表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
32/46

長尾街道(松原市)

できれば15代応神天皇以降のことを探りつつ、気になっている大津神社と志疑神社にも行ってみようと思った。

方違神社からスタートする気にはなれなくて、もう少し東の地下鉄御堂筋線北花田駅へ。

前に歩いた長尾街道は、堺あたりは全く面白くない道だった。方違神社から東に味気ない住宅街が続くばかりで、それがひたすら長い。そのあたりはカットすることにした。

御堂筋線はだいたいのところ、難波大道あたりを通っている。

難波大道は難波宮(大阪城近く)の朱雀大路から南に向かい、高津、天王寺、田辺、ヨサミ、天美と通って、北花田駅の南あたりで長尾街道(かつての大津道?)と、新金岡駅の南、金岡神社あたりで竹内街道(かつての丹比道)と交差する。

難波大道と長尾街道との交差点あたりから、東に長尾街道を歩くことにしよう。


北花田駅からは、まずは南下していった。

御堂筋だというのに、駅からすぐのマクドをこえると、もういきなり古い感じだった。それもそのはず、その奥(東)は、前に歩いて面白いくらい古さの残っていた我堂だった。

そして西には、華表神社なる神社があったみたい。「華表」って、中国の、特殊な装飾をされた石柱のことだそうだ。台座の上の柱に、龍などがあしらわれていて、宮殿への道の門などにたてられているのだって。大道の交差点などにもたてられるものらしい。

仲哀天皇(神功皇后の夫)の頃、祀られたんだとか。その後、華表神社と名づけられたのかな? 詳細が分からないところがなんとももどかしかった。

左手、いきなりの古い水路と旧家の細道を進んでいった。すぐの辻で右手にお寺が見えていて、そちらに進んでみると、地蔵寺だった。

寺の前を東に進むと、小学校。小学校に沿ってかつては水路が流れていた感じがした。

その南には船堂せんどう公園。地名も船堂町だった。摂津国住吉郡だったところ。かつては長尾街道の北側が摂津国で、南が河内国だったのだって。

公園には池があって、水草が育ち、鴨が泳いでいた。低湿地って、こんな素敵なところだったんだな、と思わされる池だった。小山になったところもあって、そこには石群がたてられていた。


公園の南には五箇荘東校区地区会館があり、南北にまっすぐ水路みたいな川が流れていた。光竜寺川だって。南の大泉緑地から流れて、西除川に注ぐらしい。

この川沿いを南下していった。説明のパネルがあって、水の浄化に、小学生が集めた12万個の乳酸菌飲料の容器が役立てられていることが書かれてあった。ポンプで吸い上げた水を、まずは12万個の容器に通して、ろ過するのだって。

途中で左折して東へ。すぐ「長尾街道」の新しい石碑が現れた。西に行けばすぐ須牟地スムチ曽根神社や宝蔵神社というところ。

スムチ曽根神社は前に行ったことがあった。

長居(東住吉区)に神スムチ神社、住道矢田(東住吉区)に中臣スムチ神社、そしてここ(堺市北区)にスムチ曽根神社があって、雄略天皇の時、住吉津から大和に向かう外国人が通ったというシハツ道に関わる神様と思われるってことだった。

住吉津に到着した人に、まずはスムチ神社でお酒をふるまったとかいう話だった。元はスムチ神社は4社あって、そのうちの3つがこの3社だともいわれている。

スムチ曽根神社は神功皇后の時の創建ともいわれ、祭神は不詳ながら、曽根連の祖、ニギハヤヒやイカガシコオを祀るのではないかとされている。

池上曽根遺跡にあった神社も曽根神社で、祭神は曽根連の祖、ニギハヤヒやイカガシコオだった。根拠は、曽根連はニギハヤヒ~イカガシコオの子孫だと平安時代の「新撰姓名録」に書かれてあることらしかった。曽根神社というからには曽根連に関係している神社だろうってことみたい。

池上曽根遺跡なんていう弥生時代の大集落があった「曽根」は、河内湾の大物、イクさんの本拠地だったろうと思われるあたり。

大昔からそこは「そね」と呼ばれていて、そこにイカガシコオ(10代崇神天皇の頃の人)の子孫が住み着くとか、婿に入るとかして、曽根を名乗るようになったのかな?

