磐船街道を枚方から
今度は磐船街道を歩いてみることにした。
磐船街道は枚方と生駒を結ぶ道で、途中に磐船神社なんかがあるのだって。
大和道(大和海道)ともいったらしい。
枚方に向かった。
枚方市駅の構内にお店(もより市)が入っていて、おにぎり弁当なんかも売っていて、おいしそうだった。迷ったんだけれど、弁当をもって歩くのは重いな、とスルー。枚方で乗り換えて私市までハイキングに行くような、リュック装備のときにはいいだろうなあ。奥に入って行くと、焼きたてパンやケーキも売っていたみたい。
磐船街道は宗左の辻で京街道から分岐して南下していく。
宗左の辻は駅のすぐ北にあって、京街道歩きで通ったところ。そのあたりはちょっとカットして、駅の西側の広い道路(20号線)からスタート。20号線を南に向かって行った。
右手には緑が見えていて、気になりつつ進んだ。
枚方市役所前交差点まで進んだところで、ここにも右手に緑。
小山になっていて、そこには百済王神社があるようだったので、ちょっと寄り道。
田舎の感じの残る、今や住宅街になっている道をじぐざぐ行くと、裏手に回ったところから小山に上れるようになっていた。階段を上ると、百済王神社。
木々で見晴らせなかったけれど、木々が無ければ、こんな低さでも見晴らしはよかったろうな。
地域の人々に大切にされている・・・って感じは、あまりしなかったかな。拝殿は骨組みだけで壁はなかった。過剰にではなく、生活圏の一部として大事にされているって感じなのかな?
この東にいったところに百済寺と百済王神社があるから、そこから移ってきた人が勧請したのかな、と思った。
20号線に戻って続きを歩いた。
このあたりは東に向かって行く感じ。
そらとぶぱん舎なる小さなパン屋さんがあって、気になりつつ他にお客さんもいて(ケース越しに注文して取ってもらう形式)、スルー。けれどこの先、他にパン屋さんに出会わなかったから、買えばよかったなあ。
道が上りになって、その先は天野川だった。ここを右折して天野川沿いを南下していくのが磐船街道。
けれど、ここをそのまま進めばけっこうすぐ百済寺跡(国の史跡)で、寄り道。
禁野橋で天の川を渡って、上り坂を西に進んでいった。地名は宮之阪で、それから中宮。
中宮の地名の由来はよく分からないのだそうだ。けれど「田宮」とか「池之宮」とか、「宮」の付く地名が多くて、なにか「宮」があったのかな。
左手にきれいに整備された広い階段が現れて、ここを上って行くと百済王神社だった。高台で、平野全部が見渡せた。遠くの山まで一望のもとにある。
リュックを担いだ感じの参拝客が多かった。
となりは百済寺跡で、建物の跡が盛り土などで示されていた。ここは百済王氏の氏神と氏寺の跡だとされている。
白村江の戦いなどを経て滅亡した百済。
その最後の王の皇子(善光)が日本に亡命して、41代持統天皇(645年生まれ。天智天皇の娘)の時、百済王の名をもらって貴族になっている。
貴族ではあったけれど、次第に降格していったのかな。それから45代聖武天皇(天武天皇のひ孫)の時、陸奥守となって、大昇進。
天皇は奈良の大仏を作ろうとしていたのだけれど、大量に必要な金が不足。当時は仏像は金ぴかなものだったのだって。大きな仏像の金メッキに、大量の金が必要だった。
そんな時、陸奥守として陸奥にいた百済王敬福が黄金を大発見。天皇は喜んで、百済王氏の位を一気に7階級昇格させたのだって。百済王善光さんと同じくらいの位に返り咲いたみたい。
そして百済王さんは河内守などを歴任。河内守として河内国茨田郡枚方に住み、そこに氏神(百済王神社)を祀り、氏寺(百済寺)を建てたのだって。
このあたりもかつて茨田郡だったんだな。
他に、33代推古天皇の時、やって来た百済の皇子に聖徳太子がこの地を与えたという話もあるのだって。
一帯は物部氏の勢力地だったようで、聖徳太子は倒した物部氏の跡地をいろいろ有効利用しただろうから、さもありなん。
