婚約者からの贈り物は好みではありませんでした。
レオノールは、ダンスホールの中央でひとり静かに立っていた。
広々とした空間には、天井から吊るされたシャンデリアの光が柔らかく降り注ぎ、磨かれた大理石の床を美しく照らしている。
本来ならば、今頃ヴァンツァーとこの場に立ち、舞踏会本番に向けた練習をしているはずだった。
しかし、待てど暮らせど彼は来ない。
じっと扉を見つめながら、ふと目を伏せる。
練習の開始時間を過ぎても一向に姿を見せないヴァンツァーに、執事へ確認を頼んだのが半刻前。
ようやく現れた侍従は、申し訳なさそうな顔をしながら、ただ一言。
「本日はご都合が悪いため、参加できないとのことです」
それだけの伝言。
「……何故でしょうか?」
問い返しても、返ってくるのは「申し訳ございません」という繰り返し。
理由を言えないのか、言いたくないのか。
どちらにせよ、強引に問い詰めたところで答えが変わるとも思えない。
(また、気まぐれか……)
内心、呆れつつも表には出さず、レオノールは静かに息をついた。
仕方なく、予定通りダンス教師と共に基本のステップを確認し、身体を動かす。
そのとき、扉が勢いよく開かれた。
「はぁ、まったく……」
聞こえてきたのは、いつもと違う苛立ち混じりの低い声。
視線を向けると、そこにいたのはカッシュだった。
普段と変わらぬ冷静な態度かと思いきや、どこか刺々しい空気を纏っている。
「カッシュ様」
思わず名を呼ぶと、彼は短く息を吐いた。
「どういたしましたの?」
レオノールは令嬢らしい落ち着いた口調で尋ねた。
すると、カッシュは眉をわずかに寄せ、「仕方ない」とでも言うように肩をすくめる。
「レオフィア嬢……我が主が申し訳ない」
カッシュは優雅に頭を下げた。レオノールは一瞬驚く。
ヴァンツァーがカッシュを通じて謝罪を?
そんなことがあるのか、と訝しみながらも、カッシュの態度は誠実で、彼自身の意志を持ってここに来たように見えた。
レオノールはわずかに眉を寄せ、彼の顔を見つめる。
「理由は言えないが、私が今日はお相手してもよろしいだろうか?」
そう言って、カッシュは差し出された手を見下ろした。
レオノールは数瞬だけ思案したが、すぐに微笑む。
「助かりますわ」
レースの手袋越しに、カッシュの手をそっと取る。
彼の手は冷たくもなく、熱すぎることもない。
ただ、ヴァンツァーと踊るよりも、ずっと安心できる感触だった。
音楽が始まる。
二人の影が、床に柔らかな光を落とす。
「……どうした?」
小さな声で尋ねると、カッシュは一瞬だけ視線を逸らした。
「すまない。今更練習に付き合わなくてもいいだろうと言って、ストーヴェ伯爵家のお茶会に出かけられてしまった」
レオノールは一瞬沈黙し、それから小さく笑う。
「……なるほどね」
クスッと唇を綻ばせながら、優雅にステップを踏む。
足元は軽やかで、流れる旋律に合わせて身体を預けるように動いた。
「で、お前が来たわけは?」
問いかけると、カッシュは皮肉げな笑みを浮かべる。
「侍従と俺が諫めたんだが、『命令するな』って怒鳴られてな。置いて行かれた」
その言葉に、レオノールの眉がわずかに動く。
「侍従も真っ青でな。妃教育の一環だからな。で、体裁を整えるために俺が来たってわけだ。まあ、戻ってきたら余計なことをするなって怒鳴られるだろうけどな」
カッシュの声は淡々としていたが、その奥にわずかな呆れが滲んでいた。
レオノールは思わず微笑みを深める。
「まあ、オレはヴァンツァーよりはお前とのダンスの方が気が楽だからいいよ」
カッシュはわずかに驚いたような表情を見せ、次の瞬間、わずかに口元を緩めた。
「それは光栄です、レオフィア嬢」
茶化すように言いながらも、その手の導きは紳士的で、スムーズだった。
一曲、二曲、そして三曲。
気がつけば、舞踏会さながらに優雅に踊り続けていた。
