長尾街道(藤井寺市)
北に下り坂だった。南の辛國神社や葛井寺は丘の上にある感じなのだろうな。
長尾街道を進むと、途中北側に古そうなところなんかもあった。けれど、あまり面白くはない、ちょっと田舎の住宅街だ。
藤井寺市役所の横を通り、高速(西名阪)の下を通り、合流した12号堺大和高田線を少しだけ進み、それから左手に分岐する道へ。第三中学校の南側の道。市立図書館も過ぎて、国道170号線へ。170号線を渡る信号はここにはないけれど、170号線の向こう、正面に道が続いていて、前の長尾街道歩きではその道に進んでいった。
今回はもっと北側の道を歩いてみようと思う。長尾街道は元はもっと北側にあったとも思われるのだって。飛鳥時代の頃には、雄略天皇陵から真東に続いていたとも思われるらしい。
170号線を北上して、沢田北交差点を右折。ここを東に進んでいくことにする。今年初めてのつぶれた銀杏を発見。
沢田北交差点からすぐに大水川を林橋で渡った。つきあたって、少し南の道を東に向かったら、前に来たことのある伴林氏神社。西の靖国と呼ばれていたという神社ね。
志紀郡拝志郷の式内社に伴林氏神社があって、それがここだろうということになったのだそうだ。牛頭天王社だったのだけれど名も改め、祭神も伴林氏のご先祖に。
伴林氏は大伴氏と同族らしい。祭神は、アメノオシヒ(天押日)と、アメノオシヒの先祖のタカミムスビ、アメノオシヒの子孫の道臣命。
神社の説明によると、道臣命は神武天皇の東征に伴い、時には斎主としての役目も果たしたってことだ。
神武天皇の東征の途中、アメノオシヒがヤソタケルの残党を打ち破ったのは忍坂でのことだったそうだ。
大伴金村が住んだ住吉には生根神社があって、忍坂にも生根神社がある。なにか関係があるのかな・・・。
雄略天皇の頃、葛城氏に代わって急速に勢力を伸ばしてきたのが大伴氏だったそうだ。そして河内湾沿岸部に勢力をもったのだって。
それまで沿岸部にはイクさんたちがいたはずだった。けれどイクさんの一族の葛城氏は雄略天皇によって勢力をそがれてしまったんだな。
伴林氏神社のとなりはこども園でにぎやかだった。前に来た時には空き地だったところのように思う。静かだった神社も、元気になっている感じがした。
南には山も見えて、古そうな集落がひろがっていた。前に歩いて面白かった記憶がある一帯。
そのまま神社の南の道を東へ進んでいった。善正寺があり、急な短い上り坂があって、坂の向こうは(旧)170号線だった。
信号(総社南交差点)の向こうに見えるのが允恭天皇陵だった。
允恭天皇は応神天皇の孫で、仁徳天皇と葛城の姫との4番目の息子。妻が忍坂大中姫で、仁徳天皇の息子の中でだんとつ一番の長い治世をもった。この人以降、都が河内から山側に戻ったのかな。息子に雄略天皇らがいる。
恵我長野北陵ともいうらしい。山が近くて、まあまあ長野感はあった。かつては長野神社もあったらしいし、ここも長野と呼ばれていたところ。雄略天皇が物部氏に与えたっていうところね。
允恭天皇陵の拝所に向かうと、「犬のフンは各自持ち帰り下さい 宮内省」という注意書きがされていた。宮内省に注意されている感じがちょっと面白かった。
天皇陵の拝所への参道の横は普通に住宅街で、間に柵が設けられていた。拝所への道は1つだけで、総社南交差点あたりに引き返した。
このあたりは丘の上という感じ。南には更に上り道だった。
南にはすぐ土師ノ里駅があって、その向こうに道明寺がある。近く(沢田)には仲津姫(応神天皇の皇后)古墳もある。応神天皇陵も近い。
なんてところだろう。歴代天皇たちの古墳に土師の里。
