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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
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イクとクワ

暑くて散歩に行けない間も、イクとかクワとか気になっていた。頭の中は混とんとしていて、ちょっとまとめてみた。

散歩していて知ったことをまとめると、こんな感じかなあ?

旧石器時代、ナウマンゾウとかを追いかけて、今の大阪にも人間がやって来た。その頃、日本はまだ島国になっていなかったらしくて、船がなくても歩いてやってこられた。

羽曳野丘陵あたり、国府こう、忍ヶ丘、高槻は安威川あたり、枚方界隈は交野山あたり、寝屋川は高宮、東大阪は石切、大阪市は長原、和泉は大園、池田、小阪(堺市)、地蔵堂(貝塚市)、王子(貝塚市)などなどなどで旧石器時代の遺跡が見つかっているそうだ。

陸だったところのあちこちをヒトは歩き回っていたんだな。


それから長い年月が流れて、人間は舟を造り、土器を焼くようになっていた。

土器で蒸し器をつくり、栗とか蒸していたのかな、おいしく食べる工夫をしていた。動物の骨で針をつくり、本革の靴とか服とかバッグとかつくった。ボタンも発明、ボンド的なものも発見。ひとはあるものを活用し、よりよく生きる工夫をする生き物だった。太古の昔から。

つるや竹でかごを編み、たぶん人類で最初に漆器をつくった。

星を観察し、よりよい石器をつくる努力を惜しまず、絵を描いた。どうして夜と昼があるんだろうなんて考えながら土をこねた。

栽培や飼育もはじめた。でも最初のうちは、それにそこまで頼ることはしなかった。

そこに西の方から少しずつ少しずつ水稲栽培で生きる人々が伝播していった。最初は先住の縄文の人たちと違うグループをつくって住み着いたみたい。そのうち一緒にグループを作るようになっていった。嫁入りとか婿入りとかした結果かな。

気候のせいか、縄文時代には人々は東北に多く住んでいたそうだ。けれど弥生時代には、水稲栽培に適した関西に人が増えていったみたい。東北からはるばるやって来たグループとかもいた。

和泉には池上曽根遺跡など、三島(高槻・茨木あたり)には安満遺跡など、弥生時代の大きな遺跡も見つかっている。

三島は弥生時代後半には銅鐸づくりを担っていたそうだ。人も増え、邑同士の交流も増え、交易も行われ、だんだん分業が行われるようになっていったのかな。なにしろ縄文時代にはすでに、姫川(新潟県あたり)ってところで採れたヒスイで作った装飾品とかが各地に流通していたくらいだった。大阪の縄文時代の遺跡からも見つかっているそうだ。


すごく大まかにいうと、弥生時代の最初は大きな集落が多かったみたい。水稲栽培をして生きるためには、大勢で働く必要があったのかな? 大阪市の長原みたいに、稲作の時代になっても縄文の暮らしを長く続けた大集落もあった。みんなそれぞれの事情や意識があったんだろうな。

けれどだんだん、集落は小規模化。そのうち不穏な世の中になったか、弥生時代の終わりのほうでは高いところに集落を持つことが多くなったそうだ。

オオクニヌシがスクナヒコナに助けられて国造りしたのは、弥生時代の話なのかな?

天皇家が大阪入りする前の話。

スサノオの子孫のオオクニヌシは、出雲の人。出雲の人の言い伝えに、インダスの方からやってきて住んでいた東北が寒くなりすぎて、出雲に移ったってのがあるらしい。その人たちの子孫だったのかな。

オオクニヌシが、スクナヒコナに助けられて国造りしたっていうのは、オオクニヌシが天下統一を果たしかけたってこと?

けれどスクナヒコナは途中で去り、オオクニヌシは途方に暮れた。なんとかオオモノヌシを三輪山に祀ることで国造りが完成。

オオモノヌシ=オオクニヌシともいうから、今までそれを信じていたのだけれど、本当かな?という気がしてきた。オオヒルメ=アマテラスというのを信じなくなったのと同じで、なんだか嘘くささを感じるようになった。

オオクニヌシは国の主、オオモノヌシは物の主。物部みたいに、物は「もののふ(武士)」の「もの」で、武力を表したのかな。

武具をつくる者がいたとかで、その頭(オオモノヌシ)を味方にして三輪の地を与えることで国造りが完成したのかも??

