表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
44/46

東高野街道を四つ辻から

旧道とあって、けっこうな旧家があちこちにあったけれど、もう住宅地の一部になってしまっている感じだった。道はカーブして東に向かい、途中、車道を渡って続きを歩いた。

このあたりも田伏さんが多かった。

右手に「打出の弘法井戸」を案内する鉢かつぎ姫。寝屋川では、あちこちで鉢かつぎ姫の像が道案内をしてくれる。鉢かつぎ姫は寝屋川市のマスコットキャラクター。

住宅地に、そこだけ古い感じの地蔵(大師像)などがあった。

以前に寝屋川で見た「国松の弘法井戸」は古くて、雰囲気のある田舎道にあって素敵だったけれど、ここは住宅地になりすぎていた。

また車道に出て、さらに進んだ。

田伏月極駐車場があって、全部元は田んぼだったのだろうな。更に進むと田んぼの中、地蔵の横に木があって、ここがあぜ道の辻になっていた。昔の農作業の休憩所、そのままって感じのところ。

さらに草ぼうぼうのあぜ道に直進しようとしたのだけれど、田んぼの中、20号線からどんどん離れていくようで、引き返した。

地蔵のいるあぜ道の辻に戻り、西に見えている20号線へ。再び20号線を進むという面白くない東高野街道歩きだった。

左手に新寝屋川変電所、右手にはさっきの田畑。交差点を過ぎると、左手に旧道が現れて、そちらに進んでいった。


後で知ったことには、農作業の休憩所のようだと思った辻は、かつては街道の要所だったところらしかった。ただの田畑の中のあぜ道のようになっていて、まさかそんなこととは思ってもみなかった、し、知った後でもまさかって感じだった。

辻のお地蔵さんは大谷南(かみんちょ)のお大師さんなる弘法大使像。

このお大師さんの辻から東高野街道は西寄りに進み、東寄りに進む山根街道と分かれていたみたい。ただ旧道は田畑になってしまっているようだった。進もうとして引き返した道が山根街道・・・かな。でもその道も、田畑で途切れているようだった。

山根街道は元は二上山と結ばれ、古代、サヌカイトなどの交易に使われたのではないかと思われる道だそうだ。

「山の根の道」ともいい、二上山西麓~生駒山西麓~枚方台地という道が想定されるそうだ。今は八幡市で再び東高野街道に合流する道ということになっている。

古代からあったという東高野街道(河内の山の辺の道)だけれど、古代からその別ルートとしてか、山の根の道があったって感じなのかな?

サヌカイトは石器づくりに最適な石で、二上山が一大産地。

前に東高野街道歩きで歩いた富田林市の中野は、古代、二上山のサヌカイトを加工し、交易していたというところだった。弥生時代の半ばくらいから、鉄器が普及して、石器があまりつくられなくなった3世紀頃までかな?

中野からは西の和泉方面や、東高野街道を通って北の三島や近江なんかにも運ばれ、ここは北への中継点だったのかな。近江では2万年くらい前(石器時代)の二上山産のサヌカイトの石器も見つかっているらしい。高槻の安満遺跡などでも。

縄文時代にも人が住み、やがてサヌカイトの交易の中継地としても栄えたのかな。弥生時代後期には肩野物部の一族がやってきて、稲作を進めていったと言われているそうだ。

奈良伊勢道、磐船街道、東高野街道、山根街道もあって、このあたりはきっと面白いところだったのだろうな。ところが住宅地になりすぎていて、面白さがいまいち伝わってこなかった。


20号線から再び旧道に入ると、この道の西が寝屋川市(大谷)で、東が交野市(星田)だった。

田んぼの向こうに、山まで見えていて長閑だった。本当はどこもこんな長閑なところだったろうに、建物がいっぱいで遠くの山まで見えなくなっているんだな。

このあたりには旧家もいっぱい残っていて、路地のほうをのぞくと江戸時代のようなところも多々あった。河流かわりゅうさんとかが多かった。

交野市の中では、ここはかなり素敵なところに思えた。まだ交野市の面白さを分かっていなかったんだな。

この東には星田新池があり、星田旭縄文遺跡が見つかっているらしい。

明治時代に新しく池を造るため、丘の一部を切り崩していて見つかったのだって。縄文時代の土器や石器、住居跡が見つかったそうだ。住居は木や竹で骨組みを組み、葦や粘土で壁を作っていたのだって。

今とそう変わらないんじゃないかな。ねーやっぱり縄文人はすでにできる人。

他の時代のものも見つかっていて、中国の通貨「貨泉」が貝殻に入った状態で出土したそうだ。貨泉は紀元14年から40年の中国で製造されたとされる青銅製の貨幣らしい。前漢と後漢の間にあった王朝(新)の皇帝がつくり始めたのだって。

