有馬間道のつもりで南野から
そして今度は、有馬道の続きを歩くことにした。
前回、有馬間道を尼崎から北西に、南野神社近くまで歩いていた。そこでは有馬間道は有馬古道として紹介されていた。古くからあったのが有馬間道で、有馬本道はそれより新しいみたい。秀吉さんが有馬に行くのに通ったのは、有馬古道の間道の方。
阪急伊丹線の稲野駅に到着。塚口駅で伊丹線に乗り換えて、次の駅だった。ここからまずは南野神社方面へ。
天気予報では汗ばむ陽気。暑くなってきていて、5月末なのに7月初旬の暑さが続いていた頃で、たくさん歩けるかなあと思いつつだった。改札を出ると、稲野商店街に進んでいった。すぐに「御願塚古墳0.3km」の案内があり、御願塚古墳へ。車道の向かいには行基像。
行基像の右手を北上する道が面白そうで、ここに進んでいった。ここも須佐男神社あたりと同じで、山田さんや箟さんのおうちが多かった。
都市景観形成建築物指定の「箟家住宅」はここにあった。素敵に古い、その隣では、新築住宅が建とうとしていた。古い地蔵堂もあった。「田」のつく名前が多かった。
もう少し西側を北上したら、前に歩いた田中家住宅(都市景観形成建築物指定)の道だった。右手には御願塚農協会館。須佐男神社の緑も見えた。
前回も歩いたけれど、ついまた歩いてみたくなる感じ。けれど先を急ごうとスルー。左折して西へ向かった。新幹線の高架の下の道で、涼しくてよかった。
右手には飛びたつ飛行機が小さく見えた。高架下を歩いている間に、新幹線は4度も通り過ぎた。いちじくやびわがまだ若い実をつけていた。柿も小さな実をつけはじめていた。
かなおか川なる川を渡った。カラスが上手にネットを外して、ゴミをあさって散らかしていた。
左手に南野神社の緑が見えるところで右折。ここからが有馬間道の続き(・・・のはずだった)。この水路沿いの道をひたすら進んでいく。
前にここまでやって来た時に見た道の続きは素敵な感じだったし、水路沿いだし、涼しくて素敵な道なんじゃないかと想像していた。けれど、しばらくは古い家があったりもしたけれど、すぐにただの住宅街になった。水路もほとんど暗渠になっていて、そして日当たりはよすぎた。影の一つもなくて、かなりの暑さだった。
そんな中に、古そうな石碑らしきものがあったりした。
右は美鈴町で左は堀池。そのうち右は昆陽南になって、古そうな家も現れだした。
左手は堀池のままで、人権センターや行基湯なる銭湯のある交流センターがあった。堀池には、昆陽池を掘っていた人々が住み着いたと言われているのだって。
それから寺本東に変わった。このあたりは一帯が水田だったろうって感じがした。右手に池と祠、それから墓地があった。
広い道(国道171号線)に出て、寺本4丁目交差点だった。ここには西国街道歩きでやって来たことがあった。東から大鹿、千僧とやって来て、東天神社、西天神社を通り、ここで南へと曲がったのだった。ほんの少し西には昆陽寺があったのに。
すぐ南には、行基が掘ったというアカイの井戸のある公園などがあった。行基にまつわるものがいっぱいの土地だった。
今回は交差点を渡ると西へ。昆陽寺方向へ進んでいった。
国道171号線も走る広い道路で暗渠になっていたけれど、さっきまでの水路が昆陽寺前に続いているようだった。というか、昆陽寺前を通った水路(昆陽井)が幾筋かに分かれて南流し、その1つが今来た有馬間道沿いの水路なのかな。
寺の前からまた水路が始まり、水路には石橋がかかっていた。かつてはこの石橋を渡ってお参りしていたのだろうけれど、今は国道171号線に阻まれていた。
水路沿いの素敵な小道を西に行くのが有馬間道。その前に昆陽寺へ。
