保久良神社
高速の下の43号線を覚浄寺交差点で北に渡った。高速下には「魚崎郷地区・景観形成市民協定」の地図なんかがあった。「浜福鶴吟醸工房 見学無料」の大きな看板もあった。
高速の北側が覚浄寺(真宗本願寺派)のようだったけれど、塀はあるものの、中にはお寺の姿はなかった。中は木々が育ち、草もぼうぼうで、プレハブみたいな建物なんかがあった。お寺は大震災で壊れたままなのかな?
そばには福寿院もあり、海辺の田舎だった感じがしていたけれど、今や高速や大きな道路が走る住宅密集地だった。
西国浜街道は西に向かうけれど、わたしたちは北に向かった。この北のほうにある岡本の保久良神社に行ってみたくて、魚崎八幡宮まで歩いたら、保久良神社を目指そうと決めていた。
保久良神社は阪急岡本駅近くでも道標を見たことのある神社。その祭神が青亀に乗って上陸したところが青木の八坂神社ね。
阪神本線を越えた。北には山。
阪神本線は工事中のようで、片側は新しく高い位置を走り、片側はまだ古いままで、低い高架だった。
「魚崎横屋踏切」まで東に向かい、ここを北上していった。
横屋八幡行宮所があり、地蔵なども祀られていた。さらに行くと、左手に鳥居が見えたので、行ってみた。
その途中にも左手に神社があり、そこは猿田彦神社だった。新しい神社だな、と思ったのだけれど、元は江戸時代の創建らしい。大震災で倒壊して、リニューアルしたのだって。西国浜街道あたりはみんなそんなところばかりだな。
そして見えていた鳥居は、横屋八幡神社だった。国道や駅にも遠くない住宅密集地にあって、静かで、昔を思わせる神社だった。南側の鳥居あたりは新しいのだけれど、一部古いままのところもあって、そこだけが一帯の歴史を物語っているようだった。大震災でも一部だけは持ちこたえたのかな。
すごく情けない声で鳴く鳥がさわいでいた。
神社の北側には川井公園があった。
公園の北側に出て、右折。東に向かっていった。保久良神社のある岡本はここから北東方面にあるから。
だんだん暑くなってきていて、つらい時間帯だった。1時2時がつらい。
剣交差点を過ぎ、本間橋で川を越えて、川沿いを北へ。川は天井川。かつて天井川(周囲よりも高いところを流れる川)だったので天井川だって。
右手に公園が現れて、公園を越えてから右折した。このまま北に向かってもよかったのだけれど、暑くて少しでもと日陰を求めてさらに東へ向かった。1時2時は南の高い位置から太陽が照り付けるので、北や南に進むとほぼ日陰がないんだな。
小寄公園があって、蒸気機関車が置かれていた。このあたりは工場地帯だった感じがした。立小便禁止なんて文言も見えた。けれど今ではマンションが多く建ち、モーツァルトこども園なんてきれいなこども園もあった。
古くからの子どものスポーツクラブみたいな施設があって、津知あたりと同じタイプに見える母親たちがおしゃべりをしていた。元から暮らす人ではないような気がした。「立小便禁止」の看板や、大阪にも似ている湾港あたりには背を向けて、神戸や芦屋ってイメージで自分たちの暮らしを語っているような・・・。
帰りの電車では、阪急電車でおばさまたちが話していた。「あの人、いい人でよかったわ」「そうね~。大阪の、なんていうか下町の人で、しゃべり方はああなんだけど、いい人よ」「大阪の、下町の・・・。ああ、それで・・・」
大阪の下町育ちとしては、ちょっと複雑。
途中で左折して北上していったら、小路交差点だった。前に西国街道で通った、面白くなかった国道2号線。
交差点を過ぎて北に進むと、感じのいいお店がいろいろあった。カフェとか、雑貨屋とか。山がぐんと近くなったのもいい感じ。パン屋さんも2軒あって、最初に気づいたほう(ぱんらぼSaku)でパンをゲット。
すぐのJR神戸線を越すために少々西へ。JRの下をくぐって、本山北町2丁目交差点(山手幹線)を右折。
