上町台地とイク
それから長い夏がやってきた。長時間の散歩になんか出かけられない夏。
寝て、起きて、寝て、起きて、短い散歩に出て、寝て、起きて、ご飯食べて、寝て、その繰り返し。歩ける秋が待ち遠しかった。
そして一年ぶりに彼岸花が咲き始めたある日、散歩に出かけた。
いってもまだ暑かったから、そんなには歩かないことにして、難波へ。
桑津天神社にもう一度、行ってみたかった。難波から生國玉神社、四天王寺、御勝山古墳と歩いて桑津天神社へ、というルートを考えた。
そんなに距離はないように思ったけれど、けっこう疲れた。思っていたよりも暑かったし、夏の間、寝て過ごして体がなまっていたかな。
桑津天神社は前に桑津街道を歩いていて、行ったことがある。
そして夏の前の散歩で、「クワ」って何だろう?と気になった。
宝塚の小浜に行ったのをきっかけに、地元の住吉大社近くの粉浜が「桑間」がなまった地名だっていう説があるのを知った。
10代崇神天皇が「桑間宮」に住んでいたことがあって、それが粉浜かもしれないのだって。
いやそれはないでしょう・・・と初めは思った。「10代崇神天皇」って遠さと、「粉浜」って近さに頭がバグった。
でも、神戸で知った北風家は、8代天皇の血をひく名家で、10代天皇が桑間宮にいた当時には、近侍して玉出あたりで職についていたのじゃないかともいわれるそうだ。古い豪族の大伴氏(アメノオシヒの末裔)も玉出あたりを本拠地としていた。
玉出は今では粉浜の北、西成区の最南端の地名(スーパー玉出の発祥地ね)なのだけれど、元々はそこは勝間っていったそうだ。元々はどうも玉出は生根神社(住吉区)あたりを差し、そこから勝間に生根神社が勧請されたことでか、勝間も玉出と呼ばれるようになったみたい。
東住吉区には桑津があったり、このあたりは「桑」のつく名の多いところで、粉浜に桑間宮があったのではなかったにしても、「桑」⇒「こ」というのはありえない話じゃないなあと思った。
粉浜の氏神は生根神社(神功皇后が創建した住吉大社より前にあったともいう)で、祭神はスクナヒコナ(一説にはイクツヒコネ)。桑津天神社の祭神もスクナヒコナだった。
桑津は縄文時代の遺跡や旧石器時代の石器も見つかっている古いところ。河内湾に南からせりだした半島(今の上町台地)の、東の海岸線あたりだったと思われるそうだ。
古墳時代には仁徳天皇の恋人、髪長姫が預けられていた。
美人の誉れ高い日向の髪長姫を、15代応神天皇が迎えたそうだ。けれど息子(後の仁徳天皇)が横恋慕。父が息子に譲り、仁徳天皇はこの姫を桑津邑に住まわせて、高津宮から足しげく通った。それが桑津街道だってことだった。
御勝山古墳は、元は岡山と呼ばれていたけれど、大阪冬の陣で勝ったときにそこで祝杯をあげたから「御勝山」と呼ばれるようになったということだった。でももしかしたら、「桑津山」⇒「勝山」なのかもしれないなどと、ふと思い、ついでに再訪することに。
生國魂神社にも行こうというのは、「イク」も気になっているから。「生根神社」の「イク」、桑津のすぐ隣、生野区の「イク」、「生國魂神社(いくたまさん)」のイク。なにか匂う・・・。
難波では千日前通を東へと向かって行った。
上を高速が走っていて、殺風景な道だった。ビックカメラなんかがあって、外国の人が多い。東洋の人も西洋の人もいる。わたしが生まれてから言っても、大阪には外国の人々がずいぶん増えた。地元にも民泊もいくつかできた。
