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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
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北加賀屋

前に伊丹空港あたりを散歩していて、移転前の大阪空港は大正区の船町にあったと知った。

前に大正区を歩いた時、橋を渡れば船町ってところまで行っていた。でも橋の手前ですでにおなかいっぱい。船町に足を踏み入れてはいなかった。

船町には中山製鋼所や日立造船など、工場だけがあって、古くは「ブラックレイン」のロケ地にもなったというところ。

北加賀屋(住之江区)から木津川を越えれば船町だった。

北加賀屋は何度か歩いたこともあるけれど、「船町の隣町」として新しい発見があるかもと思って、北加賀屋から歩いてみることにした。

知らない場所でもないので、下調べはせずに適当に行った。

とりあえず気になっていた名村造船所跡へ行くべく、南港通を西へ。南港通りは西に進むとフェリーターミナル、東に進むと帝塚山、西田辺、駒川中野と行ける。


新なにわ筋に出る前に、北側の一帯も少し歩いた。地味だけれど面白いところがいくつかあった。

つたに覆われた古い建物はビジターハウスらしかった。建物に絵が描かれているところなんかもあって、ろばの絵が描かれているのはカレー屋だった。

工事中の空き地には、バスの車両が待機していた。なんでもここはいろんな乗り物を置いて、なにかのスペースに作り替える予定らしい。

北加賀屋っていうややマイナーな地域が、空き家だらけの寂れた町にしないために、自分たちでがんばってみているのかな、と思った。

ところどころに北加賀屋を紹介する地図が置かれてあった。

散歩してみると、正体不明のお店あり、妙に素敵なアパートメントあり、遊び心のある壁画はあり、小さな画廊はあり、北加賀屋だというのに(?)、外人さんにもちらほら会った。「みんなのうえん」なる農園がところどころにあり、アーティストが造ったらしい黄色い風車がたてられていて、なんだかかわいかった。

なんと北加賀屋はディープなアーティストの町として再生しようとしているらしい。わざわざ電車に乗って行くほどではないかもしれないけれど、近くからぶらぶら歩いて散歩するには面白いところになっていた。


自分たちでがんばってみている、の範疇を越えているな、と思ったら、バックには北加賀屋の大地主、千鳥土地(株)がいるらしかった。

まあまあ地元近くでありながら、全然知らなかった話がそこにはあった。

江戸時代、手代から独立して呉服商となった芝川さん(芝川家に婿入りした人)がいた。中央区伏見町に今もある芝川ビルは、元は芝川さんが江戸時代に呉服商をしていたところだそうだ。

芝川さんはやがて貿易商に。

ところが明治時代、時代背景から仕事にリスクを感じ取った芝川さん(また新たに芝川家に婿入りした人)が業種を変更。いち早く土地に目をつけて、大阪湾岸部540000坪を購入したのだって。江戸時代に埋め立てられ、開拓されていた千島新田、千歳新田、加賀屋新田をゲット。

加賀屋新田は、豪商の加賀屋さんが、農耕に適さないところだったけれど、がんばって新田開発したというところだった。その会所跡は今も南加賀屋に残っている。

芝川さんは大阪だけじゃなく、他にも各地に土地を購入したそうだ。前に行った甲東園も、芝川さんがつくったようなものらしい。明治の初めに土地を買い、甲東園なる果樹園にして、桃やブドウなどを出荷。明治終わり頃にはそこに豪邸を建て、今の阪急電鉄に土地を無償提供して駅をつくってもらったのだって。そして果樹園だった敷地100000坪を分譲。

甲東園を散歩した時、そんな話を目にはしたけれど、それが北加賀屋にも関わりのある人だとは思わなかった。

あちこち散歩しているとすごい豪邸などもあって、どれだけのお金持ちなんだ、と思うのだけれど、桁違いのお金持ちがいるのも納得。大阪に540000坪、そんなことが可能な時代があったんだな・・・。

大阪湾岸部をゲットした芝川さんは、造船業や木材業に土地を貸し出したそうだ。明治45年には千鳥土地(株)に。


大正時代の頃には、芝川さんは帝塚山に住んでいたのだって。今、南港通になっているところにおうちがあったらしい。近所には「マッサン」(NHK朝の連続テレビ小説)のモデル、ニッカウィスキー創業者の夫婦が住んでいたそうだ。

