芦屋の会下山遺跡
山手幹線を引き返し、西に向かっていった。ラポルテなるJR芦屋駅の商業施設があり、地名は船戸町に。
神功皇后の三韓征伐に同行して道案内したのが住吉三神と船戸神じゃなかったっけ。どうしてここが船戸町になったのかは、調べてもよく分からなかった。
それから「芦屋川隧道」が現れた。芦屋川を山手幹線がくぐる入り口になっているのだけれど、車しか進入できない。
歩行者や自転車用にはもう少し芦屋川の近くまで行ったところに隧道の入口があった。大阪にもこんな隧道があって、ちょっと怖いようなところだったけれど、芦屋でも同じようなものだった。
わたしたちは隧道じゃなく、少し北にかかる橋で芦屋川を渡った。直進したところにトルハルバンみたいな大きな石像が見えて、行ってみると俵美術館なる小さな美術館だった。
山手幹線に戻って西に進んだ。ここから前田公園と清水公園に行くつもりだった。どちらでも遺跡が見つかっているのだって。
西芦屋町交差点を南に進み、JR神戸線を下に見ながら跨線橋を渡って行くと前田公園。東屋なんかがあって、素敵だった。ここは後で知ったことには個人のおうちを公園にしたところだそうだ。大震災で全壊して、跡地を芦屋市が買い取ったのだって。
そして工事で遺跡が見つかった。弥生時代の水田跡で、2400年程前の人の足跡も見つかったそうだ。ここには小さな水田が、清水には宅地が、寺田には墓があったのだって。
前田公園の少し西が清水公園だった。清水遺跡が見つかったというところ。ビオトーブなどがあり、水辺の感じになっていて、ここも素敵な公園だった。かつて東川が流れていたらしく、その一部を利用した感じの縦長の公園。
この地下にあるらしい遺跡は井戸の跡で、12世紀の土師器や土器が見つかっているそうだ。平安時代の終わりくらいかな。同じ清水町で六条遺跡も見つかっているらしくて、弥生時代の住居跡が見つかったというのはそちらなのかな。
前田公園と同じく、手押しポンプがあった。神戸や芦屋の公園ではよく見かけた。大震災での教訓でかな? そして地下水が豊富だってことの表れでもあるのかな。
前田公園も清水公園も、遠くからわざわざ来るほどのところではなかったな・・・と思った。小さいし、特にどうってことはなかった。後で知ったことには、清水町も前田町も阪神大震災の被害が甚大で、震災後に区画整理されたところらしく、それで新興住宅地のようになってしまっていて、そう感じたのだろうな。
清水町と前田町は西国街道歩きでも通ったところだった。国道2号線をてくてく歩いただけで特に記憶にないのも、区画整理されて新しくなったところだったからなんだろうな。
そしてこのすぐ南が津知公園。西国街道歩きの途中、休憩しようと行ってみれば、大きな公園なのに犬NGでがっかりしたところ。北に行けば素敵な清水公園があったんだな。
津知もまた震災できれいになったところらしかった。津知遺跡が見つかっていて、旧石器時代後期のものも出てきたそうだ。前に津知公園の近くに神社とか市内最古の金石文とかがきれいに固まってあるのを見たけれど、それも震災で壊れて区画整理して集められたのだろうな。
西国街道歩きでは、津知から西には一気に坂を下り、神戸市に入って行った。芦屋のこのあたりは高台で、それで旧石器時代とか縄文時代のものも残っているのだろうな。
清水公園からはまた北に向かい、すぐの三条街道踏切でJR神戸線を渡った。山が近かった。
ここを北に向かう途中に寺田遺跡があるはずだった。けれど、全くどこかも分からなかった・・・。
後で知ったことには、寺田遺跡はこのあたり一帯に広がっていたようだった。縄文時代後期からの遺跡で、弥生時代末期の住居の跡なども見つかったのだって。あと墓地もかな?
