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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
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東高野街道の本尊掛松

面白くない20号線をひたすら歩いて行った。

磐船街道歩きの168号線より歩道がしっかりあるだけましというだけで、やっぱり交野の街道は今や全く面白くない部分が多いな・・・。

きれいな高速(第2京阪道路)の下を通ってすぐ、コーナンの入り口みたいなところに道標があった。ここから斜めの旧道に。また道標があって、道が2つに分かれ、ここは左手に。

このあたりでは道の東が交野市で、西が枚方市。

ちょっとした丘の上だったろうなという、素敵だっただろう道だった。

「本尊掛松」と説明書きのある公園があった。

融通念仏宗の法明上人が本尊を授かって松にかけ、喜んで踊りを踊ったのだって。それが融通念仏宗に念仏踊りが付加された始まりとも言われるそうだ。その松はもう枯れて無い。

融通念仏宗は平野で知った。念仏を唱えれば極楽浄土に行けるという宗派の1つかな。鳥羽上皇の勅願で良忍(尾張出身)って人が開いた。で、後には念仏を唱えながら踊るようになったんだな。

大阪市平野区に本山の大念仏寺があって。前に歩いた中高野街道(平野~河内長野)は、融通念仏宗の参詣道でもあるってことだった。本山をはじめ、道々、融通念仏宗のお寺が多かった。


鎌倉時代になる少し前、各地で乱が起き、平家が台頭し始めていた。平清盛がまだ子どもの時代、平野(大阪市平野区)に念仏道場(今の大念仏寺)ができた。

さかのぼって平安時代のはじめ、桓武天皇のときの征夷大将軍は坂上田村麻呂。その息子(次男)の広野さんに与えられたのが杭全くまたで、広野さんの名から「平野」と呼ばれるようになったとも言われるのが平野。

平野はその後ずっと、広野さんの子孫が運営。そんな平野の、広野さんの屋敷跡ってところに念仏道場は設けられた。

けれどその後、衰退。55年ほどで途絶えてしまったらしい。

それを再興したのが法明上人だったそうだ。法明上人は若江村の寺(今の法明寺)のお坊さん。時は鎌倉時代を倒すことになる後醍醐天皇が親政を始めた頃。

衰退していた融通念仏宗の本尊などは男山の石清水八幡宮に預けられていた。それを受け取りに法明上人は東高野街道を北上して、ここでそれらを受け取り、喜びで松に本尊をかけて踊った。そして再興。


・・・なんだか引っかかった。

坂上田村麻呂はアチノオミの子孫を自称していた。

アチノオミは応神天皇のとき渡来してきた人。後漢の皇帝の子孫とかいう(坂上氏の伝承かな?)。呉に行ってクレハ・アヤハを連れ帰り、イナツヒコの名をもらった。

その子孫だという坂上田村麻呂は桓武天皇のとき征夷大将軍になり、娘は桓武天皇の妻に、次男は杭全(住吉郡杭全郷)に。

当時、杭全郷には百済や喜連も含まれていたのだって。百済は百済王氏が住んでいたところ。

坂上田村麻呂は百済王氏と仕事をしていたこともあるみたい。

考えすぎかもしれないけれど、百済王氏、坂上氏、石清水八幡(源氏のヒーロー、八幡太郎義家が元服したところ)、そしてそんな彼らと関係する幾多の氏族の思惑があって、ここで法明さんに本尊が託されたってことはないのかな、と思った。

散歩し過ぎて、いろいろ裏を嗅ぐようになっちゃったんだな。

鎌倉幕府といっても既に源氏は力を失っていて、家臣だった北条氏が政権を握っている。この時の執権は暴君で有名な、若き高時。

幕府転覆を狙う後醍醐天皇も親政(天皇自ら行う政治)を始めて、いろんな人のいろんな思惑が噴出していたのじゃないかな。


法明さんの父は後宇多天皇(後醍醐天皇の父)に仕えた人で、母は枚岡神社の神官の娘だったそうだ。

法明さんが結成したという融通念仏宗の6つの寺からなるグループがあったらしく、寺は若江村(法明寺)、平野(大念仏寺)の他、丹南(前に行った来迎寺)、錦織の古野、石川郡、高安の6か所にあったそうだ。

平野は百済王氏が住んでいたあたりに近く、錦織は百済王の子孫の錦織さんがいたところで、若江の近くにも錦織さんのいた西郡があり、石川は近くに近つ飛鳥があって、百済王の子孫の飛鳥戸さんがいたところ。高安はよく分からないけれど、天智天皇の時、高安城が築かれたことがあって、高安城は百済の将軍指導で造られたらしく、百済の人も多く住んでいたかもしれない。一駅南に恩智があって、恩智はアチノオミに深く関係するとかいわれているところ。

そして清和源氏(源義家、源頼朝など)は先祖をたどれば桓武天皇(母は百済系)と坂上田村麻呂の妹との間の子(葛井親王)にたどり着く・・・。さかのぼりすぎかもしれないけれど、源義家のひいおじいちゃんが源満仲(多田満仲)で、そのおじいちゃん(貞純親王)というのが清和天皇と、葛井親王の孫との間に生まれた子。

むむむ。

坂上田村麻呂の子孫や百済王の末裔をまきこんで、融通念仏宗を再興することになったのには政治的な何かがあったのだとしたら、誰の思惑があったのかな?

