評価が上がるのは計算外です。
―――思い通りにいかない。
レオノールは、窓際で深く息を吐いた。
午後の陽光がカーテン越しに柔らかく差し込み、室内を温かく照らしている。
テーブルの上には湯気を立てる紅茶と、色とりどりの焼き菓子が並んでいた。
ほのかに甘い香りが漂い、外の喧騒とは無縁の、穏やかなひとときが広がる。
しかし、その静けさは、レオノールの胸に重くのしかかる焦燥感を和らげることはなかった。
デビュタント――社交界への正式なデビュー。
十四歳になった貴族の子女が成人へと向かう第一歩を踏み出す日。
それが、一か月後だった。
婚約破棄を目指してきたのに、なかなか上手くいかず、ここまで来てしまった。
「ため息なんてついて、そんなに嫌か?」
低く落ち着いた声が、静かな室内に響いた。
レオノールは振り返る。
そこには、ソファにゆったりと寄りかかるカッシュがいた。
午後の光が彼の横顔を照らし、その整った表情に影を落としている。
片腕を肘掛けに預け、長い指でカップの縁をなぞる仕草は、どこか気だるげだった。
「当然だろ」
レオノールは肩をすくめながら答えた。表情には苛立ちが滲んでいる。
「ここまで色々やってきたけど、ヴァンツァーの婚約破棄の話は一向に進展しない。むしろ、あいつの執着が前よりひどくなってる気がする。最近は、ちょっとしたことで側近を使って俺の行動を監視してるみたいだし、先週なんて、『他の男と必要以上に親しくするな』って暗に釘を刺された」
「あれは……まあ、な」
カッシュが僅かに目を細め、紅茶を口に運んだ。
ヴァンツァー・フォン・リズベルト――第一王子であり、レオノール(レオフィア)の婚約者。
彼がレオフィアに執着するのは、単なる恋愛感情ではない。
カッシュが見てきた限りでは、それはむしろ劣等感と対抗心に近いものだった。
レオフィアが学問の場で称賛されるたび、周囲から優秀だと認められるたびに、ヴァンツァーはわずかに表情を曇らせる。
それは一瞬のことだが、見逃すことはできない。
まるで、悔しさを噛み殺すように、唇を引き結ぶのを何度もカッシュは見てきた。
『レオフィアでなくてはならない』
ヴァンツァーは自分でも気づかないうちに、彼女に執着しているように見えた。
ただ、一つだけ確かなのは――ヴァンツァーにとって、レオフィアの存在は「手放したくない何か」になっているということだ。
それが愛なのか、対抗心なのか、あるいはその両方なのかは、本人にすら分からないのかもしれない。
だが、彼がレオフィアを簡単に手放さないことだけは確かだった。
「オレは、あいつに『無能な悪役令嬢』だと思われたくて、色々やってきたはずなのに」
何もできない、公爵令嬢の名ばかりの存在。
第一王子の隣に立つにはふさわしくない、無価値な貴族の娘。
そんなレッテルを貼らせようとしたのに、ヴァンツァーはそれを頑なに拒んでいた。
「逆効果だったんじゃないか?」
カッシュが淡々と言う。
「お前が何をやっても、結局、結果が良い方に転ぶ。無能を装おうとしても、根本的に器用で頭の回転が速いから、そう見えないんだ」
「……どうしろって言うんだよ」
レオノールは苛立ちと共に、カップを持つ手に力を込めた。白磁の器がかすかに震える。
「このままだと、本当に婚約が固定される……! 学園に入る前に、どうにかして破棄しなきゃいけないのに!」
「……」
カッシュは何も言わず、ただじっとレオノールを見ていた。
そんな時、軽やかな足音が響いた。
「まあまあ、そんなに焦らないで、レオ」
ラフィーナは微笑みながらも、カッシュが先にレオノールの隣に座っているのを見て、一瞬だけ視線を落とした。
そして、何気なくテーブルの上に置かれたレオノールの紅茶のカップを、自分の方へと引き寄せるように指先を触れさせる。
「焦るなって……一か月後には、オレが正式に社交界に出るんだぞ?」
「ええ、だからこそ。焦っても仕方ないでしょう?」
