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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
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忍ヶ丘の忍陵神社

久しぶりに東高野街道を歩くことにした。

東高野街道は忍か丘駅から南に河内長野まで歩いていた。

忍ケ丘から北にはまだ歩いていない東高野街道は、交野あたりを通っていくらしい。

前回の散歩では磐船街道歩きで交野まで歩いたのだけれど、あまりに面白くなくて、続きを歩く気がしなかった。けれど交野市は気になったので、代わりに東高野街道で歩いてみようと思って。

大阪には東西に走る街道はいくつもあったのだって。けれど南北の道は、ずっとこの東高野街道一本だけがメインだったそうだ。高野山に向かうのに使われる東高野街道となるより前からの、古代からの道だと(古代の官道だとも)言われているのだって。

生駒山地の西麓に道(河内の山の辺の道的な)があったと思われ、それが官道(河内大道)になり、東高野街道になったと思われるそうだ。


忍ケ丘駅はJR東西線(学研都市線)の駅。

学研都市線は北新地駅を出発すると、前に歩いた古堤街道に沿って東へ。住道駅まで進んで山に近づくと生駒山地沿い(西)を北へ。枚方あたりまで北上すると生駒山地の北あたりを通って京都へ。また生駒山地沿い(東)を南下して、木津で関西本線につながる、という路線みたい。

住道駅から北には、野崎駅、四条畷駅、忍ケ丘駅。みんな東高野街道歩きなどで歩いて素敵だったところ。

忍ケ丘駅(四条畷市)からは、すぐ東側に東高野街道が通っているのだけれど、その前に、前から気になっていた忍陵神社に向かった。

忍陵神社は駅の西側すぐにある。

改札を出ると右(西口)へ。目の前のラッキーなる店舗の前を通って、次の辻を右折。

ここは忍ケ丘本通り商店街のようだったけれど、ほぼ普通の住宅街になっていた。古い家もあって、上邨うえむらさんが多かった。

右手に鳥居が見えたら右折。鳥居の向こうには石階段の続く、村の神社って感じのところだった。

南から上っていったのだけれど、東にも階段があって、元の参道はこちらだったみたい。忍陵と書いて「しのぶがおか」。忍ヶ丘駅の名はここからきているらしい。元は田舎だったのだけれど、住宅街になってしまったのだろうなあって感じのところだった。

参道を上ると、見晴らしがとってもよかった。

本殿の横にもう一つ社のようなものがあって、これは古墳の石室の覆屋らしかった。中をのぞくと、石室が見えて、その周りはなにか薄いものが積み重なっているようだった。

3世紀末から4世紀初め頃の、忍岡しのぶがおか古墳だって。石室の石は猪名川産のものと判明しているそうだ。

室戸台風で神社が壊れてしまった時、修復のための作業をしていて石室が見つかったのだって。前方後円墳の竪穴式石室だった。ときどき「元は古墳だったところに鎮座していると伝わる」神社があるけれど、ここはそれが実証されたんだな。

元の地名は讃良郡甲可こうか村。昭和初期に四条畷村に改称されたそうだ。

江戸幕府が終わり、明治になると、天皇の時代に戻って、楠木正成らが英雄になった。南北朝時代、幕府から政治の実権を取り戻そうとした後醍醐天皇のために戦って死んだ大楠公(楠木正成)と小楠公(息子の楠木正行)、大楠公の妻で小楠公の母である人さえももてはやされた。前に行った富田林で「大楠公夫人之墓 楠妣庵」の道標を見たことがある。

甲可村は楠木正行が戦死したあたり。その戦いは太平記で「四条縄手の戦い」と呼ばれていて、明治時代、甲可村に楠木正行を祀る四条畷神社が創建されることになったのだって。参拝する人々のために四条畷駅もつくられたのだとか。

そして四条畷のほうが知名度が上がって、甲可の名も四条畷に改名。


忍陵神社は元は津桙つほこ神社といい、式内社だったそうだ。

津桙氏が祖神を祀ったと思われるそう。けれど津桙氏について詳細は不明。津桙神社があったなら津桙氏って豪族がいたのかな?というくらいのことなのかな?