11代垂仁天皇の時、アメノホヒの子孫である野見宿禰(土師氏の祖)に一帯の土地が与えられたのだって。
大和に力自慢の男(当麻蹴速)がいて負け知らずで、出雲の野見宿禰を連れてきて相撲をとらせた。野見宿禰が勝利し、男のものだった当麻の地が野見宿禰に与えられ、野見宿禰は垂仁天皇に仕えるように。
野見宿禰は古墳に埴輪を並べることを進言。古墳づくりに携わるようになり、土師氏となった。
古市古墳群のただなかの土師ノ里に住み、古市古墳群にも携わっていたのかな?? 氏寺が道明寺で、一族からは菅原道真を輩出。
石津川そばの石津神社(堺市)は野見宿禰が神主をしていたといい、そこは百舌鳥古墳群近く。まだ行っていないけれど片埜神社(枚方市)は垂仁天皇にもらった土地に野見宿禰が祀った神社といい、穂谷川をはさんで牧野車塚古墳(4世紀後半)がある。
垂仁天皇の時、地方から抜擢してきた有力氏族に要所を任せている感じがある。野見宿禰には土師ノ里一帯を、和泉の天湯川タナには高井田(柏原市)あたりを与えている。大和川と石川の合流点のそば、東側を天湯川タナに、西側を野見宿禰に与えたんだな。
実際に天皇が与えたのかもしれないし、他の有力者、石津川とか穂谷川とか石川とかをおさえた大物が与えたのが、天皇がって話になっているのかもしれない。そういう有力者に野見宿禰が紹介されたのかもしれないし、そういう有力者が排除されたところに、代わって野見宿禰や天湯川タナを配置したのかもしれない。
允恭天皇陵の北側を東に向かうと、左手に志貴県主神社が現れた。
河内のシキ県主は、天皇みたいな立派な屋根の家に住んでいて、雄略天皇におとがめをうけた人。
名前だけから想像すると、シキ(シギ)一帯(磯城から志紀、信貴山など)の王だったオトシキの末裔がここに領地をもらって住んでいたとか??
オトシキは兄を裏切って神武天皇と手を結んだ人だったと思う。
垂仁天皇、応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇、着々と河内で力をつけていく天皇家に、次第に差をつけられていったのかな?
けれど神社の説明によると、神武天皇の長男の神八井耳命の子孫が河内の志貴県主となったらしかった。
神八井耳命は全国に広がっていった多氏、その他の氏族の祖になっていて、その多氏の氏神が大和の磯城郡にあるそうだ。
昔は長男を他の氏族に婿に出すものだったのかな?と思うことが多いのだけれど、それならば神八井耳命が磯城のオトシキの娘に婿入りしたのかも? それでその子孫が河内のシキ県主となったのかな?
祭神は神八井耳命。
この地が河内国府となった時、総社として創建されたらしい。
総社って、国府に任命されてきたおえらいさんが、任地の神社を回るのを簡略化するために、神社をみんな集めたところ。かつては一宮から二宮、三宮・・・と主だった土地の神社をみんな回るしきたりだったらしく、平安時代頃には簡略化されて、国府の近くに一か所にまとめてしまったそうだ。
ここは古市台地の北端に位置するらしい。
鳥居を出て、東に狭い道を進めばすぐ国府遺跡で、その向こうは下り坂になっていた。その向こうが石川。
国府遺跡は、今も更地のままだった。前にやって来た時、これから観光地化させていくのかな?と思ったのだけれど。とても重要な遺跡で、こうやって保存しているのかな?
旧石器時代のサヌカイトの石器、縄文時代の墓、弥生時代の集落・・・と、連綿と続く人々の暮らしの跡の残る遺跡。
今回の長尾街道(ちょっと北よりバージョン)歩きはここでおしまい。かつて東高野街道はこのあたりを通っていたと思われ、その交点あたり。
ここからは気になっていた志疑神社へ。