10年ほどして神戸に引っ越したそう。

今まで散歩して知ったことには、明治の頃には、職場の近くに住むのが当たり前だったらしい。明治の終わり頃、鉄道が普及して、鉄道会社は宅地造成にいそしむし、風光明媚な田園地帯に家をもって、そこから通勤するようになった。

お金持ちが多く住んだのが最初は天下茶屋あたり。そのうち帝塚山へ。

けれど帝塚山も市街地化していき、風光明媚とは言えなくなって、次には神戸などに。住吉とか御影とかの高台にみんな移っていったのだって。

芝川さんもそうだったのだろうな。


北加賀屋は今でも大部分が、この千鳥土地さんの土地らしい。それで北加賀屋には市営団地やマンションが多いんだな、と納得。

造船所などがいっぱい建ち並んでいて、第2次世界大戦では空爆で壊滅的被害を受けたそうだ。北加賀屋も焼け野原になり、多くが大きな団地などになったらしい。地主の千鳥土地が団地などに土地を貸したのだろうな。

名村造船所の土地も千島土地のものだったらしい。昭和63年、造船所が移転(九州へ)のため撤退して、千島土地に造船所ごと土地が戻ってきたんだそうだ。バブルの時だったし、現状のままで返してもらってもいいですよ、という太っ腹だったらしい。

そして名村造船所跡は近代化産業遺産に選ばれ、区も一緒になって、活性化に乗り出したのだって。造船所がなくなったりで寂れそうな北加賀屋をもりたてようと、「おおさか創造千鳥財団」創設。

造船所の他にも返却された土地を、アーティスト誘致などのために使用し始めたのだって。

千鳥土地さんは土地を貸し、返却の時には、建物をそのまま残しておいてもいいケースも多いみたい。

造船所で働く船大工たちが増築を繰り返して去っていったのが「千鳥文化」。他にもアーティストがリノベーションした部屋をそのまま残して他の人に貸すなどしているそうだ。

これからどうなっていくのか、また訪れるのが楽しみになった北加賀屋だった。


新なにわ筋を越えて西に進んでいった。

北加賀屋公園と加賀屋天満宮があった。

加賀屋天満宮は小さな神社だけれど、中に入って行くといろいろあって、ちょっと面白い。新田開発の時に勧請したらしく、祭神は菅原道真。

北加賀屋公園との間の道を、若い自転車の母親同士がガラの悪いしゃべり方で、でも親友って感じで、なにか話しながら通り過ぎていった。

後ろに乗った子どもたちはまだ小さくて、静かだった。けれどそのうち、同じように柄悪くしゃべりだすのだろうなあ。柄悪く、いきいきとして、親友になるのかな。

公園の西側の道を北上して、最初の辻を左へ向かった。ここも面白い道だったな。

「穂高荘」「乗鞍荘」「白馬荘」と、白い看板に見やすい文字で書かれた旅館風の古い建物が、等間隔に並んでいた。

造船所があった頃、働いていた人たちが住んでいた文化アパートだったとかかな。今も賃貸らしくて、月19000円~と書かれていた。前には3,4人のおじさんがたむろしていた。元ブルーカラーって感じの。おじさんの一人が犬好きらしくて、話しかけてくれた。

向かいには、「大阪マシーン」なる古びた大きな機械がガラスの中にあった。チェーンのベルトが「大阪」の文字に作られていて、100円入れると動くのだって。タムラサトルなるアーティストの作品らしい。

コインを入れるところには蜘蛛の巣が張っていた。ここでは、蜘蛛の巣がはっているくらいがちょうどよかった。

「白馬荘」の向こうは、ちょっと意表をついたデザインの建物で、「パラドール」とあった。こちらはワンルームマンション3万円台からだって。

他の多くのところでは、このマンションが一番、街にとけこむだろう。けれどこの通りでは浮いていて、個性的に見えるのが面白かった。

コンビニがあり、正面は大きな工場だった。

トラックが出入りするために門が開いていて、その向こうには廃墟のような工場がずうっと奥の方まで続いていた。そこにトラックが入って行く。どこまでも続く塀には、かわいいモンスターたちの絵が描かれていた。