元は少し離れたところに鎮座していたのだけれど、中臣鎌足を祀る祠のあったここに移転して、砂村の馬守神社と大将軍神社(方位の神)を合祀したそうだ。

馬守神社のあった砂村はこの西側。前に河内街道歩きで通ったときに知ったことには、キリシタンの多かったところ。キリスト教禁止令が出る前、砂や岡山や周り一帯に信徒がひろがっていたそうだ。

飯盛山(四条畷市)の飯盛城に三好長慶がいた頃で、三好長慶さんはキリスト教にも好意的で、城で宣教師たちの説教も許し、傘下の城主たちもキリシタンになっていったそうだ。岡山城の結城ジョアン、三箇城の三箇マンショ、田原城の田原レイマンらがキリシタンになり、宣教師たちは城下の東高野街道でも布教。

甲に「JESUS」と金色で入れていたという結城ジョアンのいた岡山城があったのが、ここ忍岡神社あたりではないかと思われるそうだ。

砂は田んぼと住宅ばかりのところだったし、四条畷は山に近い田舎ってイメージで、そこに河内を牛耳って、天下もとりかけていたような三好長慶がいたっていうのが、ずっとぴんとこないでいた。でも当時、東高野街道も通るこの地は、たぶん、要所で、都会だったのだろうな。


近くには岡山遺跡があって、旧石器時代の石器や、縄文時代の土器も見つかっているらしい。

そして砂あたりには、5,6世紀には馬飼部が住んでいたそうだ。

見つかっている蔀屋北遺跡(四条畷市)は馬と共に渡来してきた人々の遺跡で、長さ10mくらいの外洋船でやって来て、蔀屋に定住したことが分かっているそう。船は井戸の枠などに転用されているそうだ。

馬の骨の他、永久歯が500本ほどと乳歯、朝鮮半島のものらしき土器、馬の飼育に不可欠という塩を作るための土器も大量に見つかっているのだって。

四条畷(蔀屋しとみや)は5世紀頃、馬を連れて朝鮮半島からやって来た人々が、日本で初めて本格的に馬牧を行ったところだそう。

蔀屋は生駒山地の西側にあり、生駒はその名の通り、馬(駒)を多く育てていたところらしい。というか、古代、生駒山地の西側までが海で、船でやって来た人々が馬と共に上陸したのが生駒山地の西麓にあたるところだったのだろうな。

そこで馬を下ろし、馬は蔀屋で草をはんだんだな。

馬は今では日本在来馬と呼ばれるようになっている小さめの種で、モンゴルから朝鮮半島経由でやって来たと思われるのだって。

そうして日本での本格的な馬牧が河内に始まり、各地に拡がっていった。継体天皇即位の時に一役買ったという河内馬飼首荒籠も、樟葉あたりの馬飼の首だったらしい。

ちなみに日本在来馬は、今では絶滅しかけているそうだ。大戦の時、軍馬に適した馬をどんどん増やすため、小さくて軍馬に適さない在来馬は去勢されて、大きな外国の馬にばかりたねをつけさせたらしい。それで一部の種は絶滅。残りの種も数が少なくなってしまっているそうだ。


馬について、記紀には、応神天皇の時代、百済王から良馬が2頭贈られたと書かれているのだって。阿直岐アチキって人が連れてきたそうだ。

アチキは応神天皇の皇子(ウジノワキイラツコ)の家庭教師となり、馬は「軽の坂の上」で飼われたのだって。

神功皇后や応神天皇の頃、河内母樹おものき馬飼がいたという話もあるみたい。

母木って、額田あたりできいたことがある。額田の極楽寺の近くで「母木」がどうのこうのって説明されていた。あと、恩智がかつては母木里と呼ばれていたってことだった。

母樹馬飼の牧は中河内(豊浦)にあったらしい。額田の近く。額田氏(大河内氏と同じアマツヒコネの子孫)も、馬飼集団をバックに勢力をもったみたい。

大河内氏もそうだったのだろうな。

あと、オオクニヌシは馬に乗っていたことになっているみたい。牧ができる前にも馬は舟に乗った人々と共にやってきていただろうし、ありえる話。


忍陵神社の奥には行者堂があった。周りにはいろんな石造物なども集められてあった。山のふもとによくある、いろんな信仰の集合体みたいなところだった。

それから墓地があり、横の階段を下って行った。

なかなかに古そうな大正寺があった。法然の弟子の創建だって。

このあたりは忍岡古墳の一部らしかった。大きな前方後円墳(87m)で、石室が忍陵神社横にあり、岡山城は墳丘あたりにあったのかな。

大正寺から古そうな石階段を下っていった。この下り坂が墳丘を降りる道なのだろうな。

前方後円墳の上が開放されていて、そこを歩いたことは何度もある。前方後円墳と判明しているものの、地形はそのままに住宅地になってしまっているところを歩くのは初めてかも。古墳の上に村ができていたとか聞いて(河内大塚山古墳など)驚いたことがあるけれど、こういうことなんだな。

