表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
27/46

上町台地とクワ

しばらく東に進むと勝山通に合流し、そのままてくてく行くと、御勝山古墳のある御勝山公園。

ここも桑津街道や俊徳街道歩きなんかで来たことのあるところだった。猫間川が流れていたという跡をたどってみたときもやって来た。

かつて大阪城東側あたりから、南に猫間ねこま川なる川が流れていたのだって。開発でどんどん埋められて消滅してしまったけれど。その堤を聖徳太子は馬で駆け、馬(駒)を休ませた。そこで「寝ー駒」⇒「ねこま」となったという説もあった。

本当に猫がいたから「猫間」だったのかも、と思った。

桑がいっぱいだったから「桑間」。10代天皇がいたという桑間宮は、桑のたくさん育つところだったのだろうってことだった。同じように、猫がいっぱいだったから「猫間」ってことはないかな?

それで猫がいつから日本にいたか調べてみた。

源氏物語には猫を飼う女性がでてくるのだって。壱岐島では紀元前2世紀頃の親子らしきイエネコの骨が見つかっているらしい。

可愛いだけじゃなくてネズミ退治もしてくれる猫は、たとえば船に乗るときでも、積み荷も守ってくれる大事なクルーになる。船であちこち行っていたらしき古代の日本人たち。重宝された猫は、最初は数頭でも、そのうち数が増え始めたら、あっという間に各地に広がっていったかもしれない。

難波津には古代、倉庫がいっぱい建てられていたのだって。そして海の向こうと行き来していた。それなら猫が飼われていても、そして猫が増えて「猫間」と呼ばれるようになったのだとしてもおかしくはない。

犬飼さんはいたけれど猫飼さんはいないのは、特に飼わなくても仕事をしてくれたからで、犬だけじゃなくて猫もかなり昔から日本にいたのかもしれない。


御勝山古墳は、5世紀前半のものが出土したこともある前方後円墳だけれど、勝山通に分断されたりして形もあまり残っていない。でも大阪市では残っているだけでもすごいのかな。あちこちに古墳があったらしいけれど、ほぼほぼ消滅したらしいから。

埋葬者は不明。応神天皇陵も5世紀前半のものと思われるそうだから、同じ頃の人かな? 候補者としては、大小橋命とか。近くの産湯稲荷神社で産湯を使ったという、中臣氏の先祖ね。

神功皇后(応神天皇の母)の頃に中臣イカツオミって重臣がいて、紀氏の娘を妻にして大小橋命をもうけたのだって。

イカツオミは神功皇后の三韓征伐に随行した後、対馬県主になったらしく、対馬と滋賀に多く祀られているみたい。

今、「イク」が気になっているものだから、「いかつ」って「イクーつ」から変化したんじゃないの?とか思った。このあたりは「イク」と呼ばれた地域で、「いく津(港)」もしくは「~の」という意味の「つ」が付いて「いくつ(イクの)」⇒「いかつ」になったとかってことはないのかな?


公園の東側のパン屋さんでパンを買おうと思いきや、定休日だった。

ここは前に歩いた桑津街道が南北にはしるところ。仁徳天皇が高津宮から桑津に行くのに通ったという道で、高津宮、八坂神社(桃谷)、御幸森神社、御勝山古墳と南下してくる。

御勝山古墳からは南すぐに舎利尊勝寺しゃりそんしょうじ。地名も舎利寺。生野長者なる人が建てたという聖徳太子縁の寺ね。

長者の息子が3つの仏舎利(釈迦の骨)を吐き出し、1つはここに、1つは四天王寺に、1つは法隆寺に納めたっていう。

後には百済王善光にも縁があったらしきお寺だった。百済の最後の王の皇子の善光さんは国の滅亡の前に逃れてここ、難波に住んでいた(後に交野に移った)というから、それがこのあたりだったのかな。推古天皇の次の舒明天皇の頃の話。

それからすぐに生野神社。祭神はスサノオ。

通り過ぎて振り返ると、このあたりは高台になっていて、ゆるい坂を上った丘あたりに生野神社と舎利尊勝寺がある感じが素敵だった。

それからしばらく行くと、生野八坂神社があって、昭和な感じの商店街と交差した。

このまま南下していきたいところだったけれどすぐに道はつきあたって、ここからはじぐざぐと南西方向に歩いて行った。区画整理されて、古い道は残っていない感じだった。けれど妙に古い感じの空気感。地名は林寺。

左手にカナートモールが現れて、他にめぼしいお店もなさそうで、ここでパンをゲット。よくある100均パンだったけれど、贅沢は言っていられない。

もう少し南下すると、左手に緑が見えた。空気も少し違っていて、きっとあれが桑津天神社だと近づいていった。

道路の左側に鳥居があり、桑津天神社だった。右側は公園(桑津公園)だったけれど、ここも元は境内だったのだろう。公園には記憶があった。ここで休憩。パンをいただいた。


桑津天神社の鳥居周辺の道は弧を描いていて、道が神社を囲う円になろうとしているようだった。田舎ではよくある感じで素敵だった。

なんだか古くからの記憶を残す、不思議な空気感のところだった。

桑津もかつて環濠集落だったらしい。大阪夏の陣のころにか、180mX150mくらいの小さな環濠になっていて、北に2か所、西に1か所、南に1か所の出入口があったそうだ。環濠は昭和初期の頃まで残っていたのだって。このあたりはその環濠の北西の端あたりらしかった。

桑津天神社の祭神はスクナヒコナ。

桑津に住んでいた(後の環濠集落の東端あたりと伝わるそうだ)髪長姫が病気になった時、スクナヒコナに平癒を願うと治ったので祀られたという神社。

髪長姫は織姫で、桑(蚕のえさ)を育てることを推進したので、あたりは桑畑になっていたのかな、それで桑津と呼ばれるようになったという話もあった。

なんでも髪長姫にまつわるお話にしてしまっているのだろうな。池田のクレハ・アヤハみたいに。

本当のところは、桑津に髪長姫を住まわせたのは、桑津に信用できる大物がいたからで、その人々がスクナヒコナを祀っていたのじゃないかな??

