大津神社
前回は北花田(地下鉄御堂筋線)から藤井寺(近鉄南大阪線)まで歩いた2回目の長尾街道。
その続きを歩くべく、高鷲駅(近鉄南大阪線)に向かった。
前回、ついでに大津神社と志疑神社にも行くつもりでいたのだけれど、大津神社は通り越してしまっていたので、大津神社にまずは行くべく、最寄りの高鷲へ。
近鉄南大阪線は高い位置を走る電車で、そこから平野を見ていて思った。山までの平野全部が自分たちのものと感じたら、それは素敵な感覚だろうな。まだそれほど人の住んでいなかった時代、船でやってきてここに定住することを決めた太古の人々には、目に見える範囲全てが、自分たちの土地に見えたかな。
人が増え始めたら、新しい「自分たちの場所」を探し、そこに移っていく人もいただろう。
「自分たち」のサイズは大きくなったり、小さくなったり。
新参者が来て、分け合うことになったら、どうかな。嫌だと思う人もいて、追い出すために戦ったりしたかもしれない。
けれどそのうちには、新しい感性が主流になったのかな。みんなで分け合い、土地も仕事もまつりごとも「自分たち」の範疇を越えて共有したのかな。
高鷲駅から南に向かうと、すぐに寺と玉垣が見えた。パン屋もあって、ここでパンをゲット。
玉垣は大津神社。東向きの神社だった。こじんまりしていたけれど、東側の広い道路のあたりから全体的に、なにやら雰囲気があった。ただの住宅街のような顔をしているけれど、北には雄略天皇。仲哀天皇陵や津堂城山古墳も近く、というか古市古墳群のただ中にあって、長尾街道や竹内街道、古市街道っていう古くからの街道に囲まれているようなところだった。
応神天皇の時、百済の王が日本に自分の孫(辰孫王)を王仁博士と共に送った。
6世紀、欽明天皇(継体天皇の息子で、推古天皇らの父)のとき、子孫の王辰爾が船の税の管理を行って「船」氏となった。王辰爾の弟は「津」の名をもらった。
そして吉備に屯倉が置かれると、その屯倉(白猪屯倉)に業務を行うために派遣されたのが王辰爾の甥。その業績で「白猪」の名をもらい、後に「葛井」に改名したそうだ。
その葛井氏が氏寺として創建したのじゃないかといわれるのが葛井寺で、船氏が氏寺として創建したのじゃないかともいわれるのが野中寺。そして津氏が氏神として創建したと思われるのが大津神社らしい。
飛鳥時代頃の運河兼用水が上田あたりで見つかっていて、丹比大溝と名付けられているけれど、古市大溝というのも見つかっているそうだ。軽里の白鳥陵古墳から北西に、野々上(野中寺あたり)、高鷲(大津神社あたり)を通って、島泉で東除川に注ぐ全長12キロ。
西除川から東除川まで東西に丹比大溝があり、そこから斜めに古市駅のほうに古市大溝があったのかな。
飛鳥時代の頃、運河を使った物流を任されていたと思われるのが、津氏や船氏らしい。
大津神社から東に進むと葛井寺だった。長尾街道の続きを歩くべく、とりあえず葛井寺方面に向かって行った。古いところで、旧家が多く、このあたりも雰囲気があった。
けっこう高低差があって、途中、南にかけて盆地だったんじゃないかってところを通った。
南には伊賀や野々上、野中寺。大津神社と葛井寺が東西に並んでいて、その中間から南下したところに野中寺がある感じ。
飛鳥時代、難波津から難波大道で南下して、長尾街道(大津道)か竹内街道(丹比道)で東の都に向かっていたと言われている。その途中、丹比大溝や古市大溝も見えたのかな。
応神天皇の時代に日本にやって来た百済の辰孫王の子孫たちは、飛鳥時代までは何をしていたんだろう、と思った。
一緒にやって来た王仁さんの子孫だという西文氏は古市に住んでいたらしく、羽曳野には氏寺の西琳寺があった。
雄略天皇のときにも百済から人質として、21代王の息子(コンキ王)が日本にやって来ている。コンキ王は後に百済に戻ったけれど、その子孫などは残ったと思われ、それが飛鳥戸さんで、近つ飛鳥(羽曳野)に住んでいた。
もっとずっと後で百済は滅亡している。唐と新羅の連合軍に敗れて。日本も援軍を送ったけれど全く歯がたたず、大敗(白村江の戦い)。百済の最後の王の息子(善光)が日本にいて、国は滅びたしそのまま日本にとどまったのだけれど、それも今の大阪市だった(後に枚方へ)。
河内界隈は日本の玄関口でもある国際都市で、渡来人たちもいっぱい河内に住んでいたんだな。
雄略天皇の頃、住吉津にやって来た渡航者は、シハツ道を通って都に行ったのだって。今の長居公園通あたりにあったと言われている道。
雄略天皇の頃には都は河内から移っていたけれど、それでも玄関口は河内で、陵も河内近くにつくられた。みんなに見てもらうのには河内がよかったのかな。あと、河内では古墳をつくるための人材も物流も完成されていて、河内がベストだったのかな。
泉北あたりには須恵器をつくる大工場があって、川を使って流通させる仕組みもきちんとできあがっていたらしいし。
雄略天皇は暴君で、武力も持ち、山のほうに都をおきつつも、河内をうまく治めていたのかな。
雄略天皇から優遇された豪族たちが、天皇に代わって河内をまとめていたのかな。
それが大河内氏(アマツヒコネの子孫?)や物部氏(出雲族とニギハヤヒの子孫)、大伴氏(アメノオシヒの子孫で、住吉など河内沿岸部を本拠とした)とかだったのかな。
雄略天皇の息子の後、次期天皇のなり手がいなくなり(雄略天皇による粛清で?)、大伴金村、物部さん、巨勢さん(新興勢力)ら有力豪族が協議したのだって。
まず丹波国から皇族を迎えようとし、けれど逃げられてしまった。次に白羽の矢が立ったのが後の継体天皇。
応神天皇と息長の娘(息長真若中姫)との間に生まれたワケヌケフタマタ王。息長真若中姫の妹を妻にして、忍坂大中姫(後に允恭天皇の皇后になる人)をもうけているけれど、その忍坂大中姫の同母兄だったらしい。
真の継体天皇陵ではないかといわれているのが今城塚古墳。そこ(今城塚古代歴史館)で、わたしは驚くものをいっぱい見た。
「海の民」「世界をまたにかける海の民族」の存在をまざまざと感じさせられた。飛鳥時代もそう遠くない継体天皇の時代は、すでに島国日本として、確立した文明をもっていた感じがした。
天皇って何だったんだろう?