そして21代雄略天皇の頃、神スムチ神社で渡来してきた人々を歓待。けれど神スムチ神社だけじゃさばききれなくなったとかで、中臣氏に任せた中臣スムチ神社や曽根氏に任せたスムチ曽根神社を新設した・・・とかかも、と勝手に想像した。

スムチ曽根神社近辺には長曽根ってところがあって、長曽根神社が鎮座している。前に行った長曾根は、なんだか古いところだった。周りはすっかり都会なのに、その中で、まだ古い時代の素敵な緑や空気を残しているようなところ。

あとは岡町と服部天神の間にも曽根があったな。


しばらく地名は船堂町で、古いおうちもあったけれど、そのうち新しい感じの住宅密集地に入って行った。左手に法願寺。

このあたりは北は天美我堂(松原市)、南は南花田(堺市)。

府道192号我堂金岡線を越え、水路を越えると、また古くて面白いところだった。

古くて面白そうな道が北に延びていて、東にひたすら進むのが長尾街道だったけれど、つい北寄りに北寄りに、じぐざぐ進んでいった。どこまでも面白い道が続いていて、きりがないようで途中で引き返したのだけれど。

ここは布忍寺や布忍ぬのせ神社などのあたりだったみたい。見えていた緑は布忍神社だったのだろうな。旧家のほか、古い古いぼろ屋や、清水温泉やかばん屋なんかがあった。皿池のあったあたりかな。

前に行った布忍神社は創建などは不詳。祭神はスサノオ。

ヤマトタケルの、叔母との間に生まれた娘が布忍ぬのし入姫というそうだ。その同母兄が14代仲哀天皇。

南に戻って行くとアプロ(スーパー)があって、アプロの南の道が長尾街道だった。ここ(まつばら商店街)の肉屋とパン屋をよく覚えていた。

長尾街道をもう少し東に行くと、惣井戸。古くから街道を行く人々ののどを潤していたという井戸ね。

それからすぐの西除川を布忍橋で渡った。川沿いに布忍神社が見えていた。

それから左手に布忍駅(近鉄南大阪線)。プラザ商店街らしいのだけれど、とってもさびれていた。

このあたりは丘の感じだった。左手(北)が低くなっていた。ヨサミ池があったあたりかもしれない。


まだまだ東にてくてく歩いて行った。

田井城あたりも覚えていた。前にはここを反対に西に歩いていて、公園のひとつも見つからなかった。条里制の跡が残っているというあたり。

交差点に「河内ふるさとのみち」の案内が現れた。北に進むと0.6kmで田座神社、1.5kmで大林寺だって。

田座神社は式内社だそうだ。詳細は不明。ヨサミ宿禰やアヤハ・クレハを祀るとされているのだって。

なんでも、21代雄略天皇の時、呉から織姫たちがおくられたらしい。住吉津に到着し、シハツ道を通り(住道矢田あたり~喜連)、このあたりにやってきた。

そして養蚕を行ったのだって。その養蚕業を管理していたのがヨサミ宿禰だったそうだ。ヨサミ池の湖畔あたりに桑畑があったのかな。

アヤハ・クレハは応神天皇から仁徳天皇の時代の織姫だった。でも織姫の代名詞みたいになっていて、ここに祀られていることになっているのかな。

ヨサミ宿禰すくねは9代開化天皇(イカガシコメを皇后に、崇神天皇をもうけた)の皇子、彦坐王の子孫らしい。

ヨサミのアビコがヨサミ宿禰になったという話もあるみたい。ヨサミのアビコは開花天皇の別の皇子(母は葛城国造の娘)、タケトヨハヅラワケに始まるはずだった。

ごっちゃになっちゃったか、彦坐王の子孫とヨサミのアビコ家が姻戚になったとかかな?