「名村」と書かれていた。

適当にやって来たのに、最短距離でやって来られたかも。ここが名村造船所跡らしかった。

造船所もなくなり、人が減っていく北加賀屋再生プロジェクトの中心的な施設で、イベントの時には公開されるけれど、それ以外の時は立ち入りできないみたい。

ずうっと続く広い広い造船所跡があり、その向こうが木津川と船町らしかった。


木津川沿いは、工場が建ち並んでいたところ。

高度成長期、大阪が東洋のマンチェスターと呼ばれていたっていう時代ね。明治時代から戦前にかけて。けん引していたのが木津川沿いだったそうだ。「大阪のマンチェスター」って、煙害のひどさを揶揄する言葉でもあったみたい。

木津川は西区の中心を南に流れ、西区を出ると西の大正区と、東の浪速区~西成区~住之江区との間を流れていく。

名村造船所は、名村さんが明治44年に創業。元は木津川の大正区側(三軒家)にあったみたい。後に北加賀屋にあった村尾造船所を買収し、移転。

大正区船町には木津川飛行場が、鶴町には中山製鋼所(当時は違う社名)、新炭屋町には栗本鉄工所、南恩加島にはクボタ、三軒家には大阪紡績会社(今の東洋紡)。

北加賀屋のすぐ北の津守(西成区)には大日本紡績津守工場。紡績の主力工場だったのだって。けれど戦時中には軍需工場になり、ここも空襲で壊滅。

柴谷(当時は敷津)には、大正区の千島(前に行った、住宅地にあったゴルフ練習場あたり)から移ってきた藤永田造船所。名村造船所とは隣あっていたらしい。

江戸時代には堂島の船大工だった永田さんが、ドイツ人技師の教えを得て、明治初期に造船所をひらいたのが藤永田造船所で、日本最古の造船所とも言われるのだって。

戦時中には海軍の船を造っていたそうだ。船町などにも工場があり、大阪でも有数の(第3位)従業員数だったそう。軽く1万人超え。

けれどここも空襲で被災。戦後もがんばっていたけれど、バブルの頃に三井造船に吸収合併されたそうだ。

一時は木津川沿いだけで30何社も造船所があったのだって。けれど、時代が移り、大阪うまれの造船所で今も生き残っているのは名村造船所くらいなのだって。


名村造船所跡の手前を右折して、北東に歩いて行った。

このあたりも初めてのところ。

左手には名村造船所跡の塀が続き、右手にはいろんな工場が建ち並んでいた。

大きな施設がどーん、どーんとある感じ。右手に「さくら」と書かれたなにか、次にはゴミ収集車がいっぱい止まっているところ。どうやらここは環境事業センター(南大阪)。

このあたりからは西成区(南津守)のようだった。

「定食あります」ののぼりが見えた。

食堂や喫茶店が一緒になった小さな施設のようなのだけれど、事務所みたいなそっけない建物なのが、風景に似合っていた。

人の通りもけっこう多くて、そこにずらりと工場が並んでいるのは、楽しいくらいだった。

どんどん工場が建っていった時代、こんな感じだったのかな、と思った。

工場は人を呼ぶもの。生活にも変化がうまれて、ちょっとドキドキするくらいのものだったのかも。

最初の四辻で左手に行くとめがね橋(千本松大橋)。前に歩いて渡った大正区に渡る橋だった。

近くに大阪市営の渡船(無料)もあって、船で対岸の南恩加島に行くこともできる。木津川沿いに大工場が林立していた「東洋のマンチェスター」時代から、人々は船で木津川を渡って働きに行ったんだな。

橋ができたのは昭和48年。渡船はなくなる予定だったけれど、要望が多くて残されたのだって。確かにめがね橋を自転車や歩きで渡るのは、毎日となるとつらいだろうなあ。

木津川を行く船に当たらないようにと、眼鏡橋は川面のはるか上の方を通るようになっている長い橋で、渡るのにかなり時間がかかる。前に乗った渡船の方がはるかに楽ちんだった。

船町に行くつもりだったのだけれど、もうおなかいっぱいで、大正には渡らずに戻ることにした。右折して行くと、見覚えのあるコーナンや南津守公園や墓地のあたり。

このあたりは散歩圏内。もう少し足を伸ばしただけで、別世界に行ったみたいだった。

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