口分田玄瑞診療所なんていう病院があった。口分田玄瑞って赤穂藩の筆頭藩医であった人らしい。ここはその子孫が開いた病院なのだって。
この先に要玄寺(法華宗)があるはずだった。前に西国街道歩きで要玄寺川を渡って、川上のほうにあると知ったお寺。けれどぱっと見では見つけられなくて、疲れていたのでスルー。次の信号を左折して、北に向かっていった。
小路東踏切で阪急神戸線を渡った。右手は低地になっていて、天井川だろう谷と、その向こうに森とたくさんの旧家が見えた。
そして右手に小路八幡神社(犬NG)。山の中の神社って感じのところだったけれど、山には家々が建ち並んでいた。
このあたりって八幡神社が多いな。魚崎八幡、横屋八幡もそうだった。天井川を遡れば「八幡谷」で、「八幡の滝」もあるみたい。ここ小路には源満仲の家臣だった人が住んでいて、源氏の守り神、八幡大神を祀ったと伝わるのだって。
北に向かうと、どんどん道は細くなっていった。ウグイスが鳴いていた。
建ち並ぶ家家の中には、朽ちた昭和の家なんかもあった。高台に小さいながらしゃれたおうちを建て、年月が過ぎていったんだな。
道が西にカーブし、左には西光寺の案内があった。正面には白い祠が見えた。ここを右折して北へ。
川が道沿いを流れていた。てんのう橋なる橋がかかっていて、その橋を渡った先には住宅がいっぱいだった。橋を渡らず、そのまま進む道には「参道」とあった。山の中に進んでいく上りの道だった。
こんな山中なのに、住宅がごまんと建っているんだなあ。
参道のほうにはこの先は建物はなく、林の中のじぐざぐの舗装道になっていた。送電線があって、こんな山の中に?と思った。神社に電気を送るためのものなのかな?
途中、珍生岩なる磐座があった。そこからは神社はすぐだった。
目の前を1mくらいのヘビが通っていった。散歩するようになって、毎年ヘビに遭遇する。
神社周辺にはけっこう人がいて、ハイキング姿の人がほとんどだった。ロックガーデンを風吹山まで登り、有馬に向かわずに神戸に戻る場合、帰りに使われることの多いコース上に神社があるらしかった。イノシシ注意と書かれてあった。
神社の前で見晴らすと、南に町は遠く、海まで見えた。その向こうの遠くの山々も。
大きな常夜灯があって、「灘の一つ火」とあった。江戸時代のものだそうだ。それ以前からここでは火がたかれ、海を行く人々の目印になって「灘の一つ火」と呼ばれていたのだって。燈台だな。ここから海まで見えるくらいだから、海からもよく見えたのだろうな。
パノラマ図があって、それによると見えているのは、生駒山、二上山、葛城山、金剛山、岩湧山、和泉葛城山、友ヶ島、淡路島。
金剛山と淡路島がどちらも見えるってどういうことよ??と、頭がこんがらがった。いつもは淡路島は東方向から見るものだったからな。ここは神戸で、北から大阪湾方面を見ているわけだった。
それで生駒山から金剛山、友ヶ島(加太と淡路島の間にある島)、淡路島まで一緒に見られるんだな。昔の人の目と澄んだ空気では、金剛山からも灘の火が見えていたのかもしれなかった。
祭神はスサノオだけれど、元々の祭神は相殿の椎根津彦と思われるのだって。
神武天皇(初代天皇)東征の折、海峡に現れて航路を先導し、エシキを倒すのにも一役買った人らしい。どこの海峡かはよく分かっていないけれど、保久良神社の見立てでは明石海峡らしかった。
元はウズ彦といったけれど、椎根津彦の名をもらったのだって。そしてウズ彦は一説によるとアメノホアカリの子孫。アメノホアカリは神武天皇がやってくる前からこの地にいた人。尾張氏や津守氏や丹比氏の祖で、三島の新屋神社(茨木市)などに祀られている。
このあたりには石器時代からずっと人のいた形跡があり、古代からの祭祀の跡もあり、銅戈なども見つかっているのだって。
