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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
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西国浜街道を打出から

5月後半、暑くなり、6月終わりの暑さだとか、7月初めの暑さだとか言っていた。そんな中、散歩に行ってみた。正直、どうかなあと思った。けれど前の年、7月までなら、ビルの日陰の多い都会なら、散歩できなくもないなと思った記憶があって、7月初めくらいの暑さなら行けるんじゃないかな、と。

向かったのは阪神打出駅。

前に西国街道で歩いて、「打出の小槌」の「打出」というのは芦屋市にある地名だというのを知ったところ。

西国街道は西へ、国道2号線あたりを歩いた。それとは別に、もっと海沿いを歩く道もあったのだって。それが西国街道の浜街道と呼ばれるもので、一般庶民はこちらをよく利用したらしい。

西国街道(西国本街道)と西国浜街道は、打出にある親王寺あたりで分かれて西に向かったらしい。それからずっと西でまた合流。津知あたりで分かれ、そこから辻村(津知つぢ村)の名になった、という説もあるみたいだけれど。

西国街道で見た親王寺は、打出駅から結構すぐのところにあった。ここから浜街道を歩いてみることにした。とりあえず魚崎八幡宮まで。


打出駅の改札を出ると打出商店街があった。商店街を少し南下して、西に向かえば西国浜街道だったけれど、とりあえず駅の東にある親王寺方面へ。

緑の多いところだった。丘陵地にあって、北側はこじゃれていた。

線路沿い(北側)の道を東に向かうと、線路沿いには濃い黄色い花がずっと咲いていて、きれいだった。天王寺谷さんのお宅がいっぱいなのが懐かしかった。西国街道歩きで天王寺谷さんが多いなあ、と思ったこのあたりは、大阪の天王寺の四天王寺に由来をもつそうだ。

親王寺も過ぎて踏切を渡ると、交差するのが浜街道。公園があって、地蔵堂があって、小さい石仏がいっぱいだった。西国本街道は丘陵地だったけれど、このあたりは平地。浜街道というだけあって、海辺に近いあたりを歩くんだな。

それから右手に親王寺。「浄土宗阿保山親王寺」とあった。阿保親王が暮らし、亡くなった邸宅の跡地と言われるところ。

左手には国道43号線、その上には阪神高速が走っていた。本街道は国道2号線あたり、浜街道は国道43号線あたりを通っていたらしい。43号線を歩いても面白くないし、その北側をぐねぐねと歩いた。そして打出商店街へ。その直前にパン屋さんがあった。「ドッグパーキング」と書かれて、このあたりでよく見る、首輪かけのある木の椅子を置いてくれていた。思わず立ち寄り、パンをゲット。前回は見逃したら次はなかったからなあ。

それからまたじぐざぐ西に。信号に出て、通りの向こうには川が見えた。宮川地蔵通りとあって、川は宮川。

あの犬NGの朝日ヶ丘集会所(朝日ヶ丘縄文遺跡)の西側の谷を流れ、東山の東、いかりスーパー横を流れ、阿保親王塚(実は4世紀の古墳)のそばを流れ、阿保天神社そばを流れ、ここを流れて海に注ぐ。かつては打出川や呉川などとも呼ばれていたのだって。

左手には地蔵堂があって、ここにも小さな石仏などがいっぱいいた。上が平らな石に地蔵が彫られているタイプが多かったかな。

このあたりも緑が多かった。個人宅にもバラなどが壁につたって育っていた。

信号を過ぎると、一本南の道で西へ。「富田砕花旧居」があった。富田砕花って明治生まれの詩人らしく、亡くなるまでの半生をここで過ごしたのだって。その前には谷崎潤一郎も住んでいたことがあるそうだ。

谷崎潤一郎は明治生まれの小説家で、大正時代に関東大震災で家をなくした後、ここ武庫郡に住むようになったのだって。苦楽園、本山、岡本、魚崎、そしてここにしばらく住んでいたそうだ。


