西宮街道を小浜から
曇り時々雨の予報の7月のある日、最高気温の予想は27℃で、27℃の曇りの日なんて7月にはそうはないぞと散歩にでた。夏だというのを忘れそうな一日だった。風は涼しくて、歩いていても気持ちよかった。
ほとんど通り過ぎるだけだった宝塚の小浜にもう一度行ってみたかった。特に北門跡近くに見えていた橋を渡りたかった。
小浜から有馬道の続きを歩くのはハードすぎるし(途中でいい頃合いに駅がないのだ)、小浜からは西宮街道を歩いてみよう。
西宮街道は小浜からスタートして、西宮は門戸厄神で西国街道に合流する道みたい。清荒神駅から小浜に向かい、そこから西宮街道を歩くことにした。
西宮街道はほぼ阪急今津線に沿っていて、大雨になってもすぐ帰れる。涼しい代わり、天気予報ではところにより大雨になるかもといっていた。
清荒神駅はもうおなじみだった。駅から南東の小浜までは、前に歩いた有馬道とは別の道で行こうと思った。
駅の南が川面神社のある古そうなところだったので、川面神社経由で小浜を目指すことにした。
清荒神駅の南側に出ると、ホールや図書館のある道を通って西へ。道は下って行き、川を越えた。清荒神(寺)のほうから流れてきて、武庫川に注ぐ荒神川らしかった。
橋は安場橋で、右手には阪急の古いトンネルがあり、そこを川と細い道が通っていて、素敵だった。古いままの川、古いままのトンネル。思わずトンネルをくぐって小道を行ったら、上りの山道に続いていた。
元は本当に山への道だったのだろうな。今はその先は住宅地のようだったけれど。
元の道を道なりに進むと、道は左に曲がり、南に向かっていった。テニススクールを左手に見ながら南下。教えてもらっているのは定年を迎えたとみえるおじさんばかりだった。無言でもくもくこなしていた。
このあたりに安庭さんの旧家があった。安場橋、安庭さん、どちらもヤスバで、なにか関係があるのだろうな。
踏切を渡った。JR福知山線だった。
古そうなところだった。けれど住宅だらけになっていた。
つきあたりが川面神社だったけれど、参道はここにはなく、左に進んでいってみた。宝泉寺なるお寺があった。
地名は宮の町で、この宝泉寺に神功皇后の母の墓と伝わる古墳があったらしかった。さもありなん。なんだか住宅密集地にはそぐわない、田舎だけれどただものじゃない感の漂うところだった。
この古墳がかつて「宝塚」と呼ばれていたことから、宝塚の地名になったともいわれているらしい。
神功皇后の母は葛城高額姫。アメノヒボコ(新羅の皇子)の子孫だそうだ。
アメノヒボコが日本にやって来て但馬地方の豪族の娘と結婚して但馬地方で力を得、その子孫の葛城高額姫が滋賀あたりで勢力をもっていた王族の息長さんとの間に息長足帯比売(気長足姫)をもうけた。その子が後に神功皇后に。
下りの細道を行くと、土の道、水路、そこに昭和初期の農家って感じのおうちがあり、その境のない隣が川面神社だった。
今は宮の町だけれど、一帯は元は川面村だったところで、それで川面神社というみたい。794年の創建と伝わるけれど詳細は不明。
川面は後には多田さん(摂津源氏)の土地になり、摂関家に寄進されたのだって。それで源満仲(多田満仲)の御家人の創建と伝わる皇太神社があったのね。
丸い石やお地蔵も一緒に祀られていて、田舎の感じを残した素敵なところだった。こんな田舎では、神仏分離となってもそこまで厳格じゃなかったのだろうな。
宝泉寺の前の道に戻って、東に向かって行った。川面橋を渡り、旭町1丁目交差点へ。右(南)には下りで、海だったろうと思われた。
道が分岐しても、下りに向かわずにそのまま東に進んでいった。このあたりはお地蔵さんも多かったけれど、空の石祠も多かった。元はなにか祀られていたけれど、他に移されたかなくなったかしてそのままになっているのかな。
車道に出て、ここを左折。車道を行くと米谷1交差点で、ここからは前に歩いた有馬道で小浜に向かった。
そのまま進むと和田家住宅の前を通って、国分橋を渡って小浜に入る。今回は国分橋じゃなく、その下に見えていた橋を渡りたいので、途中、右手に下る坂道のほうに進んでいった。「スピード落とせ」という自転車向けと思われる(車は細くて通れなそう)看板の見える道。
右手には山が見えて、そこまでが海だったんだろうと思われた。小浜までせまっていたという海が打ち寄せていたんだろう。その元・海に向かって下っていく感じの道だった。
左手の高台は崖上のようになっていて、そこに和田家住宅(民俗資料館)があると思われた。
道なりに進むと小川(大堀川)があり、手前になにやら石造物があった。
そして川を西ノ町橋で渡った。ここが前に頭上の橋(国分橋)を渡っていて、下の木陰に見えていて素敵に思えた橋だった。いざその橋を渡ってみると、今度は頭上の赤い国分橋が素敵に見えた。橋って、渡っているときにはその魅力に気づきにくいものなんだろうな。
橋を渡るとイノシシ注意の看板がたっていて、国分橋に向かう急な上り坂があった。
緑のモミジの下、上った坂はいわし坂というらしかった。
秀吉さんも有馬に行くときに通った坂。国分橋は当時はなくて、この坂を下って、大堀川を渡っていたんだって。