百済王神社の元神主は三松氏で、百済王氏の末裔だったそうだ。他に枚方城主だった本多さんも百済王氏の末裔だったのだって。
枚方城は枚方公園駅の東の高台あたりにあったと思われ、本多さんは豊臣家に仕えていたそうだ。そして大坂の陣で亡くなり、滅んでしまったそう。
ここに来るまでの、枚方駅を出てすぐ東に緑が見えていて気になったあたりには、一乗寺なるお寺があるらしい。最澄創建と伝わり、応仁の乱で焼け落ちたけれど、本多さんが再建したそうだ。
そのあたりに枚方城があったのかな。
前に万年寺山の御茶屋跡ってところに行ったことがある。秀吉さんが側室を住まわせたところということだったけれど、その側室という人(乙御前)が、この本多さんの娘だったそうだ。
乙御前はたびたび一乗寺の住職を招いて茶会をしていたそうだ。そして秀吉さんに仲を疑われ、一乗寺の住職は自害。秀吉の死後、乙御前は尼になって、住職を弔ったのだって。
あと、この本多さんは、善光寺を創建した(644年)本田善光さんと同系統という話があるらしい。
前々から、百済王善光と善光寺の関係が気になっていた。
百済王氏の祖先でもある百済の聖王から与えられたという仏像を、廃仏派(?)の物部氏が捨てた。それが難波津の堀江。大阪市のあみだ池あたりとも言われている。
そして年月が流れ、打ち上げられたかしたその仏像を拾ったのが本田善光さん。本田善光さんは信濃国司の従者として長野に住んでいたとかで、拾った仏像を信濃に持ち帰り、本尊にして善光寺を創建した。そんな話になっている。
善光寺創建当時、百済は滅亡前だった。善光さんとその兄は日本に滞在していた頃かな。
当時は塔と新羅の連合軍に攻められる百済から多くの亡命者が日本にやって来ていて、日本にいた皇子の善光さんらは百済の大きな希望になっていただろう。
かつて百済王から賜ったという仏像を祀った善光寺は、そんな希望の寺だったのじゃないかって気が・・・。
どうして本田(本多)なのかも気になるところだった。
15代応神天皇の名が誉田(ホムタ、コンダ、ホンダ)だった。
今の羽曳野市の誉田あたりは昔から誉田と呼ばれていて、本田善光さんや枚方城主の先祖もこのあたりに住んでいてホンダと名乗った、とかかな。応神天皇は妻の父が品陀真若王。誉田あたりの人で、応神天皇も同じくホムタを名乗っていたのかな。
本田善光さんが仏像を携えて長野に行く前に、いくつか立ち寄ったところがあって、そこもまた善光寺となっていた。散歩したことのあるところだけでも2か所あって、1つは藤井寺市の小山善光寺。1つは八尾市の善光寺。
小山善光寺は、本田善光さんと小山の人が三日三晩祈ると仏像が2つに分かれ、そのうちの1体を祀ったというところで、八尾の善光寺は、本田善光さんが信濃に向かう途中で一泊したところだそうだ。
応神天皇の時にやってきて、葛井氏、船氏、津氏に分かれ、飛鳥時代の頃には藤井寺や羽曳野にいたっていう人たちも百済王の子孫だったな・・・。
小山善光寺は元は津堂城山古墳そばにあったらしい。恵我長野と呼ばれていたあたりかな。
百済を甦らせたかった人々が、藤井寺や八尾に住んでいたのかな。
前に八尾を散歩していると、西郡天神社があった。そこにはかつて錦織(西郡)寺があったのだって。
錦織寺は錦織連の氏寺と思われ、錦織連もまた百済王の子孫だと言われているそうだ。
元は河内長野あたり(錦織郡)に住んでいたのかな。錦織郡の中に百済郷があったみたいで、そこに住んでいたのが百済系の錦織連だったのかな?
信州長野の元は、河内長野だと言われているらしい。そして河内長野~恵我長野~八尾は、古くからの街道だっていう東高野街道でつながっている。
長野・・・善光寺・・・百済・・・なにか深くつながっていたのかなあ。
百済が滅んで、帰る国がなくなった百済王善光さんは、住まいを難波に定められたそうだ。そこが百済郷(今の生野あたり)になった。百済は滅んだ代わりに大阪に百済ができたんだな。




