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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
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安倉

それから北に向かうと、住吉神社が現れた。ここも昆陽寺と同じに監視カメラのステッカーがいっぱいだった。人気ひとけはなく、静かだった。

ここに古い街道の書きこまれた地図入りの説明があった。それに書きこまれた有馬道は、歩いてきた道ではなかった。アレ?? 一瞬、意味が分からなかった。

安倉交差点から先で道を間違えたと思って、軌道修正して正しい有馬間道を歩いてきたつもりだった。ところがどうやら最初の最初、南野神社の北側あたりから既に道を間違えていたみたい。有馬間道は本当は、北西にじゃなく北北西に進んで行く道だったみたい・・・。

京伏見街道も書かれていて、このもっと北側を通っていた。前に歩いた花屋敷や加茂遺跡(川西市)はその東側。

南野神社あたりから歩いてきた道は尼崎道だった。

そういえば西国街道を歩いたとき、稲野小学校の前に道標があり、「すぐ西宮」「すぐ中山」とあった。

「すぐ」は「まっすぐ行くと」という意味ね。

「すぐ西宮」が西国街道のことで、「すぐ中山」が有馬道のこと。小学校のすぐそばに東天神社があったみたいで、そのあたりを北上するのが本当の有馬間道だった。

有馬道と西国街道が交差するそのあたりは昆陽宿として栄えていたそうだ。そういえば西天神社までの道は、ほぼ面影を失いつつも、かつて宿場だったところの道の感じはしていたな。そして今回の散歩では西国街道とは西天神社あたりで交差。

東天神社あたりを北上するはずが、西天神社あたりを北上する尼崎道を行ってしまったんだなあ。

有馬道はいろんなバージョンがあったらしいし、尼崎に向かう時は尼崎道でも、反対に安倉方面を目指すときには有馬道と呼ばれたかもしれないってことで、まあいいか。尼崎道は安倉のもう少し北で有馬道に合流するみたい。


安倉住吉神社での説明によると、ここに来る手前にあった祠は庚申さんで、近くには公園があり、安倉南遺跡が見つかっているらしかった。縄文時代の土器や石器も出てきたそうだ。

そして安倉という地名は、神社の説明では応神天皇が狩猟にやって来て、ここで鞍を休ませたので「アクラ(安鞍)」だって。

寺を建てるために付近を通った聖徳太子が、馬が動かなくなって休憩。鞍を休ませたのでアクラとなったという話もあるみたい。

この北にある中山寺は、聖徳太子創建と伝わるそうだ。その中山寺を建てるためにやって来ていたのね。

ホクラみたいにアクラがあって、ホダカみたいにアタカがあるのじゃないかな、と思った。

大昔、このあたりにいた荒くれものを住吉神が平定したという話も神社に書かれてあった。


道の続きを行くと、石の祠や旧家があった。

このまま道は続くのだけれど、国道176号線と交差する部分には信号がないので、手前の四辻で左折して進んだ。この道が有馬道だった。有馬間道と本道が合流した後の有馬道(有馬街道)。尼崎道はここで有馬道に合流して終わる。

ここからは上安倉交差点を過ぎて、そのまま直進するのが有馬道だった。けれど、ここまで来たからには、今まで来た道の続きを歩いていこう。というわけで、松林寺とケンタッキーの間の道を北上していった。

このあたりはやや田舎感があった。元は山里だったのだろうな。

あの荒木村重事件で、安倉は焦土と化したそうだ。その後、江戸時代に松林寺は再興され、安倉の念仏道場になったのだって。それ以前のことについては不明。

明治時代には松林寺に小学校があったそうだ。けれど阪神淡路大震災で倒壊。

荒木村重事件にしても、阪神淡路大震災にしても、思ったより広い範囲で被害があったんだなあ。


高速(中国自動車道)の下を通り、安倉北交差点へ。

右手のドラッグストアの裏に細い道があって、ここを北上していった。

すぐ横の道路(市道中山安倉線)は車の騒音でにぎやかだったけれど、ここは誰もいない、里道みたいな贅沢な道だった。

つきあたりを右折。つきあたったのは一段高くなった池で、池の堤に登れる階段もあったので、上を歩いた。

大きな池(安倉上池)の対岸には緑が見えていて、向こうまで周遊してみたい感じがした。池の中央に橋がかかっていて、対岸に行けるようだった。

池の東側にある天日神社なる神社にも行くつもりだったから、暑さでやられかけていたし、遠回りはせずに、そのまま東へ。

右手(南)だけがずうっと続く平野で、あとは全部山だった。

安倉住吉神社の説明によると、安倉は船の出入りする武庫の奥にあたるところだったらしい。この南にはみんな海や半島や島だったところなのかな。東に猪名川を渡った池田市は、ムコに船でやって来たクレハ・アヤハ姉妹が上陸したってところだった。安倉から池田までは、船で陸伝いに行けたりもしたのかも。


途中の階段で池の堤を下り、東に進んでいった。

第一荒牧橋で天王寺川を渡った。ウシガエルが盛大に鳴いていて、びっくりした。

天王寺川の土手沿い、すぐのところに天日神社はあったけれど、門は閉まっていて、大回りして反対側に回らないといけなかった。

時計回りにぐるりと回った。新しくマンションなんかが建っている中、公園があり、神社の入り口があった。

天日てんにち神社は、わざわざ寄り道してやって来た割には、あまり収穫はなかった。祭神はアメノオシホミミ。他、不詳。

そのまま進むと西教寺(真宗本願寺派)があり、天王寺川の土手に戻れる道があった。土手に向かい、ふと見やれば、茅葺きの旧家があった。このあたりも古いところなのだろうな。

もう少し南下すれば容住寺があったようだった。容住寺も聖徳太子の創建と伝わるそうだ。聖徳太子が四天王寺から中山寺にやって来た時、お堂を建てたのに始まるのだとか。

地名は荒牧で、伊丹市だった。北の宝塚市に、南の伊丹市がこのあたりだけせり出していた。古代に牧があったとかな、と思ったら、聖徳太子が「新たに種を蒔き」開墾させたので「あらまき」になったと伝わるそうだ。「安倉」といい、かなりのこじつけだなあ。

容住寺のすぐ南には中国自動車道が走っていて、その南側一帯(北野)は、戦時中には陸軍獣医資材支廠があったところらしかった。大阪(港区)にあったけれど手狭で、ここに移転してきたのだって。軍馬の蹄鉄を作ったりしていたそうだ。

当時は軍馬のほか、軍用ウサギとかもいたみたい。兵隊さんの防寒着のためのウサギだったのかな? 防寒着が足りなくて、飼い犬も差し出すように軍からお達しがあったらしいものな。


ここから天王寺川を北上して、中山寺まで行くつもりだった。けれど暑さにやられてしまって、帰ることにした。

北上して、JR(宝塚線)の中山寺駅を目指した。

中山寺駅はJR総持寺駅に似た感じがした。田舎の中に最近できて、まだそう人も多くないきれいな駅。と思いきや、明治30年にできたのだって。

駅の近くにパン屋さんがあった。駐車場にはガードマンさんがいて、車を誘導してくれるような人気のパン屋さん。

暑い平日だったからか、誘導が必要なほどでは全くなかったけれど、それでもけっこうひっきりなしに人はやって来ていた。パンネル中山寺店だって。

おかあさんがお店にいる間、外で待って、となりの公園で休憩がてらいただいた。

価格が良心的で、おみやげに買って帰った食パンはかなりおいしかった。わたしの好みのあっさりで、しかも300円でおつりがくる安さ(当時)。パッケージも可愛かった。

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