スクナヒコナはオオクニヌシ(出雲の王)の国造りを手助けした人。個人的には、和泉地方の大物、ツノコリの一族じゃないかなあ?と思っている。

そんなスクナヒコナを祀る人々が大阪界隈に多く住んでいたのじゃないかな・・・。

そして髪長姫以前から「桑津邑」だったのじゃないかな。一帯で見つかっている桑津遺跡では、縄文時代前半の時代からのものが見つかっていて、古くから人の住んでいたところ。

近くには比売許曽神社があって(元々は産湯稲荷神社のあるところに鎮座していたそう)、祭神のシタテルヒメも織姫だったそうだし、ずっと前から桑も育てられていたのじゃないかな・・・。

神社の北隣には見性寺があった。ひっそりと存在しているけれど、行基開基と伝わるそうだ。光明皇后が四天王寺近くにたてた施薬院を元に、聖武天皇の勅願で寺院としたのだとか。その後、衰退していたけれど、平重盛(清盛のできた息子)の寄進で再興。法然もやって来て宿泊したことがあるのだって。

こんなに近くにあるのでは、桑津天神社となにか関係があるのだろうな。

近くを流れる駒川は、高麗コマ川と表記されることもあったそうで、渡来人が多く住んでいたのが由来じゃないかという話もあった。けれど、桑の桑間くわま川⇒こま川ってことはないかな?

駒川は天野川やヨサミ池を源流としていたそうだ。


ヨサミ池は10代崇神天皇のとき、天皇が造らせたと記紀に書かれてある。天皇は桑間宮にいて監督。

実際には仁徳天皇とかの時代に造られたと思われるそうなのだけれど、元は崇神天皇が造らせて、それを仁徳天皇の頃に大規模な改修で巨大な池にしたのかもしれない。

応神天皇や仁徳天皇の時、いろんな技術をもった異国の人々がいっぱい移住してきて、日本のいろんなことが飛躍的に進歩したみたい。土木のノウハウや、土木工事に使われる鉄とかも。けれどそれ以前から、溜池は水稲栽培には不可欠で、そこまで大規模じゃなくても弥生時代から造られていたはず。生け簀のためなら縄文時代だって池を造っていただろうものなあ。

崇神天皇の異母兄弟にタケトヨハヅラワケって人がいて(母は葛城垂水宿禰の娘、ワシ姫)、ヨサミに住んだのだろうな、ヨサミ氏になっている。


まだ関西の豪族にすぎなかったのかもしれない崇神天皇(母はイカガシコメ)。

一帯はアヂスキタカヒコネ(葛城のカモ氏の祖)が開拓したという話もあった。産湯稲荷神社の井戸を掘ったとかいわれていた。妹はシタテルヒメ。二人の父はオオクニヌシ。

放出駅北のアチハヤオ神社にはアヂスキタカヒコネが祀られていて、祀ったのはアチハヤオ。アヂスキタカヒコネの息子で、ここに港をもっていたということだった。

そこに天皇家も進出。池を造ったり、住んだりしたのかな。

中臣氏の祖も住み、仁徳天皇の頃には都も置かれた。

雄略天皇の頃にか、上町台地から手を引いたのかな。物部氏や大河内氏に任された。

そして物部守屋を蘇我氏が倒し、物部氏の土地は蘇我氏や、蘇我氏に近かった天皇家のものになったのかな。そしてそこに聖徳太子は四天王寺や森ノ宮なんかを創建していったのかな。

今まで見聞きしたことを元に簡単なお話をつくったら、そういう話になるかなあ。


おうちに帰るべく昭和町駅方面を目指していると、見覚えのある桑津墓地が現れた。

「榎神社」とある鳥居が南にあって、けれどその奥は墓地だという不思議なところ。

周辺は前に歩いた時以上にマンションに囲まれている感が増しているように思った。

大昔には古墳だったところで、そこに行基が墓地をつくったと伝えられているそうだ。神社は後になってできたのだって。

それからJR(阪和線)の高架下へ。かつてはガード下の商店街として賑わっていた感じの残る独特のところだった。ずっと現代社会じゃないようなところを歩いていて、昭和町駅にたどり着くと、やっと現代社会に戻ってきたような感じがした。

大阪市内だけれど、面白い散歩だったな。

久しぶりの散歩で、思いのほか暑かったし、疲れた。おまけにおかあさんは膝を痛めてしまった。「ひざを痛める」なんてばばくさいなあ。

秋になってもまだ暑いし、涼しいと思ったら雨降りだし、おかあさんはひざを痛めているしで、なかなか次の散歩に行けそうになかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