前にやって来た時には左手に池があった。今回はそこは工事中。

完成後の予想図が絵で描かれていて、池に浮かんでいるみたいな新しい図書館が造られるらしかった。工事が終われば、水を入れて、池の姿に戻されるみたい。すぐ先のコンビニも閉鎖していた。このあたりは市民のための素敵な場所に変わっていくのかな。

国道309号線を渡った。このあたりは人通りも車通りも多かった。なのに長尾街道は道幅が狭くて、歩くのがストレスになるくらいだった。車も人もなんだか荒れている感じで、それも通行ストレスのせいじゃないかなと思った。

国道から河内松原駅方面に近づくにつれ、人通りが少なくなっていった。

「中門の堰樋せきひ跡」が現れた。この北のほう、三宅東に大海おおか池がつくられたのは関ケ原の戦いの頃。

狭山池の用水から水をひいて大海池などの池に水をひき(その施設が中門の堰樋ってやつかな)、余水は今井戸川で大和川に流していたのだって。

大阪は水の少ない土地柄で、そんな土地柄に適した綿作が盛んになるまでは(なってからもかな)、池をいっぱい作ってがんばっていたんだそうだ。今でも大阪府には10000くらいも池があるのだって。


それから阿保茶屋跡があって、ここを南に行くとすぐ河内松原駅。

久しぶりにフラワー(パン屋)のアウトレットのお店に行ってみたけれど、時遅し。シャッターが閉まっていた。仕方ないから近くにあったパン屋でパンをゲット。それからまた東に歩いて行った。

前に同じ道を歩いたとき、茶屋跡からすぐのところで右手に大きな池が現れた。駅近なのに道の横には大きな池があって、それが松原の魅力の1つだと感じたのだけれど、ここも工事中で、おおかた埋め立てられていた。

池が消えていっているのかな・・・。


地名は上田で、上田では旧石器時代から続く遺跡が見つかっているらしい。弥生時代の田んぼの跡なども見つかっているのだって。

7世紀後半頃(飛鳥時代)には既にあったという人工の大溝(丹比大溝)の跡も見つかっている。幅10m、深さ3mのV字型で、用水路兼運河だったと思われるのだって。

長さはかなりあって、東除川から西除川につながっていたと思われ、途中で分岐もしていたそうだ。

氏神は柴籬神社のようで、おうちにシールが貼られていた。

柴籬神社は24代仁賢天皇が反正天皇を祀ったという神社で、河内松原駅の南にあった。

反正天皇は18代天皇。仁徳天皇と皇后(葛城ソツヒコの娘)との皇子で、天皇になった3兄弟の真ん中。

同母兄(次男)の住吉仲皇子が反乱を起こしたけれど、兄(長男で後の履中天皇)に命じられてこれを倒した。そして兄(履中天皇)の亡き後は天皇になって、丹比柴籬宮に都をおいた。

丹比神社に反正天皇が産湯につかったという井戸があって、丹比(松原市あたりから南にずっとが丹比だったところ)は天皇の生誕の地でもあったのかな。

柴籬神社の近く、上田から南に2kmくらい行けば黒姫山古墳があった。5世紀中ほどの「比類のないほどの鉄製品」が出土したという前方後円墳。

5世紀中ほどって、反正天皇(皇后はもたず、妃にワニ氏の娘をめとったそう)より少し後になるのかな。古墳は丹比氏との関係が考えられるらしく、丹比氏ってアメノホアカリの子孫。

丹比神社の祭神はアメノホアカリで、反正天皇の母は葛城氏(イクタマの血をひく氏族)。天皇家は尾張氏(アメノホアカリ一族+イクタマ一族)とも代々関係が深くて、丹比氏の本拠地だったのだろうこの地に宮があったのも必然に思えた。


しばらくして高速(阪和自動車道)の下を通った。高速の下に無理やりおしこまれた感じの、背の低い信号機があった。

高速を過ぎたら西野々だった。

ここは古い集落のようだった。たんぼでは稲が干されていた。旧家も多く、交差する道は、左を見ても右を見ても古くて面白そうだった。

地名が恵我ノ荘になって、このあたりからは羽曳野市だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