芦屋高校が現れた。ボート部のことが大きく書かれていて、こんなところでボート部?と思ったけれど、そういえば浜が近いのだ。

そばには「あしかび会館」。あしかびは春の季語で、葦の若芽のことらしい。芦屋高校の同窓会が「あしかび会」なのだって。

ここまでもゆるい上りだったけれど、上りがしっかり分かるくらいになり、精道小学校が現れた。村上春樹はこの小学校の出身らしい。

芦屋市って、昭和15年までは精道せいどう村だったのだって。打出村、芦屋村、津知村、三条村あたりが合併して精道村になっていたらしい。

学校前の松の木が立派だった。その向こうは芦屋市役所で、すぐが阪神本線芦屋駅だった。駅の下には南北に川が流れていた。

市役所と駅の間の庭園風のところを抜けていくと小さな平田橋があり、川を渡れた。川は芦屋川だった。川の横を歩けるようになっていて、ハイキング姿の人々がいた。

つきあたりまで西に進み、つきあたりを左折。すぐに右折してまた西へ。ここが急な下り坂だった。いっきに低地に下りていった。この落差の向こうは神戸市。かつては海だったのだろうな。

車道に出て、少し南下して43号線(上には阪神高速)を西に進んでいった。池本貿易なんかがあり、神戸の感じが少しした。

素敵な広場がいくつかあった。ベンチも置かれているのだけれど、日当たりがよすぎた。なにせ初夏の陽気で、日差しが熱かった。木が一本だけある広場もあったけれど、木陰のベンチには先客がいた。


右手に小さな長栄緑地が現れたけれど、入れないように囲われていた。緑地には旧西国浜街道の説明版がたてられていた。ここで43号線から右手に分岐する道へ。

地蔵がいて、栄公園があり、ここで休憩をした。このあたりが深江だったみたい。稲荷神が海からやって来たというところね。

公園の南側の道を西に向かった。途中の交差点に小さな公園(本田公園)があって、札場跡とあった。「西国浜街道」の新しい碑もたっていた。

右手には山がやや近くなり、左手は浜街道と呼ばれた頃は海だったのだろう。素敵なところだったろうけれど、今では市街地でしかなかった。

それから大日霊女神社が現れた。暑かったし、周辺が工事中だしで急ぎ足でちょっとだけ寄った。大日霊女神社と書いてオオヒルメ神社。地元では「だいにっつぁん」と呼ばれているのだって。

岡本近くのオオヒルメ神社は元は大日如来が本尊だったということだったけれど、ここも同じパターンらしい。明治時代、神仏分離で神社になり、大日如来はオオヒルメ(大日女)ってことにされた。

境内には「深江史の庭」という一角があって、石碑などが並べられていた。元は各所にあった碑などが、住宅地にされるうちにここに集められたのだろうな。もしくは阪神大震災の後で。

このあたりは魚屋ととや道の始点でもあったらしい。昔、浜でとれた魚を有馬に届けるのに使われた道だそうだ。当時から有馬温泉では美味しい料理を出していたのかな。新鮮な魚が重宝され、最速で届けられる有馬への直通の山越え道が魚屋道と呼ばれたのかな。

その山に祀られていた神様などもここに移されているらしかった。


元の道を西に向かっていった。

高橋川を深江橋で渡った。高橋川は森稲荷神社の近くに流れていた川だ。このすぐ北が深江駅(阪神本線)で、もっと行くと森稲荷神社のようだった。

橋の手前には踊松地蔵がいた。たくさんの石地蔵などが集められていて、ほとんどが中世の「一石五輪塔」ってことだった。このあたりのお地蔵さんも、低い位置にあるものが多かったな。

川を越えてすぐの信号を南にいったところには「踊松の碑」があった。このあたりに踊松と呼ばれる松の巨木があったのだって。どうして踊松というのかは分からないけれど、枝ぶりが躍っているようだったからかな、ってことだった。