坂を下ると、左手に古い旧家が並んでいた。もうどちらを向いて歩いているかもよく分からなくなっていた。

右手の池の堤らしき高台に緑が見えて、とりあえずそちらに(北だった)進んでいった。

池(新池)の下には石仏が集まっていて、讃良石仏とあった。このあたりは讃良郡だったところ。元は「さらら」で、「さら」とか「ささら」とか呼ばれるようになった。

すぐ北に流れる小さな川は讃良(さんら・さら)川だって。

讃良川に沿って右手に進むと府道20号枚方富田林泉佐野線で、東高野街道だった。けれどそんなことは分からなくて、分からないまま進んでいった。

川を渡ると右手に墓地(讃良寺共同墓地)があった。その向こうは新興住宅地っぽくて、寝屋川市のようだった。

このあたりには、白鳳時代(7世紀後半)にたてられた讃良寺があったと思われるのだって。讃良川は寺の境内を流れていたらしい。このあたりに多い石仏は、室町時代に廃寺になったと思われる讃良寺にあったものみたい。

大正寺の観音像も元は讃良寺の本尊だったとも言われ、大正寺と、今はない見性寺が讃良寺の継承をめぐって争ったこともあるらしい。大正寺は、こっちが「大いに正しい」ってことで大正だいしょう寺と名乗るようになったんだって。


白鳳時代、讃良郡には正法寺、讃良寺、高宮廃寺が建てられていたそうだ。

正法寺は、前に清滝街道を歩いていて、東高野街道との交差点近くにあった(この南の中野本町)。

ちらりと見ただけで素通りしてしまったのだけれど、一帯は田舎でありながら、ただものでない感をただよわせたところだった。

行基の創建とも伝わり、元はもっと東の清滝丘陵にあったそうだ。そこも元は古墳だったらしい。

清滝古墳群のある場所に、大きな寺院が建てられたのだって。古墳群には馬の墓もあって、馬飼いの集落の墓地だと思われるそう。

その頃、一帯には馬牧を指導した渡来系の宇努うの連が住んでいて、小野山正法寺は宇努連の氏寺だったとか言われているみたい。

宇努連は新羅の皇子の子孫だそう。

当時、皇族は幼少期には有力な氏族に養育されるものだったらしく、ウノのサララこと持統天皇(7世紀後半)を育てたのがこの宇努さん(宇努連)だろうといわれているみたい。乳母がこの地の宇努連の女性だったんだとか。ウノノサララは正法寺で育ったのかもしれないのだって。

ここはウノと呼ばれていた地で、やって来た渡来人がいっぱい住んでいたのかな。他に宇努首や宇努造がいて、宇努首は応神天皇のとき帰化した百済王の子孫。35代斉明天皇(持統天皇の祖母)のとき、宇努の名をもらったのだって。宇努造も同じ祖を持つ。

皇子の子孫とかばっかりだけれど、政治不安のある大陸から船で渡ってきて名を残す人々は、やっぱり皇子とか、有力者とかだったのだろうな。


高宮廃寺跡は、河内街道歩きで行ったことがある。

高宮遺跡もあって、縄文時代にも人が住んでいたと思われ、白鳳時代の頃には郡衙だったのではないかとも思われる、というところ。

ただものじゃない感を漂わせていた。高速のすぐ横でありながら、長い歴史の空気を漂わせたところだった。

一帯では、縄文時代中期の大規模な遺跡も見つかっているそうだ。

更良岡山遺跡(旧称・讃良川遺跡)だって。

旧石器時代の石器や、縄文時代の集落跡、大量の石器、土器の他、土偶も見つかっているのだって。

他にも、南山下みなみさげ遺跡など、石器時代や縄文時代、古墳時代の遺跡があちこちで見つかっているみたい。

三好長慶の頃だけじゃなく、もっとずっと前、縄文時代の頃から重要な土地だったのだろうな。

その頃は河内湾岸で、その後も深野池の池畔だったあたり。

うののさららの父は中大兄皇子で、中大兄皇子が蘇我入鹿を母(皇極天皇)の目前で暗殺した乙巳の変の年(645年)に生まれている。13歳で父の同母弟(叔父だな)の大海人皇子の妻に。

夫が天皇の位につくまで、志を共にしたのかな。一緒に行動していて、天皇となった夫(天武天皇)亡き後は、死んでしまった息子の子を次期天皇(文武天皇)にすべく、つなぎで自らも天皇に(41代持統天皇)。

夫が天皇になるべく決起(壬申の乱)したときには、サララさんは息子(草壁皇子)と、他の妃が産んだ忍壁(忍坂部)皇子とを連れて、桑名に行っている。夫婦の協力者には尾張さんもいたそうだ。

忍坂、桑名、尾張かあ。

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