けれどただただ、ただの住宅街のようだった。震災後、復興のために各地から遺跡の学芸員たちが応援にやって来たそうだ。そしてあちこちで見つかる遺跡をとり急ぎ調べ、けれど復興が急がれたのだろうな。遺跡を町づくりにもりこむとかの余裕はなく、どんどん住居が建てられていったのだろうな。
実はこのあたりには遺跡が多いそうだ。冠遺跡、月若遺跡、芦屋廃寺遺跡、三条九ノ坪遺跡、三条岡山遺跡。みんな縄文時代か弥生時代の頃からの遺跡。
山手幹線を渡り、阪急神戸線の高架をくぐると、右手が三条八幡神社だった。少し高台にあって、昔の感じをちょっと残した神社だった。芦屋市って、打出村、芦屋村(芦屋神社あたり)、津知村と三条村が合併してできたそうだ。「三条」は、条里制の名残らしい。
狭い境内には合祀されたのだろう神様がいっぱいいた。無人の神社のようで、防犯カメラがいっぱい設置されていた。
この北のあたり一帯にひろがる大きな寺(芦屋廃寺)がかつてあり、その鎮守として建てられたのが三条八幡神社の始まりとされているらしい。芦屋廃寺は行基が建てた塩通山法恩寺なる寺のことだと思われるのだって。室町時代に廃寺になったみたい。そこに祀られていた薬師如来を本尊としていたのが芦屋神社そばにあった薬師寺・・・だったのかな?
行基が建てた堺の高倉寺が「大須恵山」で、須恵器の製作地だったみたいに、「塩通山」であるからには、ここは浜で作った塩を流通させていた一帯だったのかな?
神社の北側の道を西に向かっていった。三条公園を越え、阪急電車に沿って進んでいった。
芦屋市から神戸市に入り、まだ行くと、右手に鳥居が現れた。ここが森稲荷神社。前に西国街道を歩いていて赤鳥居があった、その神社だった。
715年、海から深江に稲荷神がやって来て、ここに鎮座したとされるのだって。深江はここを南に行った海のそば。
森稲荷の北、右に行くと風吹山と道標があった。風吹山って、ロックガーデンから有馬に行く人気のハイキングコースのハイライトの1つ。
ここをそのまま北に向かった。前方に2つに分かれる道のうち、右手に進んでいった。道はゆるい上りで、左手には甲南女子大。右手にはテラスハウスや森墓地があって、田舎の雰囲気だった。
右手に現れた甲南橋で高橋川を渡った。道は甲南女子高校の校門前で方向を変え、北に向かっていき、どんどん坂を上っていった。見晴らしがよくなり、振り返ると海も見えた。それでもこのあたりにも大きな家もあった。
このあたりでまた芦屋市に入ったみたい。最後に急な上り道があって、上りきると正面に山手中学校があった。
左折してさらに上っていくと、墓地があって、寺(宗円寺。廃寺かな?)があった。その横に「会下山遺跡はこちら」と書かれているところがあった。フェンスがあって、手動で鍵を開けて出入りするようになっていた。
ここからどれくらい上ったら着くんだろう? 分からないままに上っていった。急な、半ば崩れた階段道を、けっこう上ったような気がする。
台風の影響で地盤がゆるくなっているので気をつけてとあった。本当に崩れかけているところもあった。乾燥した砂で滑りやすくて、本当はトレッキングシューズなんかで来た方がいいかもしれない。そして遺跡にたどり着いた。国の史跡でもある会下山遺跡。
人っ子一人いなくて、ひっそり、こっそり、こじんまりとあった。その代わり、昔のままに近い状態を感じられたような気もする。
遺跡は山の中、ハイキング道にあり、ハイキング道の短い距離でつながったところに円形の住居の跡がいくつかあった。低い位置には高床式倉庫が再現(立入禁止)されていて、ネズミ返しなんかもついていた。
高い位置には位の高い人のおうち跡と、祭祀場跡。祭祀場跡では木炭の跡などが見つかったのだって。
一帯を歩いていると、当時の人の気持ちにちょっとなれたような気がした。わたし(弥生犬)がご近所のおうち(弥生人)を訪ねていく、その道中のようで、楽しかった。
会下山遺跡に人が暮らしていたのは、弥生時代、紀元前2世紀から紀元前1世紀の頃と思われるそうだ。
そんな昔、少し離れたおうちに訪ねていく人は、どんな服を着て、どんな言葉でしゃべって、どんな視力でものを見ていたのかな。隣人を呼ぶときは、どんな名で呼んだのかな。その名は、住んでいるところの特徴や、幼いころの特徴なんかで決まったのかな。