わたしはバッグに入って行ったけれど、「犬のふんは持ち帰って」と書かれていて、犬NGではなかったのかも。
広い境内には人っ子一人いなかった。そして伽藍のあちこちに「監視カメラ」の文字があった。
昆陽寺は行基が創建したお寺の一つ。行基開祖ってお寺が言い伝えを含めあちこちにあるけれど、ここは行基によって開かれたのがほぼ確実なお寺。本尊も行基が彫ったと伝わる薬師如来像なのだって。
わたしの散歩していて知った行基は、池や港などを各地の有力者の誘致でかつくり、その管理などの業務を行うためのお寺とその鎮守の神社を多く建てている。そして行き倒れる人も多かった時代、西国街道などには食事と宿を提供する布施屋も一緒に建てた。当時は旅行する人なんてほぼいなかったけれど、納税ってシステムは既にあり、しかも現物納付。代表者が税である米や布を都まで運ばなければならなかったそうだ。車やホテルや定食屋があるわけでもなくて、布施屋ができるまでは行き倒れになる人も珍しくなかったのだって。
行基は昆陽には5つの池を造ったと言われていて、その業務を行う寺が西国街道にあった安楽院、鎮守が千僧天神社(祭神はオオナムチだけれど、元は猪名権現を祀っていた)。
布施屋だったのが昆陽施院で、それが後にお寺となったのが昆陽寺。
昆陽はこのあたりの地名で、けれどその由来などは不詳。中臣氏(藤原氏)の祖のアメノコヤネが住んでいたからではないかって説などがあるそうだ。
昆陽寺も阪神淡路大震災では大きな被害を被ったのだって。
裏庭みたいなところが広くて、四国八十八ヶ所霊場になっていた。ちょっとした森みたいなところに、赤い帽子をかぶったお地蔵さんたちが点在していて、その感じが不思議でかわいかった。
22番と23番の地蔵の間からお寺を出ると、まっすぐ道が伸びていた。
そこを進むと、神社があった。猪名野神社だった。住宅地の中にぽつんとあった。元は寺と一体だったけれど、切り離されて、間が住宅地になったとかなのだろうな。
寺本地車庫があったけれど、神社についての説明などはなかった。伊丹段丘あたりにも猪名野神社があったから、そこから勧請したとかかな?
神社は犬NGだった。神社の西側の道(寺本川西線)は昆陽池に続いているようで、元はここにも水路が流れていたのかな。
昆陽寺前まで戻って有馬間道の続きを歩いてもよかったのだけれど、ショートカット。ここから西に向かっていった。昆陽寺前から有馬間道は、昆陽井沿いにまずは西へ、それから昆陽井と一緒にカーブして北に向かうようだった。
しっとりした、古そうなところだった。猪名川神社あたりだけが新しい感じ。
水路(昆陽井)沿いに小さな大師堂があって、ここから水路脇の細い道を北上していった。猪名野神社だけじゃなく、この水路も元はお寺にあったのかも。
水路沿いを行くのは、水路だけを見て思うよりは情緒がなかった。左手には広い道路(県道42号尼崎宝塚線)が走っていて、信号待ちしていた車が一斉に走り出す音なんかがよく聞こえた。
それどころかこの水路脇の道にも車が走ってきてびっくりした。遊歩道ではないらしい。でもかつては、とてもいいところだった感じはあった。
道は42号線に出た(池尻交差点)。パンの匂いがしていて、パン屋があるはずだと見れば、オイシスの工場だった。
水路沿いの道の続きを歩くべく、交差点から北西の方向に進んでいった。すっかり住宅街だったけれど、山が見え、一面たんぼだった頃を想像できるようだった。
右手に祠とムクノキ、3つ並べられたベンチ代わりの石があって、左手には小さな墓地が見えた。
もっと行くと、右手が少し高くなっていて、左には低地が広がっていた。
その段差はずっと続いていて、左手が一面大きな池だったとかかな、と思った。それとも反対に、右手が池だったのかな?