穏やかで優しい声が、静かな空間を和らげる。
細く繊細な指がカップを優雅に持ち上げ、白い蒸気の向こうから、レオノールを見つめた。
ラフィーナはそっと微笑む。
「ヴァンツァー様は、自分の婚約者が誰よりも優秀でなければ困るのよ。だから、貴族たちがレオを持ち上げるほど、簡単に手放す気にならない」
彼女は、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「でも、デビュタントで何か問題が起これば、その評価は崩れるかもしれないわ」
「……具体的にどうするつもりなんだ?」
カッシュが問いかけると、ラフィーナは意味ありげに微笑んだ。
「それはね……レオ、あなたがどれだけヴァンツァー様に『ふさわしくない相手』だと見せられるかにかかっているわ」
「だから、それが上手くいかないって言ってるんだよ……」
レオノールは渋い顔をしながら言った。
「でも、それが『デビュタントの場』だったら?」
ラフィーナの言葉に、レオノールは一瞬思考を巡らせた。
「……何か、いい案があるのか?」
ラフィーナは、にこりと微笑み、カッシュを一瞥した。
「レオ、あなた、ダンスは得意?」
「……まあ、それなりには」
「じゃあ、完璧に失敗してみせることは?」
「……え?」
ラフィーナの言葉の意味を理解するのに、一瞬時間がかかった。
「つまり、デビュタントの場で、わざと大失敗してみせるのよ。第一王子の婚約者としての品位を疑われるくらいにね」
レオノールは、カッシュの方を見た。
「……どう思う?」
「やりようによっては、効果はあるかもな」
カッシュは腕を組みながら、静かに言った。
「ただし、ヴァンツァーは簡単に諦めるタイプじゃない。むしろ、レオが失敗すればするほど、『公の場で支えてくれる優しい第一王子』という印象を植え付けかねない。そうなれば、婚約を破棄するどころか、むしろ強化される可能性すらある」
「……それは困る」
「だけど、一つだけ確実なことがあるわ」
ラフィーナが、優しく微笑んだ。
「でも、デビュタントで何か問題が起これば、周囲の見る目が変わるかもしれないわ。それがどんな形であれ、婚約に影響を与えるのは確かよ」
ラフィーナの言葉に、レオノールは小さく息を吐いた。
確かに、それが一番現実的な方法だ。
だけど、さすがにあからさまな失敗は避けたい。
サヴィア公爵家の名誉を傷つけるようなことになれば、余計に面倒なことになる。
それでも、このままでは、婚約破棄の可能性がどんどん遠のいてしまう。
そうなれば、結婚の未来が現実になってしまう。
本当に追い詰められたら、最終手段もあるけれど――。
ゲームと同じように、『悪役令嬢』を演じる道もある。
けれど、それだけは絶対にしたくない。
『悪役令嬢』になるということは、ラフィーナを虐めることと同義だからだ。
そんな選択肢は、最初からあり得ない。
となると、ラフィーナの提案を採用するしかない。
けれど、ただ失敗するだけでは意味がない。
『婚約者として不適格』だと思わせることが肝心だ。
かといって、わざとらしく振る舞えば、公爵家の評判に傷がつく。
しかも、不自然な失敗は、かえってヴァンツァーに庇われる口実を与えかねない。
――どうやって、この絶妙なバランスを取るか。
レオノールはそっと息を整え、窓の外を見やった。
夕陽が街の石畳を柔らかく染め、通りを行き交う人々の笑い声が響く。
風が頬を撫で、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。
先のことなんて分からない。でも、考えすぎても仕方がない。
やるべきことをやるだけ。案外、どうにかなるものだ。
「……まあ、やるしかないよね」
ふっと肩の力を抜き、カップを持ち上げる。
紅茶の温もりが指先に伝わり、その熱がじんわりと心にも染み込んでいくようだった。
読んでいただきありがとうございます。感想など頂けたら嬉しいです。