碑の北側の道を西へ。本庄小学校があり、松があった。「浜街道名残の松」と説明があった。精道小学校の松より随分小さかった。

「本庄村役場跡之碑」や本庄中学校。小学校も中学校も、建物が明治時代風で、可愛かった。それから本庄公園。

道路をはさんで西側も公園で、ここが木々とベンチのある素敵なところだった。ここで一休み。木陰は涼しかった。パンもいただいた。


また西に進むと、しばらくは新興住宅地の感じだった。左手に「青木分団」と書かれたシャッターの見えるところで左折。青木分団の裏が八坂神社だった。

赤い火の見櫓があった。玉垣には「金五拾圓」とあった。境内には本庄村道路元標があったようだった。

ここは岡本の北にある保久良神社の祭神が上陸したといわれているところらしい。そこに建てられたのが八坂神社なのだって。

ここ青木おおぎは、その上陸した祭神が青亀おうぎに乗ってやって来たという伝説からとった地名だと思われるのだって。

6月には毎週土曜日に青木駅前で夜店をやりますというポスターを何度か見た。つながりを大事にしている地域なのかなってイメージだった。新しくやってくる若い世帯も多くて、歓迎することを決めた地域なのかな。

神社の前は久しぶりの43号線で、しばらくは43号線を西に向かっていった。竹本交差点に至って、このまま進むのが西国浜街道かな。けれど43号線は面白くないし、神戸市の「西国浜街道まわり道」と称するウォーキングコースを歩いてみることに。


竹本交差点で高速の下の歩道橋を渡って南に進み、つきあたりでまで行くと、「ボート」の文字。

「青木魚市場の地」「西国浜街道まわり道」の碑があった。

この少し南側が大阪湾のようだった。ただ、今では埋め立て地で囲まれていて分からなかった。

さっきから高いところを車が走っているのが見えていたのは阪神高速湾岸線。堺や大阪市住之江区の方から続いている高速だった。このあたりは雰囲気も住之江区の感じに似ていた。大きな倉庫なんかの建物や、高速道路。

「防犯カメラ」の文字が目立った。神戸と言ってもここはイメージする神戸とは違っていた。

同じような高層の共同住宅が並んでいた。小さな子と歩く妊婦さんと通り過ぎた。人もいっぱい住んでいるんだな。

西に歩いていくと、道は橋に向かっていった。天井橋だって。

下には河口部分が見えていた。天井川が大阪湾に注ぐところ。天井川は保久良神社の西側を通って南下してくる川みたい。

橋には金網状の天井アーチがついていた。そのアーチの下、上りの長い橋を進んでいく。なんだか不思議な世界に向かっているみたいだった。

けれど普通に公道に降りて、信号を右折。魚崎中学校があり、途中で左折して西に向かった。左手に小さな公園があって、ここにも手押しのポンプがあった。

それから浜公園。ここには沿道にアーモンドの木が植えられていて、実をつけていた。緑の果肉で包まれた、ふとい柿の種みたいな形をしていた。

それから右手、道を入ったところに鳥居が見えて、行ってみると魚崎八幡宮だった。境内には「神依松」として、木の幹が2つ残されて祀られていた。

神功皇后が三韓征伐から帰って来た時、先に進めなくなって神に問うと、アマテラスの荒魂を広田に祀るよういわれ、それが今の広田神社だという話があった。ここにはその時、神功皇后が舟を着けて綱を結んだ松があったのだって。

それが「神依松」で、その地に神を祀ったのが魚崎八幡宮らしい。今の祭神は八幡神、神功皇后の息子である応神天皇ということになっていた。


魚崎八幡の北側は公園になっていた。五百地公園で、「五百」と書いて「いお」。

魚崎の「うお」は元はいお(五百)だったのかな?と思った。やっぱりそうで、魚崎は元は五百崎いおざきと呼ばれていたそうだ。船が五百集まったので「五百崎」になったんだとか。

前に行った五百住(高槻市)は、五百人の農民が住んだので「五百住よすみ」になったって話があった。どちらもとってつけたような話だな。

元は青木おおぎも五百崎も「いお」だか「おお」だかからきた地名かも、と思った。

八尾木よおぎ(八尾市)や八木(夜疑神社のある岸和田市)にも似ているような気がしないでもなくて、元々は関連があったのかも??

公園には「左兵庫道 右大坂道」と書かれた三角の石があった。「出雲大社地鎮祭守護地」ともあった。あと「大木戸森右衛門生誕の地」。

大木戸さんって大阪の湊部屋の力士で、大正時代の頃の横綱だそうだ。実家は酒樽製造をしていて、若いころは港湾で働いていたのだって。THE魚崎生まれって感じの生い立ちだな。

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