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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
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有馬間道と御願塚

須佐男神社を西から出ていき、つきあたりまで進んだ。

左折の道も面白そうだったけれど、右へ。すぐ川を渡った。このあたりは不慣れでよく分からなかったけれど、久々知排水路だったみたい。

水路を渡ると右折。西正寺(真宗本願寺派)があった。

次の四辻で、向かうべきは北西だったから、まっすぐ北に行くか、左折して西に行くか迷った。どちらの道も面白そうだった。古い一帯なのだろうな。地名は上坂部だった。坂合部が下坂部と上坂部とに分かれたのかな。

とりあえず直進してみた。古そうな家もあった。でも間もなくとり壊されそうだった。次の辻を左折。カラー舗装された道だった。○○家住宅とか地蔵堂とかがあった。

線路に至る前の四辻を右折。北上すると上坂部1丁目交差点で道が広くなり、急に新しい感じの町になった。広々としていて、おしゃれな新しいマンションがいっぱい建っていた。植木の代わりにアットランダムに育てた草木が一帯をおしゃれに演出していた。

左手にはJR塚口駅。ここも最近変わったのじゃないかな。JR尼崎駅の北の潮江みたいに。

ここにはかつて森永製菓の工場があったんだとか。工場が取り壊されて、新しくきれいな一角に生まれ変わったのかな。


駅を過ぎて、最初の踏切を西に渡った。おしゃれな感じは終わって、このあたりも古そうだった。

川を3度も渡って、県道13号尼崎池田線へ。川は昆陽こや川と上坂部川と用水路かな。有馬間道のあたりを元は大きな川が流れていたのかもって感じがする。

13号線を北上し、阪急神戸線を過ぎて(すぐ西に阪急の塚口駅)、次の信号(塚口本町7交差点)を左折。左手の高くなったところに祠があった。

「塚口城跡」とあった。ここは塚口城となっていた環濠集落の東端にあたるところらしかった。ここからその集落に入って行く感じ。

塚口は「一向宗興正寺派(真宗興正派)の別格本山・塚口別院を中心に栄えた寺内町」だったのだって。

富田、久宝寺、八尾、富田林、貝塚、下坂部、あちこちに寺内町だったってところがあった。ここもそうで、中心だった寺の跡に建つのが正玄寺(塚口別院)だそうだ。

正玄寺(真宗興正派)のある場所に真宗の塚口御坊があって、その塚口御坊を中心に町ができた感じかな。後で知ったことだけれど真宗興正派は明治時代に仏光寺派から独立した宗派だから、元は仏光寺派だったのだろうな。

応仁の乱のとき、門徒たちは土塁と環濠をつくって立てこもり、それが塚口城となったのだって。

本願寺(真宗本願寺派)は織田信長と敵対したけれど、多くの寺内町は信長側についたそうだ。ここ塚口でもそうだった。荒木村重が今のJR伊丹駅にあった有岡城(伊丹氏を追い出して、荒木村重がのっとって有岡城とした城)にたてこもった時には、織田信長の軍勢はここ、塚口城などに入って戦ったのだって。

塚口城内への出入り口は4つあり、ここはそのうちの1つ、東町門があったところだそうだ。高くなっているのは、土塁の跡。


東町だんじり庫や願生寺(浄土宗)、矢野家住宅他、大きな旧家があった。

古くてしっとりしたところだった。

正玄寺を過ぎて右折すると、石仏たちがずらりと並んでいた。この道を北上していった。緩い下り道で、何かわからない祠などあった。

住宅密集地ではあるけれど、交差する道もみんな古くからあった感じだった。右手に塚口第2公園があって、その北側に報徳寺(真宗本願寺派)と参道があった。参道を行くと、塚口神社だった。

「ここより斎庭ゆにはです」とあり、ペットNGだった。ゆにはって初めて聞く言葉だな。

塚口神社の祭神はスサノオだった。創建については不詳。言い伝えでは行基開基の寺であるらしい。

散歩していて何度も目にする行基は、奈良時代の有名なお坊さんで、奈良の大仏を造るのに聖武天皇が手を借りた人。各地に池、用水、港、橋、寺、布施屋などを造り、民衆に尽くした。