音楽が止まり、二人は自然と手を離した。
レオノールは静かに息を整え、手袋越しにほのかに汗ばんだ手をそっと握る。
「……そろそろ休憩にいたしましょうか?」
レオノールがダンス教師に向かって微笑むと、教師は満足げに頷いた。
「ええ、一度休憩を挟みましょう。お二人とも、動きが安定しておられますね」
「ありがとうございます」
レオノールは礼を述べながら、ちらりとカッシュを見る。彼はあまり疲れた様子もなく、淡々とした表情で立っていた。
「カッシュ様も、ありがとうございました」
「いや、俺は付き合っただけだ」
カッシュは肩をすくめる。
「少し、侍女長と確認したいことがございますので、私は一旦失礼いたします。レオフィア様、後ほどまた再開いたしましょう」
ダンス教師はそう言うと、控えていた侍女長と共にホールを後にする。
静寂が訪れた。
レオノールは優雅な仕草で舞踏室の隅にあるソファへと歩み寄り、ゆっくりと腰を下ろす。カッシュもその向かいのソファに腰を下ろした。
レオノールは侍女に目を向ける。
侍女はすぐにお茶の用意をする。
目の前の置かれたティーカップを手に取る。
白磁のカップの縁からほのかに甘い香りが立ち昇る。
「あら、このお茶」
「いかがいたしましたか?」
「ごめんなさい。ダンスの後なのでレイート産の茶葉に変えてもらえるかしら。あちらの方がすっきりとしてるから」
「かしこまりました。すぐにお持ち致します」
侍女が軽く礼をして、静かに部屋を出ていくのを確認するとレオノールは、静かにティーカップを傾けた。
紅茶の琥珀色が揺らぎ、窓から差し込む午後の陽光がその液面を優雅に輝かせていた。
レオノールが紅茶の湯気を眺めていると、カッシュが腕を組みながら問いかける。
「そういえば、ヴァンツァーからのドレスは届いたか?」
カッシュの何気ない問いかけに、レオノールはカップを手に取り、微かに笑った。
「ああ、もちろん。婚約者でキャヴァリエだからな。昨日届いたよ」
そう言いながらも、彼の表情にはわずかに陰が差す。
「ただなぁ……あまり好みのドレスじゃなかった」
「どんなのだ?」
カッシュが興味深そうに身を乗り出す。
「深紅で、フリルが多くあしらわれたドレスだ」
レオノールの声には、微妙な苦笑が混じる。
箱を開けた瞬間、自分も侍女のミリーたちも一瞬固まった。
試しに鏡の前で当ててみたものの、驚くほど似合わない。
あまりの違和感にミリーたちも困惑していたのを覚えている。
「……深紅?」
カッシュの表情が一瞬固まり、鋭い視線がレオノールに向けられる。
「確か、ヴァンツァーは深緑だったはずだ」
「え?」
思わず目を瞬かせる。
普通、エスコートする相手と衣装の色は合わせるものだ。
だが、今回は正反対。
「……嫌がらせか?」
カッシュが低く呟くが、すぐに首を振る。
「いや、さすがにそこまでのことはしないだろう」
カッシュは眉をわずかに寄せ、指先で机の縁をトントンと軽く叩く。
言葉を選ぶような仕草だ。
「普通、エスコートする相手と衣装の色を合わせるものだろう。なのに、お前には深紅、ヴァンツァーは深緑……これはわざとだな」
カッシュはため息混じりに言い、視線を窓の外へと向けた。
レオノールも同じようにそちらへ目をやる。
春風に揺れるバラの花々が、柔らかい日差しを受けて輝いている。
だが、その穏やかさとは裏腹に、自分を取り巻く状況はあまりにも不穏だった。
「そんなことになれば、ヴァンツァーの面目も潰れる」
カッシュは淡々とした口調で言いながら、指先で机の縁を軽く叩いた。
まるで状況を整理するように。
「王太子候補の第一王子が、婚約者と揃いの衣装すら用意できない、もしくは関係がうまくいっていないと噂されるのは避けたいはずだ」
レオノールは小さく息を吐いた。
確かに、そのような憶測が広がれば、ヴァンツァーにとっても都合が悪いだろう。
