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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
30/46

田能・園田

住宅の並ぶ道を進んでいくと、加茂神社が現れた。

その奥は称名寺で、細い道でつながっていた。田舎で、田んぼばかりのところだったのだろうなあって感じのところだった。それがみんな住宅に変わったのだろうな。

ここは神津村を形成した8つの村(東桑津、西桑津、森本、中村、下河原、小坂田、岩屋、口酒井)の1つ、森本村だったところ。時々旧家も現れた。加茂神社については詳細は不明ながら、南北朝時代に加茂別雷カモワケイカヅチを祀ったとか言われているそうだ。

もう少し南下すると地蔵が現れて、水路だった感じがした。当麻で水路が流れていて、地蔵があって、その奥に古いものが固まっていた、その感じに似ていた。

奥(西)に進んでみると、緑道になっていた。川だったのかな?という感じがした。なにかただものでない気配がした。

ここを南下して行くと、春日神社にたどり着いた。口酒井春日神社だって。

元は猪名川の西側(猪名川と藻川の中州)にあった酒井村が、洪水か何かで村ごとここ(猪名川の東側)に移転。ここが新しく酒井になり、元の酒井は「元酒井」になったんだって。そして他にも酒井というところがあったので、河口に近いほうの酒井ってことで、ここは「口酒井」になったらしい。

春日神社について詳細は不明。

本殿は鴻池の大工によるもので、1641年のものだそうだ。

口酒井では遺跡も見つかっていて、縄文時代終わりころ(というか、弥生時代のはじめかな)の水稲栽培の跡もあったのだって。このあたりでは一番早い水稲の跡。

近くには立派な旧家があり、水路と神社と旧家との、ちょっとすごいところだっただろうと思われた。弥生時代から人の住んでいた空気感が残っているような。今では神社のすぐ近くまで新興住宅が迫っていたけれど。


南参道から出て行くと、すぐ猪名川の堤で、手前の高台に地蔵たちがいた。

車道を渡って、猪名川の堤に上がっていった。堤を歩くと、バッタがいっぱい跳ねた。橋と飛行機が見えた。

南に見える橋に向かって行く途中で、伊丹市から尼崎市に入ったようだった。

昭和44年にできたらしい猪名川橋を渡らずに横を過ぎてすぐのところ、左手に田能たの遺跡が現れた。田能資料館も併設されていた。ところが休館日・・・(月曜日)。

史跡公園になっている田能遺跡の門も閉じられていた。けれど入れたので、お邪魔させてもらった。(現在は不可)

遺跡では3軒のおうちが見つかったらしく、それが復元されたりしていた。池もあって、けれど小さな公園だった。

3軒って・・・ど田舎だったってこと? けれど稲作を行う弥生時代に、たった3軒でなにができる・・・??とか思った。

田能遺跡は国の史跡にもなっている大きな集落だったそうだし、公園内では3軒だけ見つかったのかな。

資料館は閉まっていたし、よく分からなかった。

後で知ったことには、それほど文化財保存に重点を置いていなかった時代のことで、配水場の工事中に見つかったものの、工事を進めながら、そばで発掘作業。一部だけが辛うじて残され、ほとんどが破壊されてしまったそうだ。

ほんとうはこの周辺にずうっと広がる集落だったんだな。家もいくつもあったんだろう。

このあたりに弥生時代の遺跡が見つかっているということは、桑津から服部天神(稲津)と続く昔の海岸線の途中に田能があったのかな。その先は豊津、摂津、沢良宜あたりかな。

海岸線に土砂の堆積で陸が拡がって、そこが水田になっていったのかな?

復元されたおうちは中に入れるようになっていて、おかあさんにだっこされて覗くと、中は真っ暗だった。弥生人を甘く見ているな、と思った。弥生人が明かりとりやひさしなどを考えなかったわけがない。それくらいのものを作らなかったわけがない。

ここでも飛行機の音がしていたけれど、姿は見つけられなかった。あとで猪名川橋から見てみると、遺跡のすぐ裏手に下りてくる飛行機が大きく見えていた。

田能遺跡のすぐ裏が水道施設で、その奥が伊丹空港のようだった。


猪名川橋を渡った後は左折して、園田競馬場方面に行くつもりだったのだけれど、右手に大きな旧家と森みたいな緑が見えて、面白そうだったので、ひとまず右手へ。

古いところだった。猪名川と藻川の間の中州になったところで、地名はここも田能。覚円寺があって、川島さんや川嶋さんが多かった。

もっと西には田能春日神社もあったみたい。興福寺の荘園だったあたりで、春日大社から勧請したのだって。

水路沿いを南下して信号を渡ると、園田競馬厩舎団地が目の前だった。関係者以外立ち入り禁止と看板があり、門の前には警備員さんが立っていた。

右折すると左手に競馬場の高い塀が続き、反対側には水路と住宅。

けもののにおいがきつかった。塀の合間に厩舎が見えた。馬がいた。

団地って、その頃のわたしは住むところと思っていたので、馬の住む団地なのかな??とか思ったのだけれど、今なら分かる。厩舎団地は、厩舎の集まりのこと。

また警備員の人の立つ出入り口があって、警備の人が門を開け、そこを自転車に乗った人が親しげにあいさつしながら通っていった。馬が病気になったりしないように、関係者以外は立ち入れないけれど、関係者の外出は自由なんだろうな。ただ、人間の場合ね。


競馬場前交差点に出て、ここが園田競馬場の表側らしかった。

食満通りとあった。この道を西に行って藻川を渡れば食満けまらしい。前に有馬道を散歩して、古くて面白かった食満。その南には古いいわれの瓦宮もあった。

東に進んでいくと、森みたいな緑をバックにした広い駐車場に出た。広いのに人は全くいない道だった。地名は稚堂しどう。競馬が開催される日には、駐車場は車で埋まり、人も行きかうのかな?

