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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
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長尾街道(羽曳野市)

新興住宅地がぽつぽつと増えてきていた。

前に来た時には長尾街道に接してあったレンゲ畑が、住宅地になったか駐車場になったかして見当たらなかった。「売地」と書かれた田んぼだった気がする一角も更地になっているように思った。

街道の南側は羽曳野で、北側は松原市(一津屋)だった。

恵我図書館あたりで道が2つに分かれるところは左手の道に。

田舎めいた図書館に見覚えがあった。「たばこ小賣所」と札のある商店にも。1つ目小僧的な信号も久しぶりに見た(全国的に随時撤去していくのだって)。

上り道になって、前方には山が見えた。ここまでは家がぎっしり建っていて見えなかっただけで、前方にはずっと山があったんだな。

それからまた下りになって、東除川を高鷲橋で渡った。北側もここからは羽曳野市に。

福田さんの旧家が多かった。それから左手に、記憶にある吉村家住宅。島泉の、とっても大きな、江戸時代の大庄屋さんのおうち。

周囲は住宅密集地だったけれど、かつての姿を少し想像できた。


このあたりで大津神社のシールをはったおうちが散見された。南に行けば大津神社(羽曳野市の氏神)だったのに、気づかずにスルー。

急に田舎の様相になって、右手に雄略天皇陵が現れた。池に浮かぶ小さな島みたいだった。

左手(ここから藤井寺市)は火葬場だった。安養寺と小山墓地があり、それから自動車教習所。教習所の手前を右折して南下すると、雄略天皇陵の拝所だった。

ここが本当に雄略天皇の古墳なのか、それどころか本当に古墳なのかもはっきりとはしていないらしい。

雄略天皇の陵は丹比の高鷲にあるとされていて、ここがそうだろうってことで、工事して古墳っぽく造られたのだって。それでもあまり前方後円墳っぽくはないけれど、古事記に仁賢天皇が雄略天皇陵を一部壊したって記載があるらしく、それでつじつまを合わせているのかな。

本当の雄略天皇陵は大塚山古墳ではないかとか、岡ミサンザイ古墳ではないかとか言われているみたい。

大塚山古墳は松原にあって、全国で5位の大きさなのだって。西野々を南に行ったあたりにあるみたい。

古市古墳群と百舌鳥古墳群の中間あたりに位置していて、6世紀後半のものと考えられるらしい。6世紀後半なので、仁徳天皇の孫にしては遅すぎるのかな。

岡ミサンザイ古墳は5世紀末の古墳で、藤井寺市にある。全国16位の大きさで、仲哀天皇陵とされている。


雄略天皇は、丹比に宮をもっていたという18代反正天皇からいうと甥っ子。

仁徳天皇(16代)の息子3人(母は葛城ソツヒコの娘)が天皇になって、それが履中(17代)、反正(18代)、允恭(19代)天皇。

そのうちの允恭天皇の息子が20代安康天皇(穴穂皇子)と21代雄略天皇。

履中天皇と反正天皇は在位5年ほどで亡くなっていて、19代允恭天皇の在位は長かった。そしてその允恭天皇の息子たちが天皇を継いだ。

允恭天皇の皇后は忍坂大中姫。その父は応神天皇の息子(ワカヌケフタマタ)で、忍坂大中姫と允恭天皇とは従兄妹になる。忍坂大中姫の母は息長一族の娘で、近江の人だそうだ。

仁徳天皇も允恭天皇も長男ではなくて(どちらも四男かな)、自分が天皇になるつもりはなかったというのがちょっと気になるなあ。それにしては在位は長くて、子どもたちが次期天皇にもなっている。

仁徳天皇は葛城氏の娘、允恭天皇は息長氏の娘を皇后にしていた。妻の実家の力強い後押しがあったのかな。

憎き(父を殺した)雄略天皇の陵を壊した仁賢天皇が、反正天皇を祀ったというのも興味深い。

反正天皇の妻はワニ氏。ワニ氏も謎の氏族だけれど、尾張系みたい。反正天皇はかなりのアメノホアカリ系統で、仁賢天皇もそうだったのかな。それでアメノホアカリの末裔の住む丹比に、反正天皇を祀ったのかな。


元の道をまた東に歩いて行った。前方に山が見えるし、すっかり田舎の感じだった。

「右伊勢道」と道標のあるつきあたりを右折。

古代の官道、大津道だったとされる長尾街道は、このまままっすぐ東に続いていたと思われるそうだ。けれど後に南の葛井寺なんかを通るためにか、ここからしばし南に進むように変わったのだって。

ここから南下する道は、古市街道でもある道で、前に北の平野から古市街道を歩いたときにも通った。この少し北には元善光寺である小山善光寺や、小山産土神社があった。

南下すると古い壊れかけのような大きな旧家のある辻にでて、ここはよく覚えていた。南にはゆるい上りで、この先は地名も「岡」。

途中、長尾街道はまた東に向かっていく。けれどそのまま南下して、葛井寺に行き、近くの藤井寺駅から帰ることにした。大津神社も志疑神社も行かずじまいだったけれど。

長尾街道歩きの続きはまた次回。

南下して行くと商店街になって、藤井寺駅横の踏切を渡った。商店街の左手に葛井寺。向かいはパン屋さんで、良心的な価格のここでお土産にパンを少々ゲット。

それから何度かめの葛井寺へ。

百済からやって来た王族(王の孫)の子孫が後に葛井氏となり、その氏寺として創建されたのが始まりじゃないかともいわれるお寺。

おかあさんはお手洗いを拝借。トイレが「烏枢沙摩明王」なる仏様のいる「烏枢沙摩閣」とされていて、面白かった。煩悩不浄をぬぐう仏様らしい。

次に参る人のためにきれいにしておくこと、志納箱も用意しています、みたいなことも書かれてあった。

もう少し南下するとすぐ辛國からくに神社。

雄略天皇の時、このあたりはエガ長野邑といい、天皇から物部氏にプレゼントされたのだって。

和泉中央駅近くに唐国という地名のところがあって、物部系の唐国からくに氏(唐国に渡航して、帰ってきたので唐国氏だそう)が住んだところってことだった。ここもその唐国(辛国)氏関係の神社か?ってことだった。


後には志紀郡となったところ。志紀郡の式内社には志貴県主神社があった。

雄略天皇がそれまで河内で勢力をもっていた人に代えて大河内氏(凡河内氏)に河内を任せたというし、このあたりでも同じようなことが起こったのかな。

雄略天皇は河内の志貴県主のおうちの立派さにダメ出しをして、謝罪させたことがあった。このあたりで勢力をもっていたのはシキさんで、雄略天皇はそのシキさんの力を抑え、代わりに物部氏を台頭させたのかも。

雄略天皇の父の允恭天皇のときから、都が河内ではなく、飛鳥方面に変わったみたい。

河内から引き揚げて、妻の本拠地あたりに引っ越していったとか? そして息子の雄略天皇は、大河内さんや物部さんに河内を任せ、見はらせたとか?


藤井寺駅から帰途についた。

近鉄南大阪線は高いところを走る電車なので、生駒山系がよく見えた。天王寺近くでビルに囲まれてしまう直前まで見えていた。

本当は、こんなに山に囲まれた、きれいな平野なんだな、と思った。

昔の人々にとっては、河内は山々と海に囲まれた美しき平野だったのだろうな。

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