次期天皇を決めるために、有力豪族が協議したってどういうことだろう?
自分たちがトップをとったってよかった。けれどわざわざ王族の中から天皇を探し出している。天皇家じゃなくても力をもつものは、いっぱいいただろうのに。
天皇だけがもつパワーがあると信じられていたのかな?
オオモノヌシを祀るために、その子孫のオオタタネコが探し出されたように、アマテラスを祀るのはその子孫でなければならなかったのかな? そしてアマテラスを祀ることは、国家のとても大事なことだったのかな?
東へと道は上りになって、上り道の向こうは春日丘だった。新興住宅地の感じのするところ。
このあたりで羽曳野市から藤井寺市へ。
大阪緑涼高校の北側の道を通っていったのだけれど、最近までは山だった感じがした。
辛國神社に向かっているはずで、このあたりはみんな辛國神社の神域だったとかじゃああるまいか。
丘の上に高麗木教なる教会があって、それから辛國神社が現れた。物部系の唐国氏が祀ったのでは、といわれる神社。
いつもと様子が違い、屋台が空の状態で並んでいた。山車も2台出されていて、男の人たちが集っていた。どうやら秋祭りの日の午前だったらしかった。
その向こうが葛井寺。西からやって来たのは初めてで、なんだか感じが違った。葛井寺は葛井氏の氏寺として始まったともいうけれど、聖武天皇の勅願で行基が建てたとも言われているのだって。
聖武天皇の頃、寺って氏寺というよりも、智識寺の性格を有していたという話を聞いたことがある。
智識寺というのは、どこかの氏族が建てるとかではなくて、いろんな人(智識)からの寄進などで建てるお寺。それでいうと、智識の中に葛井氏もいたのかもしれないな。
あと、行基は有力豪族の誘致で寺をつくりに行ったってイメージも持っているのだけれど、それでいうと、当地の豪族は誰なったのかな。
行基の師匠は道昭で、船氏の出だった。行基自身は王仁博士や辰孫王と一緒に日本にやって来た渡来人の子孫かな。生まれは和泉国(堺市)。
辰孫王の子孫で船氏と同族の葛井氏には親近感をもっただろうな。
有力豪族は、葛井寺のすぐそばの辛國神社を祀ったっていう物部氏だったのかも。
東の石川左岸の長野って呼ばれていたところは雄略天皇が物部氏に与えたってことだったし、このあたりに物部氏が勢力を伸ばしていたのかな。
丹比大溝は(古市大溝も?)古墳時代の終わりころにはできていたらしくて、それも物部氏とかが関わっていたのかも?
けれど物部氏は、蘇我氏や聖徳太子らによってドンの守屋さんが殺されたことで勢力を失った。それでこのあたりも蘇我氏や聖徳太子らのものになり、丹比道(竹内街道)は官道となったのかも??
葛井寺と辛國神社の間の商店街を北上。
観光案内所があって、「井真成」の名が目立っていた。井真成は飛鳥時代の留学生らしい。19歳で官吏として唐に赴き、36歳でそこで亡くなり、現地で埋葬。21世紀の中国の工事現場から、墓誌(墓のそばに、その人の概要を書き込んで立てた石碑)が見つかり、この全く知られていなかった人が知られることになった。
「体はここに眠るが、魂は故郷に戻るだろう」と墓誌に記されていたそうだ。
けれど詳細は不明。井真成は中国名で、実は「葛井」だったんじゃないか、という説もあり、藤井寺市は葛井説を押し、井真成をご当地キャラにしているらしい。
けれど「井部」って部民もいて、日本でも「井」さんだったのかもしれないそうだ。
リーダーとして一緒に唐に行ったのが多治比さん。多治比さんは帰りは吉備真備と一緒だったそうだ。光明皇后らの時代ね。
商店街を通って線路を越え、「河内ふるさとの道」の道標や旧家などのある辻で交差するのが長尾街道。
少し北で合流した長尾街道と古市街道がここでまた分かれ、南に古市街道が、東に長尾街道が続いている。ここを右折して、長尾街道を東に向かった。