阪神競馬場には、戦争の頃、海軍用の飛行機をつくる工場跡地だったという歴史があった。園田競馬場は?と思って調べてみたのだけれど、昭和5年に淡路島にあった競馬場が園田村に越してきたということしか分からなかった。川のそばの田園地帯だったのかな?

どうして淡路島みたいな島民以外はわざわざ行きにくい場所に競馬場が?と思って調べてみたら、やっぱりやってみたものの、1年で廃止。園田に移転してきたみたい。

戦後にもう一度淡路競馬場を復活させてみたようなのだけれど、やっぱり2年で廃止。代わりに開かれたのが姫路競馬場らしい。ひとまず馬を集め、従事者も慣れるのに1,2年淡路島でやってみたのかも。

緑のほうに進んでいくと、十九神社が現れた。

このほんの一角だけは、平安時代から変わっていないような感じだった。元はもっと広い神域だったのが、小さくなって存在感を消しているみたいな神社だった。

十九と書いて「とおく」。祭神は豊受とようけ姫で、トヨウケ⇒トオクとなったと思われるそうだ。創建などについて詳細は不詳。

豊受(とようけ・とゆけ)姫は穀物の神様で、一説には丹波を本拠地とするそうだ。

伊勢神宮(内宮)にアマテラス(の魂のこもった鏡)が祀られた後、21代雄略天皇の時代に外宮に祀られたのが豊受姫だったそうだ。

地名の椎堂は、椎田公からきていると思われるのだって。

飛鳥時代の初め頃、28代宣化天皇(継体天皇と尾張氏との間の子)の皇子、火焔ほのお皇子がこのあたりに住んでいたらしい。その子孫が椎田公と呼ばれたのだって。火焔皇子の墓も近くにあったそうで、この近辺を本拠にしていた人だったんだな。墓は伊丹空港になって破壊。

食満の南の瓦宮でもそんな話があった。宣化天皇の子孫の川原公が住んでいたってことだった。

宣化天皇の子の火焔皇子の子孫のうち、椎宮に住んだのが椎田公、瓦宮に住んだのが川原公。あと同じく猪名川流域に住んだイナ公もいたみたい。

火焔皇子の母は大河内氏で、大河内氏は河内や摂津などにかけて勢力をもっていたそうだ。21代雄略天皇の頃から河内で力を持つようになったと思われるのだって。

雄略天皇はかなり強硬に力を行使した人のようだから、雄略天皇に気に入られて、勢力を伸ばしたのかな。

アジャリの森に行ったとき、そこにも大河内氏の話があった。27代安閑天皇(宣化天皇の同母兄)のとき、三島の三島県主(アメノホアカリ系?)は昇格し、河内の郡司(国造)だった大河内氏(アメノホヒ系?)は降格になったという話。

天皇の母が尾張氏(アメノホアカリ系)だったことも関係したのかもしれない。21代雄略天皇のとき勢力を伸ばした大河内氏が、年月が経って少々力を失っていたのかな。


十九神社の裏は猪名川公園になっていて、猪名川が流れているようだった。

猪名川公園の中を南下していった。

公園の水道に大きなカラスが五羽。遊んでいるようだった。

これから船詰神社に寄って、園田駅から帰るつもり。

途中で公園を出て信号を渡った。その先にも他より高くなった緑道が残されていて、ここを南下。利倉緑小橋を渡った。橋の下は道路になっていた。まだ飛行機の音が近かった。

利倉西町交差点を渡った。左手には緑が見えていて、猪名川風致公園だったみたい。猪名川は改修されて今の流れになっていて、元の流域が猪名川公園や猪名川風致公園になっているらしかった。

利倉西町交差点を渡ると船詰神社があった。

猪名川上流から流した木材をこのあたりで船に詰めていたから「船詰」となったといわれる神社。祭神はトリの石楠船イワクスフネ、別名アメノトリフネ。ヒルコが乗せて流されたという船ね。

けれど詳細は不明。今では交通安全の神様になっている感が強かった。

地名は東園田で、近くには時水さんの旧家が多かった。


左手に小さな公園が現れるまで南下して、公園の手前を右折。

緑豊かな低湿地だった感じがあった。海抜は2m。

中学校を過ぎてすぐの信号で左折。南下して行くと右手に小さな白井神社が現れた。

白井神社も詳細は不明。けれどこのあたりには白井神社(祭神はアメノタヂカラオ)が4つもあるらしい。東園田には旧穴太村と旧法界寺村に1つずつ、もっと南の藻川沿いの善法寺と額田に1つずつ。ここは法界寺村だったところ。

あとは園田駅まで、市街地を歩いてすぐだった。

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