そして2度目の小浜をしばし探索。いわし坂を上ると、北門跡から入って行った。
まっすぐ進むと本妙寺があり、皇大神社がある。神社から左に行くと東門跡。東門からは京伏見街道や有馬本道(大坂道)、有馬間道や尼崎道に続いている。
神社から東門への途中には札場跡や旅籠跡がある。そばに毫摂寺(真宗本願寺派)もあった。
毫摂寺は浄土真宗の覚如(親鸞のひ孫で、蓮如の先祖)の子孫が小浜にやってきて建てたのだって。毫摂寺は小浜御坊と呼ばれ、小浜は毫摂寺を中心とした寺内町として発展。
戦国時代には城として機能し、織田信長側についていたそうだ。真宗本願寺派は信長さんと戦っていたと思うのにおかしいな、と思ったら、元は本願寺派ではなく、出雲路派って宗派だったそうだ。
そして無事に戦国時代を乗り切り、秀吉さんの時代に。
子がなかなかできなかった秀吉さんは甥っ子(秀次)を養子にしたけれど、その甥っ子が有馬温泉に行くときに毫摂寺に宿泊。寺の娘(亀姫)を見初めたのだって。
娘は秀次の側室に。天下の秀吉の子の側室だもの、周囲も喜んで祝ったことだろうなあ。
けれど秀吉さんに子ができて(秀頼ね)、養子が邪魔になった(と一般的にはいわれている)か、秀次さんは切腹させられ、三条川原でさらし首に。
一族みんな三条川原で処刑されて、この時、亀姫も処刑されたのだって。そして寺も燃やされたそうだ。
少しずつ集落も変わっていくようで、更地になったところに「分譲中」「展望抜群」なんて文字が躍っていた。
東門そばの法仙寺の方まで歩いたけれど、やっぱり小さな集落だった。
北門から皇大神社も過ぎてそのまま進むと南門跡へ。南門から出ていって南西に向かうのが西宮街道のようだった。
そちらに進んでいくと、左手の高台に小浜小学校が見えた。
このあたりに古い道標があって、「右西宮道」とあった。1687年のものらしい。江戸時代、小浜が宿場町だった時代のものかな。
ここを右手に行くと下り道で、さっきから案内されている「首地蔵」はこの向こうかな?という気がして、行ってみた。
墓地があって、左手には高いところに東屋があり、のぼってみると首地蔵がいた。新しい感じの、首の上だけのお地蔵さんだった。大きなお顔だった。その横にはちょっと小ぶりな古い首地蔵もいた。由来のよく分からない古い首地蔵と、昭和の時代に新しく作った首地蔵が祀られているらしかった。
地域の人たちが日課の感じでここに上がってきていた。
なんだろう。ここだけ異空間のようだった。高低差と首地蔵と墓と。空との間にある休息の場みたいだった。
元の道に戻って続きを行くと、大堀川を渡り、すぐ国道176号線の下を小浜交差点でくぐった。176号線はすぐ左手で平地に降りてくるので、低い位置を走っていて、上を走る車も見えていた。
それからすぐに武庫川を新宝塚大橋で渡った。左手は海で、右手も湾になっていたのだろうなって感じのところだった。
そして都会で、小浜とは全く違っていた。
左手に宝塚市役所が現れた。古い建物だった。道を隔てたバス停も古い。
1980年、村野藤吾の設計によるものらしい。村野藤吾は明治生まれの建築家で、宝塚に住んでいたのだって。昭和の終わりまで活躍していたから、今もいろいろ残っているみたい。
右手には末広中央公園。市役所前交差点で右折。
少しだけ県道114号西宮宝塚線を進み、左手のビバラージヒルなる建物を過ぎて左折。上りの道だった。左手にせせらぎ広場。地名は伊孑志と書いて「いそし」だって。
もう少し行くと、右手にさっきから見えていた緑と一緒に玉垣が現れた。
行ってみると伊和志津神社だった。式内社の伊和志豆神社の論社の1つだそうだ。
伊孑志村の産土神で、スサノオを祀るけれど、元々は8世紀後半頃から伊孑志にいた伊蘇志臣の祖を祀っていたと思われるのだって。
伊孑志の地名は伊蘇志臣のイソシからきていると思われるそうだ。
伊蘇志臣は、いそいそと勤しんでいたので「イソシ」と名づけられたのだって(うそっぽいな)。筑紫の伊都に元はいたらしい。奈良時代の終わるころ、そこからここにやって来て住んだので、ここの地名もイソシになったんだな。
伊蘇志臣の祖は天道根命だって。紀州の紀氏の祖でもあるらしい。
境内を歩いていくと思いのほか広くて、びっくりした。階段を上っていくと、広い車道(県道16号明石神戸宝塚線)の上を通って、まだ境内(というかここは参道)は続いていた。森も広いようだった。
ただ落ち着く感じにはつくられていなくて、さっさと通り過ぎたのだけれど。
今ではここが表参道みたいな、西の鳥居を出て左へ。
ここから南下していくのだけれど、このあたりはすっかり市街地になって、旧道はあまり残っていないみたい。
ここは駅近で、近くにはパンネル可成店があるらしい。前回行った中山寺のパンネルがお休みで残念だったので、可成店に行ってみようと、土地勘のない場所でうろうろ探した。
そしてたどり着いたパンネルは線路沿いにあり、とってもレトロで、小さくて、昭和の時代に建ちましたって感じだった。そしてお休みだった・・・。リニューアル工事のためのお休みらしかった。