「ほくら」の名も、祭祀用具の倉を意味する「ほくら」からきているのでは?とも言われているみたい。
神社の説明によると、ほくらの「ほ」は「No.1」、「くら」は「座るところ」という意味だってことだった。
前に行った和泉の槙尾川そばの三林に、穂椋神社跡があった。父鬼街道を歩いていて、池田や和田や黒石なんていう、ただならぬ一帯の近くにあった。
そこもかつての地名がホクラで、その時には「穂高とホクラ」って、「たかおかみとくらおかみ」みたいに対になっているのだろうな、と思った。
まあなんにせよ、いろいろと不明。
神社の奥は市民の森になっていて、そのあたりにもハイキング姿の人たちがいた。神成岩って磐座があった。ロックガーデンはその名の通り岩ばかりの登山道らしいし、このあたりも岩がごろごろしていたのだろうな。
登山会本部があった。保久良山(金鳥山)は毎日登山も盛んに行われている山らしい。
保久良梅林も少し下っていったところにあって、そこにはベンチがいっぱい置かれてあった。前に行った岡本の梅林公園と同じく、かつて梅林できれいだったらしい岡本を偲んで植えられた梅たちなのだって。イノシシ餌付けNGの注意書きがあった。他には誰もいなくて、ここで休憩。パンもいただいた。生地がもちもちで、黒豆あんパンは豆大福みたいでおいしかった。
それから神社を通り抜けて、来た道を帰ることにした。参道からは、海や島まできれいに見えて、見ものだった。
途中の道は「斜面対策工事」が行われていた。ネットの中に石を積んで囲いにするパターンと、斜面にネットをボルトみたいなもので固定するパターンの工事を施工しているようだった。
途中で緑が見えて行ってみると、森みたいになったところがあって、そのそばにはレンガ塀の大きな旧家があった。
旧家沿いに南に向かうと、来るときに通った白い祠の近くに出た。ここから案内の出ている西光寺の方へ下っていった。
西光寺(浄土宗)を過ぎて、もっと下ると、鷺宮八幡があった。産宮とも呼ばれ、明治時代、保久良神社の旅所となったのだって。
それまでは山で神事を行っていたけれど、時代が変わって下里で行われるようになり、ここがその役目をしたということだった。大ケヤキがあったけれど、幹だけだった。
ここから道を下り、道をじぐざぐ岡本駅(阪急神戸線)近くへ。岡本駅もなじみになってきた感じがする。
保久良神社もあって、古い岡本に古墳はなかったのか調べてみると、古墳時代前期の「ヘボソ塚古墳」なる前方後円墳(63m)が駅近くにあったのだって。倍塚もたくさんあったと伝わるそうだ。けれど全部壊されて、街になってしまったのだって。
「岡本のオサパに立てるヘボソ塚 布織る人は岡本にあり」って里歌があったらしい。オサパにヘボソって何だ? 他の国の言葉をむりやり日本語読みにしたみたいな・・・。
保久良神社って、「カタカムナの聖地」としても有名(なのかな?)だそうだ。古代、日本にはアシア族が高い文明をもって存在していて、彼らが残した文献があるそうだ。とある人が、昭和初期のころ、保久良山で出会った老人にそれを託されたのだって。カタカムナ文字という、アシア文明で用いられていた文字で書かれていたそうだ。
そういう古い、ほぼ知られていない文明で用いられていたとされる文字(神代文字)は、日本にもいっぱいあるのだって。ヲシテ(ホツマ)文字とかが有名で、江戸時代に発見(?)されたのだって。ただみんな信ぴょう性には乏しく、創作されたんだろうってことで片付けられているみたい。
漢字が伝わるまでは日本には文字はなかったというのが定説になっているし。
でも、昔には「日本には旧石器時代はなかった」というのが定説だったそうだし、定説が正しいとも限らない。「オサパ」「ヘボソ」はアシア族が使っていた言葉の名残だったりするかもしれない、なんて思った。