この間は、地元を散歩していると、車で一軒家に送ってもらった青年が、たどたどしい日本語で「たいへんおせわになりました。ありがとうございました」と、車で去っていこうとする二人組のおじさんに言っていた。技能実習生ってやつかなあ? おじさんたちは「またな」「元気でがんばれよ」と、やさしく、名残惜しそうに声をかけていた。
千日前通の歩道には自転車置き場を新設中だった。一部には元からあったけれど、どんどん増やしていくみたい。
地下にある日本橋駅の上の日本橋1丁目交差点(堺筋との辻)を渡ってしばらく行くと、左手に文楽劇場。このあたりは前にも歩いたことがあった。二ツ井戸跡とかのあったあたり。ずっと平地で、このあたりはみんな低湿地だったというのがよく分かった。
それから下寺町交差点からはなだらかな上り坂になった。高速はこの少し先(高津)までで、左右(北南)に分かれて千日前通を離れていく。
車もいっぱい走る千日前通はなだらかな上り道につくられているけれど、そのすぐ一本南の道を行くと、かなりの急坂になっている。
ここが上町台地の西の端。かつては河内湾に南から伸びる半島だったところね。南の端が住吉大社のあたり、北の端が大阪城のあたり。
急な坂の上に現れるのが生國魂神社だった。いろいろ散歩してきて分かるようになったけれど、地形も散歩の楽しみの一大要素だな。
かつては生國魂神社は、ここではなく上町台地の北の端あたりにあったそうだ。今の大阪城のあたりに座摩神社とともにあったと思われるのだって。
祭神は生島神と足島神で、古代からかなり重要な神だったと思われるものの、詳しくは分かっていないそうだ。生島神はイクツヒコネのことじゃないかという説もあるみたい。
わたしが散歩していて知った、名前に「イク」の付く人は、イクツヒコネとイクタマヨリヒメ。
イクツヒコネは三宮あたりを散歩していて知った人。アマテラスとスサノオの誓約によって生まれた5男3女のうちの一人。生田神社を取り巻く生田裔神八社(一宮から八宮まで)は、その5男3女をそれぞれ祀るといわれるけれど、なぜか一人欠けていて、それがイクツヒコネ(代わりにオオナムチが祀られている)。
生田神社、湊生玉八幡(今は湊八幡)など、三宮あたりにも「イク」は多かった。
もう一人のイクタマヨリヒメは、通う男の子どもを産み、両親がその男の正体を探るとオオモノヌシだった、という人。父(もしくは母)はスエツミミ。
後にオオモノヌシを三輪山に祀ることになったとき、神主として探し出されたのは、このイクタマヨリヒメが産んだオオモノヌシの子の子孫、オオタタネコだった。
オオタタネコは賀茂氏の祖で、賀茂氏の系図によると、伊久魂命(イクタマ)ー(略)ースエツミミーイクタマヨリヒメークシミカター(略)ーオオタタネコ。
恩智神社神主もイクタマの子孫だったそうだ。
恩智も三宮も上町台地も(ついでに小浜も粉浜も)、かつて河内湾岸だったあたり。
かつて河内湾岸に「イク」を冠する大物がいて、それで地名などにもイクが残っているのかな。イク一族はやがてオオモノヌシと手を結んだのかな。
オオモノヌシは神武天皇の舅でもあったから、天皇家とも手を結ぶことになったのかな。
生國魂神社は結構広くて、いろんな神社が集まっている。住吉神社や鞴神社など。
鴫野神社もあった。「しぎ」も「くわ」や「いく」と同じく、大阪あたりで気になる名の1つ。志紀、志貴、信貴、新喜多、敷津もある。「イク」と同じく、「シキ(シギ)」さんという大きな勢力があったのじゃないかな。
鴫野神社は、元はビジネスパークあたり(島だった)にあったそうだ。そばの大阪城にいた淀君が信心していた弁才天を祀るお堂があって、後に淀君も一緒に祀られたのだって。
