頭がぐるぐる
古代氏族のことが気になって、頭がこんがらがるまで考えるのをやめられなかった。
というか、考えるんだけど、こんがらがってほどけなくなって終わる、って感じかな。
今回の散歩でも、頭がこんがらがった。大河内氏、額田、穴太・・・。
大河内氏は猪名川流域に住んでいた火焔皇子の母の氏族。宣化天皇(6世紀前半)が大河内氏の娘を妻にしてもうけた息子(火焔皇子)が、猪名川流域に住んでいた。
額田と穴太は、園田界隈の白井神社のあるところ。
大河内(凡河内)氏の本拠地は三島で、アメノホヒ、もしくはアマツヒコネの系統らしい。
ということは、アメノホヒの系統とアマツヒコネの系統が姻戚になったのが大河内氏だったってこともありえるんだな。
アマツヒコネの子孫には他に桑名さんや額田さんがいるのだって。イナツヒコネが「イナ(猪名地方)+つ(の)+彦」なのだったら、アマツヒコネはもしかしたら安満地方のヒコネ(尊称)?
安満宮山古墳に眠る人と関係があるのかもしれない。
その近くの山にはアメノホヒの息子、アメノヒナドリが降臨したって話があった。その二人の子孫が姻戚になって、大河内氏になったのかも。
広峯神社(姫路)には多くの社家があるらしいのだけれど、その中心にいたのが広峯家で、それもこの氏族(大河内氏)と思われるそうだ。広峯神社って、6~7世紀頃、インドから法道仙人と共にやって来た牛頭天王が祀られたとも言われている神社ね。
陰陽道に深く関わる神社らしい。
東大阪で知った額田はかつて陰陽師の住む村だった。日本では奈良時代から明治のころまで陰陽道の官職があり(中務省陰陽寮)、有名なのが平安時代の安倍晴明。各地にそれを補佐する陰陽師たち(歴代組)がいたらしくて、東大阪の額田がその1つだった。
15代応神天皇に嫁いだホムタさん(品陀真若王)の3姉妹(一人は皇后になって仁徳天皇らを産んだ)のうち、長女(タカギヒメ)が産んだ子が額田大中彦皇子で、東大阪の額田にかつてあった額田神社には、この額田さんが祀られていたそうだ。
3姉妹の父は皇族で、母は尾張系。
昔々、河内湾界隈ではイクさん(和泉や河内?)とかイナさん(猪名川周辺)とかが勢力をもっていたのかな。アマさん(三島)もかな?
そこにアメノホヒ(出雲)の一族やアメノホアカリの一族、天皇家(九州)などもやってきて、いろいろ結びついていった。争うこともあったかな、けれど15代応神天皇の頃には、天皇家が一大勢力となっていた・・・のかな。
天皇家のそばにはアメノホアカリ一族がいた。船団ももっていただろう、海運を盛んに行っていたのだろう、船の一族。アメノホアカリ一族とイクさん一族が婚姻をして尾張氏になっている。
ヤマトタケル(応神天皇の祖父)の東征には尾張氏や大伴氏が従い、その尾張氏(タケイナダネ)の妹はヤマトタケルの妻に。そしてタケイナダネの娘は景行天皇の孫の妻になり、その娘(ナカツヒメ)は応神天皇の皇后に。
同母姉のタカギヒメも応神天皇の妻になっていて、産んだのが額田大中彦たち。他に大山守って息子もいて、この人は応神天皇亡き後、反乱を起こしている。
異母弟の菟道稚郎子が次期天皇になるのが面白くなくて、暗殺しようとしたそうだ。失敗して死亡。結局、菟道稚郎子も亡くなり(自殺?)、仁徳天皇が即位。
皇后が生んだ子(仁徳天皇)じゃなく、菟道稚郎子が次期天皇になる予定だったのは、応神天皇が寵愛していたからなんだとか。けれど結局仁徳天皇が即位して、アメノホアカリ系の勢力が決定的になったのかも??
そして仁徳天皇の孫にあたる雄略天皇のときには、河内を大河内さんに治めさせている。
雄略天皇は特別に力をつける豪族が出ないようにしていたみたい。それにはそこまで有力者じゃなかった大河内氏がちょうどよかったのかな?