昆陽周辺では、行基開基と伝わるスサノオの神社(元は牛頭天王社かも)が多い気がした。

行基が手がけた和泉地方の久米田池には、池の管理などを行う施設として寺(久米田寺)がたてられ、守護神としての神社もあった。

昆陽にも行基によって池が造られている。昆陽池公園の昆陽池など。元はもっと大きい池だったけれど、一部だけが残っているそうだ。

前に西国街道歩きで昆陽を通ったときの説明によると、昆陽には5つの池が行基によってつくられて、合わせて昆陽池と呼んだということだった。武庫郡コヤ郷だったあたりにつくられ、今の伊丹市北部らしい。この北の方。微高地で、水不足になりがちなそこに、池を造成。

その関係でこの界隈で行基開基の神社が多いのかな。

もしかしたら昆陽のほうからここを流れてきていた大きな川があったのかもしれない。川をせき止めて池を造ることで、その下流の流れが小さくなり、用水路として使えるようになり、それが昆陽川で、そこにも祠か社かを建てた、とかだったのかも。

塚口神社のそばを流れる昆陽川を遡ると昆陽あたり。

久米田池造営には橘諸兄が尽力したと考えられるのだって。昆陽もそれだけ大規模に開拓されたなら、相当の大物の尽力があったのだろうな、と思った。


来た道の続きを北上。このあたりで伊丹市に入ったみたい。すぐ阪急伊丹線で阻止されて、少しだけ迂回して踏切を渡り、続きを歩いた。柏木町自治会館の左側の道。

高い位置にある南野墓地につきあたり、左手へ。

急に高くなっていて、妙なところだった。ここは古墳(柏木古墳)だったそうだ。

詳細は不明。古墳が墓地になり、墓地だったおかげで、周囲が住宅などになっても元の姿のまま残ったから、古墳があったらしいと分かったみたい。地名も塚口というだけあって、古墳だらけのところだったのだろうな。

そしてその子孫か関係者かが、行基に昆陽池を造ってもらうのに尽力した大物だったのかも。

この先の道は、消滅していた。代わりに駐車場とテニスコート、若菱なる三菱の寮(地名も若菱)が続いていた。そこを大きく迂回すべく、左折して塚口小学校北交差点(県道142号米谷昆陽尼崎線)へ。142号線を少し北上して、左手に斜めの道が現れたら、そちらへ。ここが消滅した道の続き。地名は安堂寺町だった。

このあたりでは、黒いスレートみたいな板に町名を書いたものがゴミ捨て場に置かれていて、町名を知れる。前にも見た覚えのある板だった。

途中から水路沿いの道になった。けれどこのあたりはすっかり住宅街になっていて、全く面白くなかった。

庄下川を渡ると南野町。つきあたりには大きな旧家があった。

水路に沿って旧家の右手の道で北上を続けた。古くからの農家があり、一帯は田んぼだったのが開発されて住宅地に変わり、それで散歩には面白くない住宅街になっているパターンかな。

飛行機が上空を飛んでいった。


景色が変わり、ここまでは農地だったところ、ここからは村の中心だったところかな、と思えた。

古くから家々が建ち、道があったので、そのまま今も残っている感じ。古さを残したところもあった。

車道を渡ると水路がいっぱいで、このあたりからは完全に古くて面白くなった。

前方には高架があって、高速かと思えば新幹線だった。

有馬道はその向こうに続いていく。のだけれど、ちょっと寄り道。近くの南野神社に。

水路に沿って歩くと、少し西に東浦公園があった。そばのおうちは古くて、商店だったのかな。貼られたレトロなステッカーは「岡崎投資信託」「たい印 増田胃腸丸」。

公園の南に見える大きな緑が南野神社。

道は少し複雑だった。元は水路があったのだろうな。小さな境外社っぽい愛宕神社を右手に見ながら、緑の中を歩いていった。

なんだかこわかった。

つきあたるとその向こうは公園で、左手には鳥居。南野神社の南の参道で、まずはそのすぐ横の了福寺に行ってみた。石仏がいっぱいで、薬師如来や弁才天もいた。廃寺だそうだけれど、建物も含め、いろいろなものが保存されている感じだった。