オオクニヌシは国を治め、その子孫たちは近畿一円にも広がっていったのかな。それがアヂスキタカヒコネであり、エシキ&オトシキであり、ナガスネヒコであったのかな。子孫というか、アヂスキタカヒコネ(オオクニヌシの息子)以外はオオクニヌシの支配下にはいった人たちだったのかも。

上町台地はアヂスキタカヒコネ(葛城を本拠にしたと思われるカモ族の祖)が開拓したという話だった。息子のアチハヤオは放出に港をつくっていたんだとか。

後に天皇家が大和を本拠としながら河内(大阪湾のほう)にも進出していったみたいに、アヂスキタカヒコネも葛城を本拠としながら河内にも進出していったのかな。水田をつくったり、船を出したりするのは、平野や沿岸部だものな。みんな河内で活躍しつつ、奥の葛城や大和に基地をもっていたのかな。


オオモノヌシ(またはオオクニヌシの子のコトシロヌシ)が三島の王、三島溝杭の娘(タマクシヒメ)に産ませた娘(ヒメタタライスズヒメ)が神武天皇の妻になった。

ここにきて初めて天皇家が関西にやって来た。1世紀頃の話かな? 一帯のドンだったナガスネヒコは九州から東征してきた神武天皇(即位前)を最初は撃退。けれど妹の夫だったニギハヤヒが神武天皇に協力して、ナガスネヒコは倒された。

神武天皇は大和に入って即位。即位といっても天下統一したわけじゃなく、小さな国を築いた感じだったのかな?

オオモノヌシにはスエツミミ(多分和泉のほうの王)の娘(イクタマヨリヒメ)との間にも子がいた。

三輪の「物」の王、オオモノヌシは、三島や和泉の王、それに神武天皇も親族になりたい人だったのかな。

オオモノヌシとスエツミミの娘との子孫がオオタタネコ(カモ氏の祖)。

10代崇神天皇のとき国が荒れて、三輪のオオモノヌシを子孫のオオタタネコに祀らせるといいってことになった。和泉に住んでいたオオタタネコを、天皇の重臣(そして天皇の伯父)のイカガシコオ(ニギハヤヒの子孫)が探し出した。

オオタタネコはその頃、和泉に陶荒田神社を創建し、先祖のタカミムスビを祀った。

そこにはタカミムスビの直系の荒田さんが住んでいたらしく、オオタタネコは荒田さんのためにも祀ったのかな?

その系図というのが、こんな感じ。

高魂命タカミムスビー天押立-(略)-イクタマー(略)ースエツミミー(略)-剣根命ー(略)-荒田彦

剣根命は神武天皇のとき葛城国造になったという人。

そして荒田さんの娘が葛城ソツヒコ(仁徳天皇の皇后の父)の母なのだとか。


剣根命の娘はアメノホアカリの子孫の天忍人(か、その息子)と結婚して、その子孫が尾張氏だという話もあって、剣根命は葛城さんだけじゃなく尾張さんの先祖でもある。

わたしの気になっているイクタマは、葛城さんにも、尾張さんにも、カモさんにも、先祖というわけだった。

天皇家が関西にやって来る前、そこにはオオクニヌシやイクタマの血をひく者たちがいて、彼らと手を結んで、天皇家は関西を手にしていったのかな。最初は傑出していたわけじゃなかったけれど、いろんな氏族と手を結んでいって、ビッグになっていったのかな。

生國魂神社(イクタマさん)は神武天皇が即位前に創建したということになっている。生國魂神社をイクタマさんと呼ぶのと、イクタマとは関係はないのかな?