北九州を中心に弥生時代中期頃の遺跡から見つかっていて、その頃にお宝、もしくは青銅器の材料として日本に持ちこまれたと思われるのだって。

北九州の他、淡路島や岡山、鳥取、大阪でも瓜破(大阪市平野区)などで見つかっているそうだ。

古銭として今でも取引されているらしい。古墳時代や中世にもやりとりがあったらしく、いろんな時代の遺跡からでてくるのだって。

大阪では瓜破のほか、楠根川沿いで多く出土しているらしい。

楠根川は東大阪市を歩いていると楠根川遊歩道があって知った川だった。八尾の八尾木から、中田、小阪、萱振、楠根、若江と流れて第二寝屋川に注ぐ川。

大和川付け替え前は、長田村で新開池に注いでいたのだって。池に大和川が流れ込んでこなくなると陸化していって、新田もつくられて、楠根川はそこを流れ、鴫田あたりで寝屋川に注ぐように。

そして昭和になると若江あたりから南はおおかた埋め立てられ、若江あたりから北(寝屋川に注ぐまで)はまっすぐな第二寝屋川として生まれ変わったみたい。

大昔には若江から先は河内湾で、楠根川は若江で河内湾に注いでいたそうだ。

当時(弥生時代)、深江、若江、菱江、水走と河内湾の湾岸部で、それぞれに河口部だったらしい。河内湾に川がいっぱい流れこんでいたんだな。地名ってすごいな。「江」とかずっと残っている。


道が下りになり、小さな川が現れた。タチ川、別名傍示川だって。

この川の北東側は石清水八幡宮の荘園で、荘園の境目を示す川で傍示ほうじ川と呼ばれたのだとか。

名もなき橋を渡った。橋の前後に古そうな石造物があった。

手前にあったのがお大師さん。大谷北(しもんちょ)のお大師さんで、橋を渡った先にあったのが道標。江戸時代の大谷出身の力士(河流さんの先祖)がたてた道標らしい。

道なりに進んでいった。トップワールドなるスーパーの裏手の道だったけれど、すごく静かだった。

それから左手に星田駅(JR学研都市線)。

駅前だというのに普通の片田舎の住宅地の感じ。当時の村落(星田村)から少し離れた田畑の中につくられた駅だったのかな。狭い車道に路駐された商業車が多くて、通りにくかった。

そのまま進んで、ファミマ前を左折。線路を越えていった。

それからすぐ右手にカーブしていく道に。田舎なのに古さもなくて、面白くない道だったな。

少し前までは田んぼだったのかもしれない。建物は何もなくて見晴らしはよかった。右手に山もよく見えた。でも造成中のようで、トラックが地ならしした感じの土地が周囲一帯に広がっていた。駅に近いし、みんな住宅地になって分譲されるのかな。

車道に出ると、そのままもう少し進んで右折。道なりに行くと20号線に合流。

なのだけれど、間違ったか、わたしたちはほぼほぼずっと20号線を進んでいた。

20号線では、途中で星田妙見宮が案内されていた。

星田妙見宮(本当の名は小松神社)は空海が星を祀った神社と伝わるそうだ。空海が交野にやって来て、獅子窟寺で秘法を唱えていたそうだ。するとその時、空から北斗七星(+もう1つで、北斗八星)が、3か所に分かれた落ちたのだって。

星の2つが妙見山に、1つが光林寺の地に、残る5つは星の森ってところに。妙見山に落ちた2つの星(岩)を、空海がご神体として祀ったのだって。

妙見宮が祀られるまで、その山は三宅山と呼ばれていたそうだ。古い時代、屯倉があったあたりらしい。

ここまでやって来る道々、あちこちに大師像があったのは、空海が星田にゆかりのある人だからなのかな。

獅子窟寺は交野の山裾にある寺で、役行者が開き、行基が創建し、空海も修行にやって来たとかいうところ。有名人をみんなかつぎだした感じだな。交野は今では田舎感のある住宅地だけれど、古くはいろんな人がやって来る要所だったのか??


星田って素敵な名前だけれど、農耕に適さない「乾し田」「干し田」からきたって説があるそうだ。

それで平安時代後期(鳥羽さんの頃など)には牛馬の牧になっていたのだって。

平安時代の初め、桓武天皇の頃には、皇族や貴族の狩猟場として使われていて、禁野はそれに因む地名だってことだった。

近くには百済王氏が住んでいて(百済王神社や百済寺跡あたり)、桓武天皇もまた百済に関わりの深い人(お母さんが百済からの渡来系)だった。

京に都がうつされて、京に近い狩猟場には貴族もいっぱいやって来て楽しみ、「干し田」は「星田」に変えられたのだって。七夕伝説にちなみ、甘野川は「天の川」に、秦者神社は「機物神社」に変わり、「逢合橋」もできた。それで星田は星の町みたいになったのかな。

間違って20号線を北上している間に神出来かんでら交差点を通った。

南に400mくらいのところにある光林寺のことを神寺かんでらと呼んでいたのだけれど、神と仏は分けるようにと言われた明治時代、「神寺」はいかんというので、「神出来」と書くようになったんだとか。干田かんでんからきたという説もあるようで、つまりはよくは分かっていないんだな。「干し田」が「星田」もしかり。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