「でも、わざわざそんなことを企てるとは、よほど婚約を破棄させたい連中がいるってことか」
レオノールは小さく息を吐き、再び窓の外を見た。
政治的な駆け引きの道具にされることには慣れているつもりだったが、こうして直接仕掛けられると、やはり不快なものだ。
「せっかくだから、その思惑に乗るのもいいんじゃないか?」
カッシュが淡々とした口調で言う。
「それが一番いいのはわかる。でも……」
レオノールは目を伏せ、紅茶を一口飲んだ。
温かい液体が喉を通るが、モヤモヤとした感情は消えない。
「正直言って、イヤだ。あのドレスはマジで悪趣味。ヴァンツァーの嫌がらせかと思ったくらいセンスない」
思わず素の言葉が出ると、カッシュは笑いを堪えるように口元を押さえる。
「でも、ま、確かにヴァンツァーの趣味じゃないな」
「むしろ、あいつの趣味ならもうちょっとまともなはずだろ」
「……そうなのか?」
カッシュの問いに、レオノールは肩をすくめる。
「まぁな。少なくとも、あんなにフリルがついているものをあいつが選ぶとは思えない」
「確かにな」
カッシュが苦笑する。
「なら、どうする?」
カッシュが腕を組み、足を組み替えながら、じっとこちらを見つめていた。
「自分の着たいドレスを着る」
レオノールは、ゆっくりとティーカップを置きながら言った。
「お前の着たいドレスってのは?」
低めの声が、穏やかな室内の空気をわずかに引き締める。
レオノールは静かにティーカップを置いた。
「淡い青か、深い緑……もしくは、シンプルなデザインのものがいい」
ふっと息を吐きながら答え、ゆっくりと紅茶を口に含む。
少しでも気持ちを落ち着けるように。
「少なくとも、あの深紅でフリルだらけのドレスはお断りしたい」
苦笑混じりに言うと、カッシュが顎に手を当て、何かを考え込むように目を細めた。
「なら、新しいドレスを用意するしかないな。今から間に合うのか?」
「そのあたりは母に頼む。サヴィア公爵家なら、その程度の準備は容易いだろう」
レオノールはあえて軽やかに言った。
しかし、その胸の奥にはわずかにためらいがあった。
デビュタントの場では、婚約者であるヴァンツァーと踊らなければならない。
それが何よりの問題だった。
「どっちにしても、ヴァンツァーは怒るだろうな」
「自分が用意したドレスを着てこなかったら、な」
カッシュが皮肉げに笑う。
レオノールも肩をすくめた。
「……まあ、それで機嫌を損ねて、キャヴァリエを辞退してくれるなら助かるんだけどな」
「それは期待しないほうがいい。あいつ、そういうプライドだけは高いからな」
レオノールは苦笑した。
「でも、どんな形であれ、これは好機だ」
「ほう?」
「オレは、オレの着たいドレスを着て、堂々とデビュタントに臨むだけだ。それで機嫌を損ねられればいいんだけどな」
レオノールの言葉に、カッシュは一瞬だけ沈黙した後、肩をすくめた。
「……ま、お前らしいやり方だな」
カッシュは肩をすくめ、微かに笑う。レオノールもまた、ふっと唇の端を持ち上げた。
そのとき、扉が静かに開き、侍女が足音を忍ばせながら戻ってきた。
手には銀のトレイ。温かな香りの紅茶がそっとカップに注がれる。
「お待たせいたしました、お茶をお入れいたします」
カップの中で琥珀色の液体が揺れ、立ちのぼる湯気が穏やかな空気を作り出す。
レオノールはカップを手に取り、一口含んだ。先ほどよりも落ち着いた心地がする。
「ありがとう」
侍女が静かに下がると、カッシュがティーカップを手に取ったまま、レオノールをじっと見つめる。
「貴方がどんなドレスを着るのか、楽しみにしてるよ」
「ええ、私にふさわしい一着を選びますわ」
紅茶の温もりを感じながら、レオノールは静かに微笑んだ。
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