後に大阪城界隈に砲兵工廠がつくられて、ここに移転してきたそうだ。
前に行った大阪城の西側に「砲兵工廠」とあるところがあった。東の森之宮病院そばのURにも「砲兵工廠跡」の碑があった。
砲兵工廠は戦時中、日本陸軍が東京と大阪に設立した兵器製造所。アジア最大規模の軍事工場で、戦争の最後の方では(その頃には名称が大阪陸軍造兵廠になっていた)、5k㎡以上の規模だったらしい。中学生とかも含め、日に万単位の人が働きに来ていたそうだ。大阪空襲の標的となり、集中爆撃を受けて壊滅。
5k㎡以上もあったんじゃあ、砲兵工廠のためにここに移転してきた神社が他にもあるのかもしれなかった。
生國魂神社の正面の鳥居(東側)から出ると「歴史の散歩道」の舗装があって、ここを南に行けばよかった。そうすれば谷町台地を南下して、四天王寺へ。ところが方向を間違えて、南の生玉公園から西に下って行ってしまった。
久しぶりの散歩で、勘が鈍っていたかな。上町台地は南北に続いているってことも考えずに、下っていくのが南だと勘違いして、前に歩いたことがあるなあと懐かしみつつ、高低差の激しい生玉公園を西に。地下に2階建ての防空壕があったという説明文があった。
生玉公園を出てから勘違いに気づいたものの、まあいいかと上町台地の西、低地の松屋町筋をしばし南下。
上町台地の西端は、高低差が激しく、緑が多い。そこに寺社が建ち並んでいる。今では緑の少ない大阪だけれど、かつては上町台地あたりは湧き水も多く、森のようなところだったみたい。なにしろ天下茶屋(天神ノ森あたり)なんて千利休の師匠がその湧き水にほれこんで住んでいたっていうんだから。
このあたりは松屋町筋にもお寺が軒を連ねていた。浄国寺など、立派なお寺の多い通りだった。
浄国寺には、大阪新町の太夫、夕霧の墓もあるのだって。太夫って芸妓の最高位で、芸妓は当時の芸能人みたいなもの・・・なのかな? 夕霧太夫(初代)は、超人気の御三家の一人だったみたい。けれど若くして病死。
鬼貫も墓参りしたことがあるらしい。鬼貫って、伊丹でよく名を目にした俳人ね。夕霧太夫より10歳くらい年下だったのかな。
それからやっぱり上町台地の上を南下していくことにして、台地への坂を上って行った。
源聖寺坂だった。前に阿倍野七坂(上町台地に西から上がる、阿倍野にある七つの坂)を巡ったことがあった。そのうちの1つ。
上町台地の上にもお寺がずらりと並んでいた。大宝寺、西方寺、青蓮寺などなど。その間の道を南下していった。
このあたりは下寺町といって、大阪夏の陣の後、復興計画として寺院を集めたところだそう。大阪城の唯一の弱点の南側を補強するためだったといわれているみたい。
ずらずらと建ち並んでいるけれど、1つ1つが実はけっこうすごい。
大宝寺は復興計画で移転してきた寺の1つで、元は1563年(室町時代)、島之内に創建されたお寺。
西方寺には三井財閥の三井一族の墓もあるらしい。
高い塀で中はあまり見えなかったけれど、彼岸の頃で、墓地の門が少し開いているところもあった。西方寺だったか、思いのほか多くの墓が並ぶ墓地が見えて、その向こうは西の低地で、かつてはどんなにか見晴らしがよかっただろうと思われた。
伊丹丘陵の東側が猪名川に削られて段丘になっているみたいに、上町台地は西側が段丘みたいになっている。縄文時代、気温が上がるかして、海水面がかなり上がってきていた時代があったらしい。その頃は大阪平野は海で、上町台地には波が押し寄せていたのだって。それで削られて、阿倍野墓地の西側なんて、ほぼ崖みたい。