左手にちょっとレトロな池尻文化センターがあり、その手前の小さな森の中には市杵島神社が祀られていた。小さい神社だったけれど、石には「享保」の文字も見えた。市杵島神社ということは元は弁天。池によく祀られている。
頭上を飛行機が飛んでいった。
神社を出ると、道を挟んでその向こうにも鳥居が見えて、池尻春日神社だった。池尻文化センターの裏手になるのかな。ここも小さな神社だった。けれど、なんだか厳かだった。ここだけは昔のまんまのようだった。カラスと野鳥の声がした。
行基が猪名野笹原を開拓するにあたり、上池(今も残る昆陽池)と下池を造成。その下池が神社の北側にあったのだって。つまりは来た道の、高くなっていた右側に池があり、低地の広がる左手はみんな田畑だったのだろうな。
そこに「池尻衆」が奈良春日から勧請。弁才天も一緒に祀ったそうで、それが隣の市杵島神社かな。「祓戸者」が云々ということも書かれていたけれど、意味がよく分からなかった。
神社の鳥居の横に、玉垣に囲まれた祠(祓戸社)があって、玉垣には古結さんの名がずらりと並んでいた。
古結と書いて多くはコケツさんと読み、ここ池尻が発祥と思われるのだって。
有馬道に戻ってもう少し行くと西野公園があって、水路は右にカーブしていた。
わたしたちもそれに倣い、大樋橋交差点で車道を渡った。
それからすぐ天神川を大樋橋で渡った。天神川は少し上流で天王寺川を合わせ、この先で武庫川に注ぐ川みたい。天王寺川は中山寺あたりから流れてきて、天神川はその少し東側をほぼ平行して流れてくる。
ここから先は、有馬間道がどう進むのか、いまいち把握していなかった。
そのまま進むと安倉ってあたりに行けて、安倉には有馬道が通っているようだったから、そのまま進むつもりだった。天神川を渡った後、前方2つに分かれる道の左側の上りの道へ。
西側は低地になっていた。武庫川が流れているあたり。
道の左側にはずっと西野変電所がつづいていた。大東市の中垣内と同じに、怖いような風景だった。人のいない金属の畑みたい。
次の信号も直進し、ローソンの西側の道を北上していった。西野霊園があって、西野3丁目交差点にでた。ここは丘だったようなところだった。
この道を、ずっと進んでいった。ずっと住宅街だった。道がどんどん細くなっても進んでいくと、安倉交差点(県道42号尼崎宝塚線)に出た。いつの間にか宝塚市に入っていた。
42号線を渡ると、すぐ古そうな道と交差して、左側への道が素敵な感じだった。ここを進めば北上を続けられたのに、道なりに進む道が有馬間道だと勘違い。信号を渡るうちに向きが変わっていたのに気づかなかった。
大蓮寺なる寺(浄土宗)を過ぎて、やっと道を間違っているのに気づいてUターン。わたしはほとんどずっとおかあさんのだっこだったから楽だったけれど。もう毛むくじゃらの身には暑すぎて、このあたりはほとんどずっと抱っこだった。
信号の近くまで引き返して右折。その前に、少し反対側も歩いてみた。
こちらはこちらでなかなか面白くて、古い家々もあり、交差する道も古い感じだった。個性的な塀だな、と思ったところは安倉高塚古墳だった。
4世紀後半の17mの円墳だって。「赤鳥」と銘のある神獣鏡が出土したそうだ。赤鳥って、3世紀に存在した呉の年号だそうだ。
このあたりは一帯に古墳が多くあったけれど、他はほぼほぼ壊されてしまったのだって。そして安倉高塚古墳もまた、ほぼほぼ壊されて、一部が残っているだけなのだって。
初めて足を踏み入れた宝塚。宝塚の「塚」は古墳のことで、元々多くの古墳があったところらしい。
阪急電車に貼られている宝塚歌劇団のポスターのイメージが強くて、まさか宝塚の塚が古墳の塚だとは思わなかった。