神武天皇が剣根命の時代の人なのなら、その何代か前のイクタマだけど。


どんどん人は増え、嫁入りする、分家するなどして集落同士の関係も深まり、同盟を結び、時には戦ったりしたのかな。

そして傑出してきたのが、10代崇神天皇あたりだったのかな。3世紀の頃。もう少しで古墳時代。

9代開化天皇はイカガシコメ(イカガシコオの妹)を皇后としていて、その息子が10代崇神天皇。

開化天皇は葛城国造(剣根命の子孫)の娘との間にも子(タケトヨハヅラワケ)をもうけ、その子孫がヨサミに住み、ヨサミのアビコとなったんだって。

今でも我孫子(大阪市住吉区)に大ヨサミ神社があって、タケトヨハヅラワケが住吉三神とともに祀られている(ことになっている)。

10代天皇の頃には、天皇一家がこのあたりにも勢力をもちはじめたのかな。それはこのあたりのドンだったイクタマの一族と手を結んだことによってだったのかもしれない。

10代天皇は桑間宮に住んでヨサミ池をつくり、オオモノヌシの子孫のオオタタネコを見つけ出して三輪のオオモノヌシを祀らせ、あとオオクニヌシをアメノホヒの子孫にミグクルミタマ神社(富田林市)に祀らせたりしている。

オオタタネコはイクタマの血もひき、イクタマの直系の子孫の荒田さんのいた泉ヶ丘あたり(堺市)にも神社を創建。

崇神天皇の息子の11代垂仁天皇の頃には、出雲から呼ばれたアメノホヒの子孫の野見宿禰が石津神社(堺市)の神主になったという話もあった。

宗教によって統治していく時代だったのかな。神主になったとかいうよりも、ゲットした土地に池を造ったり、神を祭ったりしたって話だったのかも。

イクタマの子孫たちは広く河内や和泉にひろがっていて、そこに天皇家も勢力を伸ばしていったのかな。


垂仁天皇の時、新羅の王子だったアメノヒボコが来日。

アメノヒボコは但馬の豪族との間に子をもうけ、その子孫に葛城タカヌカヒメがいて、息長氏と結婚して、息長タラシ姫(神功皇后)を産んでいる。

いろんな氏族が入り混じっているなあ。

息長氏は謎の氏族で、本拠地がどこだったかもよくは分かっていないのだって。

鍛冶の氏族だったらしくて、それで鞴を吹き、「息が長い」、そこから息長氏となったのじゃないかと言われているみたい。もしくはアマ(海女)系で、長く潜水できるから息長。

息長と書いて「おきなが」。息は「いき」とも読む。「生」は「生いたち」の「生」でもあって、「生」も「息」も「いき・いく」とか「おき・お」とか、古代日本では同じだったんじゃないかなんて思った。

15代応神天皇(神功皇后の息子)の孫に忍坂おしさか大中姫という人がいて、19代允恭天皇の皇后になっている。応神天皇の息子が息長系の姫との間にもうけたのが忍坂大中姫。忍坂は息長さんに関わりの深いところみたい。

後の飛鳥時代、息長氏の出の母をもつ押坂彦人大兄皇子という人(天智天皇のおじいちゃん)もいて、子にチヌ王がいた。「忍」の代わりに「押」の文字も使われたんだな。

垂仁天皇の時、天皇の息子のイニシキイリヒコが和泉に住んで、そこで剣を千も作り、石上神社に奉納したという話があったけれど、石上神社の前にまずは忍坂(おしさか・おさか)に収めたのだって。

その忍坂(桜井市忍阪)に生根神社が鎮座している。祭神はスクナヒコナ。

息長タラシ姫こと神功皇后が住吉大社(大阪市住吉区)を創建するとき、すぐそばにある生根神社で神にささげる酒をつくったという話もあった。

息長、忍坂(押坂)、和泉(ちぬ)、生根・・・なにか関係がありそうだなあ。

イクタマの子孫とアメノホアカリの子孫が結婚して尾張氏になったように、息長氏もまたイクタマの子孫だったのかもしれない。


当時、河内湾岸には他にも有力者がいろいろいた。

大伴氏(アメノオシヒの子孫)、中臣氏(大小橋命)、津守氏(アメノホアカリの子孫)。

大阪では古い時代にイクタマって大物がいて、その子孫と他の氏族(天皇家を含む)が混じって、新しい多くの氏族がうまれていったのかな?

頭の中はまだまだ混線していたけれど、「イク」はちょっとだけまとまった感じもした。

で、「クワ」は・・・?