融通念仏宗が盛んになって得をした人は誰だろう? そして本尊を受け取ったのがここだということには、どんな理由があったのかな。


本尊を受け取ったのは石清水八幡宮からで、茄子作など、あたり一帯は石清水八幡宮の荘園だったところなのだって。傍示川の北側が石清水八幡の荘園だったという話があったな。

東高野街道を北上して、石清水八幡の荘園に入ったあたりで本尊は若江の法明上人に渡された。

石清水八幡から誰かが持ってきて、領内で手渡したのだろうかな。

石清水八幡には応神天皇が祀られている。八幡(やはた・やわた)の始まりは古すぎて分からなくなっていて、「はた」から秦氏の祭った神だとか、「わた」からわたの神さまだとか言われているみたい。

始まりは分からないけれど、誉田八幡が応神天皇陵にあるのもあってか八幡=応神天皇となり、源氏のヒーロー源義家が石清水八幡で元服したことでか、源氏の氏神になった。

最古の八幡は誉田八幡だともいわれるのだって。29代欽明天皇が任那の復活を目指して創建したんだとか。

欽明天皇は推古天皇のお父さんで、聖徳太子のおじいさん。応神天皇の子孫の継体天皇の息子。

妻に蘇我氏の娘たちがいる。

この天皇の時、新羅との戦いで百済の聖王(日本に仏像を送ったという人)が死亡し、任那も滅ぼされて、天皇は心を痛めていたそうだ。

任那はよく分からない(?)国みたい。

継体天皇の時、任那の一部を百済が占有することを大和朝廷が認めているのだって。任那は大和朝廷の支配下にあり、お隣の百済とは親しくしていて、境界線はちょっと曖昧・・・って感じだったのかな?

そして任那は滅び、誉田八幡を創建。

誉田は、応神天皇の3人の妻の実家だろうところ。後に行基(父は百済系渡来人)によって神宮寺の長野山護国寺も創建されたのだって。

誉田八幡創建の後に、宇佐神宮にも八幡神が降臨(?)。「われは誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗ったらしい。

結局、百済も滅びて、最後の王の息子の善光さんが日本に残った。

それから平安時代、空海の弟子が進言して清和天皇が石清水八幡を創建。

平安時代の終わり頃、融通念仏宗がうまれ、平野に道場が開かれた。

それから時代が流れ、後醍醐天皇が親政を始めたとき(鎌倉の終わり)、法明上人が石清水八幡から本尊を返してもらい、融通念仏宗を再興。法明上人の父は後宇多天皇(後醍醐天皇の父)に仕えた人。

それを考えると、融通念仏宗再興の裏には後醍醐天皇方の思惑があったのかも・・・。


融通念仏宗の参詣道でもあったという中高野街道には、仲間が多くいただろう。

前に歩いた中高野街道は、平野(住吉道あり)~喜連(住吉道あり)~瓜破~三宅~阿保(かつて住吉道あり。長尾街道と交差)~上田~岡(竹内街道と交差)~丹南~大保~美原~多治井~菅生(和泉街道と交差)~狭山(天野街道あり)~半田~須賀~河内長野という道だった。

天野街道は平安時代の末にはあったという道で、須恵器を作っていたという和泉丘陵を通り、天野山金剛寺(行基創建)にたどり着ける。住吉道は住吉大社に。

後の南北朝時代、住吉大社も天野山金剛寺も後醍醐天皇側(南朝)だったところだった。中高野街道から南朝の本拠地の吉野にも通じていただろうな。

幕府を倒し、自分が政権を握るため、いろいろはかりごとをしたらしい後醍醐天皇。

周りにはいろんな人々がいて、天皇を手助けしていただろう。仲間を増やし、いざという時の逃げ道も確保し、そのために融通念仏宗を再興させたのかもしれなかった。

桓武天皇の妻になった坂上田村麻呂の娘、春子さんは、桓武天皇の亡き後、空海に帰依して出家。兄のいる平野に住み暮らし、坂上氏の氏寺として長宝寺を建てたのだって。そして後醍醐天皇は吉野に南朝をうちたてる前、このお寺に滞在していたらしい。

楠木正成や足利尊氏の活躍で鎌倉幕府を倒すことには成功したものの、政治の実権を握る(建武の新政)も失敗し、足利尊氏が反乱。尊氏さんは後醍醐天皇を幽閉し、新しく朝廷をたてた。後醍醐天皇は京から逃げおおせ、吉野に南朝をうちたてた、その直前かな。

むむむ。

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