こんなに昔のままの状態に近く残っているのは、ここが開発されなかったからのようだった。けれどすぐ近くまで開発されて中学校もできたから、昭和29年、裏山のここにやってきた中学生たちによって弥生式土器が多数発見されたそうだ。そして会下山遺跡が発掘された。
会下山遺跡は、弥生時代の高地性集落。戦いがあって高地に住んだと言われる弥生時代の終わりではなく、もっと早い時代の高地性集落。
遺跡の入口に置かれていたパンフレットには「高地性集落の謎はまだまだ分からないことばかり」と書かれていた。
謎・・・なのかな? わたしには普通のことに思える。多くの人々が海からやって来ただろう時代、みんなが平野に暮らし、水田を耕していたとは思えない。高い位置で見張りをする必要は、緊張状態になくても感じただろうし、そんなのはなくても高いところで住みたい人だっていっぱいいただろうし。
今の人間の世界って、ちょっと変わってるな、と思う。みんなが同じように働いて、同じ価値観をもっていないといけないみたいになっている。働く=善、お金=善、生産=善、みんなに足並みを合わせる=善、みたいな。
けれどそこからドロップアウトする人々もいる。テレビで言っていたけれど、日本には引きこもりの人が100万人くらいいるんだって。一定の能力を持って、一定のやる気と時間を差し出して、一定の成果をあげなければいけない世界だからな。
けれど昔には、時間を差し出して労働するって選択をしない人は当たり前にごまんといただろう。水田が主流になってきても、農作業をしませんって人々もたくさんいただろう。
誰かのためにはハタラキマセン、自分たちの面倒は自分たちでみますって集団もいただろうな。自由気ままに暮らし、山を駆け、その代わりに海を見はって、不穏な動きを平野の人々に知らせていたかもしれない。熊を射止めたりした日には、米と交換したりもしたかもしれない。
そのうち国の統一が進んでいくと、できるだけ多くの人々をとりこんで、働かせようとしたのかな。後の○○部って人々は、分かりました、働きますといって自分の時間を差し出した、一部の人々だったのかも。
いやだって人々は山にこもったりしたのかもしれない。今はこもれる山もないし、おうちにこもっているのかな。
犬で想像してみた。
サーカス団がすごい権力を持つようになり、すべての犬はサーカス団に属しなさいと言われたらどうだろう。スターになる犬もいるだろうし、楽しくサーカス団でやっていける犬もいるだろう。けれど向いていない犬や、他のことをやりたい犬もいっぱいいるだろうな。抜け出して、山の中で暮らす犬たちもいるだろうな。
生まれた時からサーカス団に入る前提で食べさせてもらっていると・・・抜け出すにはバイタリティーや具体的な計画が必要だろうなあ。それよりはサーカス団の中で暮らす方が楽だろうな・・・。
会下山遺跡に行ってみるという目的は達成して、芦屋川駅から帰るべく、道を下っていった。
やっぱり芦屋は古いところだったな。
旧石器時代から人がいて、弥生時代になると水田をつくり、古墳時代には古墳を造り、ずっと生活が続いてきたんだな。古墳は、親王塚(4世紀)、金津山古墳(5世紀後半)、打出小槌古墳(5世紀後半)、みんな宮川近く。それから八十塚古墳群など(6~7世紀)がつくられた。
後には芦屋廃寺などの寺もつくられた。
この日は帰りまで食べ物なしだったんだよね・・・。いっぱいあるだろうと思っていたパン屋には結局一度も出会えなかった。
駅近くの小さなお店でワッフルをゲット。クロワッサン生地とはいえ、焼きたてでもない冷めたワッフルに270円(当時)かあ、とおかあさん。
芦屋川駅から風吹山に何度かハイキングしたことのあるおかあさんは、昔からこのワッフル屋さんを知っているそうだ。最初は本当にシンプルなワッフルを売るお店で、金額も良心的で、おいしかったそうだ。
それから「百貨店にもだしているんですよ~」とおしゃべりな店主になり、ごてごて飾りのある、その分高い、冷めたワッフルを売るようになり、久しぶりに来ると、クロワッサン生地のワッフルのお店になっていた、というわけだった。
まあ、おいしかったけどね。
雨予報の中、どうなるかと思いつつ行ったんだけれど雨は降らず、日が照って暑いくらいだった。けれど家でうとうとしていたら、ざあざあと雨が降りだした。降雨量2~3ってところだった。