そして大伴氏や物部氏が要職につき、武力担当になっている。よほど信用できる人々だったのかな。
やがて雄略天皇の子孫は絶えて、26代天皇になったのは地方にいた継体天皇。
尾張氏の娘を妻にし、その妻が産んだ息子たちが次(安閑)とその次(宣化)の天皇になっている。
宣化天皇は大河内氏の娘を妻にし、その息子(火焔皇子)やその子孫たちは猪名川界隈に住んだ。
ほかにもいろんな皇族たちが、あちこちに広がっていったのだろうな。
尾張氏や大河内氏などの娘が生んだ皇子たちがあちこちに。
穴太は、前に散歩した八尾市にもあった。
聖徳太子の生母(穴穂某さん)の成人の地だと称するところで、穴太神社があり、氏寺だったという千眼寺跡もあった。
穴太って古墳の石積み、後には城の石積みを行っていた人々のことをいうそうだ。近江坂本の穴太が元の本拠地で、東漢氏であるらしい。アチノオミの末裔、というか、アチノオミと一緒に応神天皇の時代に渡来してきた人々やその子孫ね。
アチノオミは帰化して、明日香村に住んだとか言われている。
まだそちら方面には行っていないのでよく分からないのだけれど、散歩に行ったところではアチノオミはイナツヒコ(猪名地方の男)という名をもらい、池田市に祀られていた。
そして池田には、イナツヒコが海外から連れ帰った織姫、クレハ・アヤハも住んでいた。
穴太ってところは他に三重にもあるようで、そこは員弁郡穴太。桑名が近い。
桑名さんって、大河内さんや額田さんと同じアマツヒコネの子孫にいた。
「イナ」に「穴太」に「アマツヒコネ」・・・。ただの偶然かもしれないけれど、気になった。こうなると尼崎の「アマ」さえも気になってくるな・・・。
12代から14代の天皇が滋賀に宮をもっていて、それが志賀高穴穂宮だという言い伝えもあるのだって。
後には穴穂皇子(雄略天皇の同母兄の20代安康天皇。母は忍坂大中姫)のために穴穂部が置かれたそうだ。
時系列で言うと、
1.近江に穴穂ってところがあった。
2.応神天皇の時、アチノオミと共に渡来してきた東漢氏の一部がそこに住み、穴穂⇒穴太氏となった。
3.穴穂で允恭天皇の皇子(息長系の穴穂皇子)が育った。穴穂皇子の名代(皇子のための土地かな)として、兄の雄略天皇の時(既に穴穂皇子は亡い)、穴穂部がおかれた。
4.穴太さんも穴穂部さんも各地に拡がっていった。
・・・とかかなあ?
そして尼崎の穴太や額田には白井神社があって、その祭神がアメノタヂカラオ。
アメノタヂカラオはわたしが散歩してきた中では、茨木神社と恩智神社(雄略天皇の時の創建で、当初の祭神はアメノタヂカラオ)に祀られていた。
茨木神社にアメノタヂカラオを祀ったのは坂上田村麻呂(アチノオミの末裔)と言われていて、恩智もアチノオミになにか関わっているとかいうところ。
尼崎の穴太も、なにかアチノオミかその子孫に関係があるのかな・・・?
近くの伊丹にはアチノオミ(イナツヒコ)の墓といわれる古墳もあったし、大鹿ってところ(伊丹市)には坂上田村麻呂がこのあたりで大鹿をつかまえたって話があった。
いろいろとわたしの手に余る。
けれど、気になるんだなあ。気になって、もう一度長尾街道を歩いてみることにした。
「イク」さん(イクタマの一族)は最初のうち、和泉界隈に勢力をもっていたのじゃないかなって気がした。イクさんは河内湾の大物で、いろんな氏族がイクさんと結びつき、それぞれにどんどん栄えていったのじゃないかな。
そして多くの有力氏族は大和の山に基地を持っていたけれど、その活動の場は海や平野だったのじゃないかな。
天皇家も、15代の応神天皇の頃からはしばらく宮さえも河内においていた。その本拠地あたりを通ると思われる長尾街道。
出発点は反正天皇陵と言われる古墳に近い方違神社(堺市)で、雄略天皇陵も通って、河内国府跡へ向かう。
前に歩いたのは、な~にも分かっていない頃だった。今なら、もう少しは分かって、なにか気づくこともあるかもしれない。