今ではその段丘を境に区が分けられていて、東の高台が阿倍野区で、西の低地が西成区。
高台から見る、西の海に沈む夕陽。昔、西に極楽浄土があると信じられていて、西に沈む夕日が見えるところで瞑想する(日想観)のが流行したそうだ。上町台地はそれには格好の場所で、一心寺なんて法然と後白河法皇が一緒に日想観したっていうところ。
お寺に阿弥陀の文字が多いのは、そのせいかな。阿弥陀は極楽浄土に連れて行ってくれる仏さま。
青蓮寺は、聖徳太子が鴫野にシギ山法案寺を創建したのに始まると伝わるそうだ。
法案寺は生國魂神社(当時は大阪城あたり)のそばにあって、神宮寺として機能したんだって。その敷地に蓮如が坊を建てさせてもらったとも伝わるそうだ。それが後の石山本願寺。
秀吉さんが大阪城を築城することになって、座摩神社や生國魂神社は移転。法案寺(生玉十坊)も生國魂神社とともに移転。十坊のうちの1つが青蓮寺となったのだって。
そのまま南に進んでいけば、かつてはそのまま大江神社に行けたのだろうな。
けれど、都会になっていく過程で、道は寸断されて、まっすぐ南下していけない。
歴史の散歩道の舗装がされていて、これをたどって歩いてみることにした。すると、ぐるぐる回って大江神社にたどり着いた。
大江神社にたどり着くまでに、面白いところをいろいろ通った。
まずは麻田剛立の墓があるらしい浄春寺。
麻田剛立は豊後の人で、独自で天文学を研究したそうだ。医者の家に生まれ、藩医をやっていたけれど、自由に研究がしたくて脱藩。大阪にやって来て、医者を生業としながら研究を続けたのだって。刑死した人の死体を持ち出し、解剖を行って人体の研究もしていたそうだ。
このあたりは、下寺町とは違って、立派というよりは野趣のある感じのお寺が多かった。
稱念寺には小松帯刀の墓。小松帯刀なんて麻田剛立と同じに全く知らなかったけれど、維新十傑の一人に数えられる人だそうだ。
天保の生まれで、亡くなったのは明治3年。薩摩藩の重鎮で、部下に大久保利光、親友に坂本龍馬、他。元々病弱で、大阪の薩摩藩蔵屋敷あたりで36歳で亡くなっている。その後、夕陽丘で葬儀が行われ、薩摩に帰るまでの間、ここ稱念寺に埋葬されていたそうだ。
それから藤原家隆の墓(伝)もあった。藤原家隆は保元生まれ。鎌倉時代初期の歌人だそう。
80歳くらいで出家して、四天王寺の西に「夕陽庵」をたて、そこから極楽浄土があるという西の、大阪湾に沈む夕日を眺めて過ごしたのだって。
夕陽丘の地名も、夕陽庵からきているそうだ。
大江神社も上町台地の西端にあって、境内の西側は崖みたいになっている。かつてはここからも、沈む夕日がきれいに見えたのだって。今は海も遠いし、建物だらけでなにも見えないけれど。
近くには愛染坂(阿倍野の七坂の1つ)があり、四天王寺もすぐだった。
聖徳太子が建てたという四天王寺。お彼岸で、いつもよりも人が多く、屋台なんかも出ていた。前にやって来た時には外国の人はほぼ見かけなかったけれど、ここにも外国の人たちがけっこういた。
四天王寺は何度もやって来たことがあるので、ほぼスルー。東大門から出ていった。
そのまま東に上りの道を進んでいくと、小儀神社跡の碑があった。祭神はスサノオで、大江神社に合祀されたそうだ。
小儀神社も大江神社と同じく、聖徳太子が創建した七宮の1つと言われているみたい。聖徳太子が四天王寺を創建したとき、その守護神として七宮をつくり、それが大江神社や小儀神社、久保神社などらしい。
それら7つの神社を氏神とする村々を集めたのが天王寺村だったのだって。