そして南野神社へ。参道の両脇には武者がいた。前には仁王門だったところが、神仏分離で仁王をおけなくなり、代わりに置くようになったのかなと思ったことのある武者の人形。

他はあまり境内のことは覚えていない。なんだか怖かったのだ。

前に、ある神社で、確かに神がいると感じた、それとは違う、前に、別の神社で、なにかやばいものが封印されている感じがした、それとも違う怖さだった。その日、悪でも善でもないナニカ大きなものが存在していた。

ここも了福寺とともに、池を造りに来た時に、行基が祀ったとされているそうだ。祭神はスサノオと少彦名スクナヒコナだって。


神社の南側の公園で休憩をした。新幹線が走る音がし、飛行機も飛んでいった。住宅密集地で、公園周辺には新しい家も多かった。

有馬道の続きをまだ歩くつもりだった。けれど疲れていて、帰ることにした。昼も過ぎて、暑くなってきていた。

東に行くと稲野駅(阪急伊丹線)があるようだった。新幹線の高架の下、日陰になっている北側を東に向かっていった。そうすると思いもかけず面白いものでいっぱいだった。

林上橋を渡ると、右手に墓地が見えた。御願塚7丁目交差点の手前、新幹線下をちょっと離れて、左手に分岐していく道にひかれて入って行くと、古くて、面白い一帯だった。

尾部さんややのさんなどの大きな旧家があった。新幹線沿いの農協会館には大きなクスノキ。祠、西光寺(浄土宗)や須佐男神社。みんな一体になって、物語にでてきそうなところだった。少年が少し昔にタイムスリップするような物語に。ただ新幹線が走っていなければだけれど。

須佐男スサノオ神社は、ここもまた行基が創建したと伝わるそうだ。すごく大きな旧家があって、そこから出てきた3人のおじさんおばさんが、農作業スタイルで自転車で出かけていった。

田中邸は都市景観形成建築物の指定を受けていた。大きくて、古くて、素敵だった。けれど、全然浮いていなくて、周りもみんな同じなの。箟さんのお宅も指定を受けているようだった。

伊丹郷に酒蔵(大星酒造)をもっていた一族に箟家があったようなのだけれど、関係者なのかな? 伊丹郷はここから北に2キロほどのところだった。

古くて、面白い一帯だった。尾部さんも箟さんも、ここ御願塚ごがづかが発祥の地であるらしい。


それから駅に向かって南下して行くと、踏切の近く、緑が見えた。

緑の方向に行ってみると、御願塚古墳だった。小さいけれど可愛い形だった。帆立貝式前方後円墳だって。長さ52m。

5世紀後半の古墳で、猪名野を基盤にしていた氏族の墓と思われるってことだった。二重の環濠があったことが分かって、大物だったのじゃないかと思われるのだって。

古墳って、下から見てもあまり分からない。上に立ってみてこそのものだと思うのだけれど、ここは上は南神社になっていて、犬の散歩NGだった。おかあさんのだっこで上に上がった。そうするとここでは山は遠かった。

上に立ってみると山が近いってパターンが多いけれど、ここでは北方面に山は見えるのだけれど遠く、それよりも海に近かっただろうと思われた。

ここは塚口古墳群の北の端らしい。他にも倍塚と思われる古墳があって、合わせて五ヶ塚、そこから地名が御願塚ごがづかとなったとされているのだって。他の古墳は宅地になるのに壊されたそうだ。

道の向かいには行基像がたっていた。

それから稲野駅はすぐだった。近くにパン屋さんがあったので、おみやげにゲット。

阪急伊丹線って、神戸線の塚口駅から伊丹駅に行ける線みたい。塚口で神戸線に乗り換えておうちに帰った。

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