「桑津」とか「桑間」とか、桑が育っていたから「クワ」と名づけられたのじゃないかってことだった。

そして桑は蚕のえさで、桑がいっぱい育っていたということは、養蚕や機織りが盛んだったってこととほぼ同義語みたい。「桑」の名のつくところには織姫伝説もあったりする。

大阪の桑津(東住吉区)の場合、織姫とされているのは仁徳天皇の妻の髪長姫だった。髪長姫が養蚕をして桑を育てたのだとか。

けれどそういう、有名人を昔話にからめてしまうのってあるあるだ。古い何もかもを有名人(桑津では髪長姫ね)にからめて物語ってしまう。

本当はもっと以前から、たとえばイクタマの子孫が養蚕を行っていたのかも。

イクタマの本拠地(の1つ)だったのだろう和泉にはツヌコリがいた。

製鉄、機織も行っていたらしき進んだ一族で、鳥取氏や倭文氏などとなって各地に広がっていった。祖神のツヌコリは和泉の波太はた神社に祀られている。近くの地名が「桑畑」。

応神天皇の頃に秦氏が養蚕を日本に伝えたとも言われている。はた織りの「はた」は、実ははた氏からきているのだ、とかいう。けれど養蚕は、弥生時代から行われていたそうだ。

応神天皇の時代以前から日本古来の布をつくっていたのが倭文しとり氏で、わたし的には機織りの「はた」も、秦じゃなくて波太から来ていて、後に機織りの職についた人々がハタと呼ばれるようになったのじゃないかとか勝手に思っている。

たとえば前に行った服部天神(祭神はスクナヒコナ)近辺は、服部の名の通り、服をつくる人々が集められていたらしきところ。そこではスクナヒコナは秦氏が信じる神として説明されていた。桑津天神社の祭神、スクナヒコナが髪長姫の信じる神として説明されているみたいに。

けれど本当は関係しているのは、ツヌコリ一族だったのかも・・・。

ツヌコリ一族にあめの湯川タナって人(ツヌコリのひ孫?)がいて、垂仁天皇に仕えるようになり、鳥取氏の祖となった。その天湯川タナが先祖を祀ったといわれる神社(白坂神社)が柏原市にあって、その祭神がスクナヒコナ・・・。

かつてスクナヒコナを祀るのが流行ったことがあったらしくて、スクナヒコナを祀る神社があちこちにあっても当然だ、と言ってしまえばそれまでなのだけれど。


ツヌコリの系図はこんな感じ。

神魂命カミムスビ-ツヌコリ-イサフタマ(アメノイクタマ)-(略)-タケハツチ(倭文神)

その子孫に倭文氏や県犬養氏。

カミムスビは出雲の神様と思われるそうだ。

そしてツヌコリ(何代目かなのかも)のひ孫に天湯川タナがいて、その子孫に鳥取(捕鳥)氏や三野(美努)氏。

喜志(藤井寺市)は出雲族が上陸したところと言い伝えられているらしい。後には二上山で採れるサヌカイトで石器を大量生産していたってところ。西の大庭寺(堺市南区)には同じカミムスビの子、アマツマラの子孫っていう大庭氏も住んでいた。

もしかしたら出雲からやってきた人々だったのかな。

初代(かな?)のツヌコリが関西にやってきて、和泉あたりに住み、イクタマ一族とも関係を持ったのかも。どちらともが機織りのノウハウを持っていたか、持っていたのはどちらか片方だったけれど、古い時代に共有するようになったとかかもしれない。

そしてオオクニヌシの国造りを手伝ったスクナヒコナにも深いかかわりを持つのかもしれない。

垂仁天皇の息子(長男)のイニシキイリヒコは和泉方面に池をつくりに行き、そこに住んで、おそらくはツヌコリ一族と関わりをもった。剣を千もつくったというのも、そこ(和泉鳥取)に住んでいたツヌコリ一族の手を借りたのかな。

古い古い時代、イクタマやツヌコリがいたんだな。

長原にあったという縄文の暮らしを長く続けたという大規模集落や、真北を意識してつくられているっていう和泉の大規模集落(池上曽根遺跡)は、イクタマやツヌコリと関係はないのかな・・・。

結局、頭の中は混線したままだった。

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