光を受けてきらめいていた。
ミーシャが静かなため息とともにソファから立ち上がり、絹のスカートの裾を揺らして応接室を後にしたのは、朝の紅茶が冷めかけた頃だった。
一方その頃、サヴィア公爵リオンは執務用の書斎にいた。
窓辺に立ち、磨き上げられたガラス越しに、朝陽を浴びる庭の景色を無言で見下ろしている。
整えられた植栽の向こうでは、レオノールが侍女たちと談笑していた。
笑顔を浮かべ、軽やかな仕草で返すその姿は、誰が見ても完璧な「令嬢」そのものだった。
けれど、リオンにとっては、それこそが、頭を悩ませる材料だった。
(……あまりにも自然すぎる)
立ち居振る舞い、声の調子、話す間の取り方。
それらすべてが「女性」としての所作になっていた。
血の繋がった父として、その事実を否応なく突きつけられることが、どれほど複雑か。
「――まだ、お話しにはなられていないのですね。奥様には」
背後からかけられたのは、長年仕える執事サイモンの、低く穏やかな声だった。
リオンは答えず、ただ目を細める。
春の風に揺れる花々の向こうで、レオノールの淡いドレスの裾がふわりと翻った。
その姿を見つめながら、やがて静かに呟いた。
「話すべきことがあるとすれば……それは私ではなく、レオノールの口からであるべきだ」
手にしていたティーカップの中、まだ温もりを残す紅茶が光を反射して微かに揺れた。
「ですが――リオン様。レオノール様がご自身の限界を越えてしまわれる前に、どうか……」
「わかっている」
短く返すその声には、疲労と痛みがにじんでいた。
それでも、父としてではなく、公爵としての顔で言葉を続ける。
「レオフィアとして公の場に立った瞬間、我が家はもう後には退けなかった。あのとき『引く』という選択をしていれば、サヴィア公爵家と王家との関係に深い亀裂が入っただろう。爵位の剥奪すら現実になり得た」
窓の外から聞こえる鳥のさえずりが、妙に遠く感じられる。
「たとえ息子であっても、あの選択が、サヴィア公爵家にとって最も穏当だと判断した。私は、その責任を受け止めるつもりだ」
その口調は静かでありながら、決して揺らがない決意を湛えていた。
だが、サイモンはためらいを見せながらも、なおも言葉を紡ぐ。
「……殿下が、ただの政治的配慮としてこの婚約を選ばれたのであればまだしも、もしも、心から想いを寄せておられるとすれば……それは、いささか厄介なことになりましょう」
「……その可能性は、考えていないわけではない」
リオンの声には、わずかに陰が差していた。
「だが、あの子が自分の意思で“選びたい”と言うのなら――私はそのための舞台くらいは用意してやりたい」
それは、父としてできる、ささやかな誠実のかたち。
「今朝、ミーシャが“ドレスを選び直す”と話していた。……いい判断だ」
「左様でございますか」
「……だが、“レオフィア”をこのまま続けていくなら、もはや誤魔化しだけではどうにもならないだろう」
ティーカップの中の紅茶が、光を受けて再びゆらりと揺れた。
それは、父としての矛盾、責任、そしてこれからの試練を予感させる静かな動きだった。
沈黙の中、リオンはただ一人、庭に立つ娘――いや、息子の姿を見つめ続けていた。
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