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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
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東高野街道を郡津まで

道なりに進み、車道を渡って私部西4北交差点に。

右手に墓地があって、その横の旧道に進んでいった。旧道は残っているけれど、普通の住宅地だった。

地名は茄子作なすづくり東町で、茄子作の古い集落はもっと西にあったのだろうな。ここは田んぼだったところと見えて、みんな住宅地になっていて、面白みはなかった。

茄子作でも弥生時代から古墳時代にかけての集落の跡が見つかっているそうだ。茄子作の地名の由来は不明。

東に1kmほどいったあたりに森というところがあって、森遺跡や森古墳群が見つかっているらしい。森遺跡は5世紀頃のもので、鍛冶を行っていた形跡もあるのだって。一帯を本拠としていただろう肩野物部に関わる遺跡と思われるそうだ。

肩野物部が弥生時代に入植し、古墳群をつくり、鍛冶も行っていたのかな。

右手に川が現れて、天野川だった。前に歩いた磐船街道で、ほぼずっと近くを流れていた川。対岸は梅が枝で、堤の向こうの低地に団地が並んでいたあたり。

天野川の堤に出て、広い道(府道18号枚方交野寝屋川線)で橋(新天野川橋)を渡った。

橋の上から来た方向(南)を見ると、川とその向こうの山山(生駒山地かな)が見えた。そして、川と山々の間に高速道路。

東西にはずっと平野が続いているようだった。


そのまま18号線を北上していくと、梅が枝交差点。すぐに京阪電車(学研都市線)の踏切を渡った。この左手が郡津こうづ駅。

郡津は歴史フルなところのようだった。交野郡の郡衙があったかも、といわれるところ。郡衙に入る門があって「郡門こうど」と呼ばれ、後に郡津と改められたのだって。

今回の東高野街道歩きはここまで。あとは郡津を散歩して、郡津駅から帰ろうと決めていた。

踏切に沿って川が流れていて、遊歩道もあった。ここを東に行けば長宝寺小学校だった。けれど下調べがあいまいで、じぐざぐ遠回りして、田んぼの中の道など通って長法寺小学校へ。

小学校の北側を東に進み、最初の辻で左折すると郡津神社だった。

白鳳時代、長宝寺なる寺院が建てられていたところらしい。西には交野郡の郡衙がおかれていて、郡司が建てた寺だったのかも、とされている。鎌倉時代に焼失し、神社だけが残ったそうだ。

なんだか特別なところの雰囲気を残したまま、横は児童公園になっていて、素敵なところだった。

祭神はスサノオで、他のところに祀られていた住吉神、アマテラスも合祀。


神社から少しだけ北上し、すぐ左折すると高台で、特別なところだった感じがした。

新しい家がいっぱい建っていたけれど、かなり古いおうちも残っていた。北は低地になっていて、池だったのかもという感じがした。池を望む高台で、そこに郡衙や寺があったのかも? もっと前には津(港)があって、それで郡津なのかも?

郡衙跡の碑や、お寺があった。明遍寺だって。

高野山の僧に明遍という人がいて、東高野街道を通ってたびたび延暦寺に通っていたそうだ。延暦寺の法然(浄土宗)の弟子でもあったらしい。長い道のりの途中の茶屋付近で説法を説いていて、そこが寺になったのが明遍寺だって。

お坊さんって、名門の人が多くて驚くけれど、この明遍もそうだった。源義朝に殺された信西の子だって。

信西って初耳で、ちょっと調べてみた。平清盛や鳥羽上皇の時代の人で、藤原氏だったけれどわけあって出家。けれど出家とは名ばかりで、養育していた男子が天皇に(後白河天皇)なると、側近として権勢をふるい、アンチがうまれ、襲撃された(平治の乱)。アンチ一派に源義朝もいたのかな。

信西は自害。斬首され、さらし首になった。信西の大勢いた子の一人が明遍で、明遍は配流に。後に出家して高野山に。

そしてここを通って向かった比叡山に法然がいたんだな、と驚いた。

比叡山延暦寺は最澄が開いた天台宗の寺院だというから、法然とかは関係ないかと思っていた。

比叡山で学んだのは、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、良忍(融通念仏宗)、日蓮(日蓮宗)など。みんなが学ぶべき特別な寺だったんだな。

最澄の俗名は三津首広野。真偽のほどは分からないけれど、坂上田村麻呂の先祖をたどると後漢の王、霊帝だってことだった。最澄の先祖もまた同じなのだって。

むむむ。

秦氏の母をもつ法然は、この人も名門の出だったけれど、わけあって出家。叔父(秦氏)に比叡山で学問することを勧められ、比叡山へ。そこで浄土宗を開いたのだって(1175年)。


明遍寺から、住宅地や旧道を通ってじぐざぐ行くと、丸山古墳の碑があった。それから入り口が。

小山に木の階段があって、じぐざぐ上っていった。上には祠があって、ただそれだけだった。見晴らしはよかった。

今は削られて小さな丸い山のようになっているけれど、元は古墳で、前方後円墳だったかもしれないのだって。詳細は不明。

それからかなり古そうな極楽寺(融通念仏宗)へ。どんつきにあって、隠れ家みたいだった。

そして帰るべく郡津駅を目指したのだけれど、郡津は道が複雑だった。かつて環濠集落だったというし、わざとこういうつくりなのだろうな。

郡津の西の一帯には幾野と生野があって、どちらも「水の便の悪い原野」からきているんだとか。わたしは「イクさん」の「イク」からきているんじゃないかと勝手に思った。

近くを流れる天野川の下流に伊香郷があって、息長氏一族が住んでいたと思われるのだって。

今、田宮本町となっているあたりに田宮郷や田宮津があって、息長一族の田宮姫の里と思われるのだとか。田宮姫って、応神天皇の息子、ワカヌケフタマタ(母は息長氏)の娘、田宮中姫のことかな。継体天皇の曽祖父、オオオドや忍坂大中姫(允恭天皇の皇后)の同母妹。

それならば生野や幾野は、「イクさん」の関係でもおかしくはない。

息長さんの本拠地の1つである近江には日撫ひなで神社があって、神功皇后の創建と伝わり、神功皇后の父(息長宿禰王)と応神天皇、スクナヒコナが祀られているそうだ。地名が米原市顔戸ごうど


もしかしたら、幾野は水の便の悪い原野のことだとか、星田は干し田からきているとか、本当ではないのかもしれない。

私市などには住吉神社がけっこうあって、それも、磐船神社(ニギハヤヒが降臨したところ)がいつしか「船」の神さまに代わってしまって、村々の神社も住吉神(船の神さま)になってしまったのだろうってことだった。けれど本当かな?

ここは、河内湾が生駒山地の方まで伸びていたって時代から栄えていたところで、津があって、住吉神も祀られていたのかも。

息長氏の神功皇后は三韓征伐に住吉神とともに赴いた。息長氏らイクさん一族と住吉神は関係があって、このあたりに住吉神社が多いのかもしれない。

すっかり住宅地になって味気ない交野はあまり自分の歴史を語っていない。語るにしても「星田は干し田からきているのだろう」とか、自分のルーツを分かっていなげ。

散歩をしすぎて、なんだかひねてきてしまったな。語られることをあまり信じない。本当はどうだったんだろうなんて考えてしまう。

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