中山寺奥の院と清荒神
梅雨の中休みの7月のある日、天気予報は曇だとか、晴れだとか。
どっちなんだ?と家を出た。
曇なら、街歩きをしようかな。晴れてしまったら、この暑さの中、街歩きはつらい。けれど山の中ならなんとかなるかな。
曇なら街歩きを、晴れたら山歩きをすることにして、どちらでもいいようにおかあさんはゴアテックスのハイキングシューズをはいた。前日までの雨で山中はどろどろで、すべりやすいだろう。
それから阪急宝塚線に乗った。街歩きするなら小浜方面へ、山歩きするなら中山寺奥の院方面へ行ってみようと思っていた。どちらにしても阪急宝塚線で中山観音駅以西。
向かう間、ずっと曇り空が続いていた。これなら街歩きもできるかな、と思ったのだけれど、ハイキングシューズを履いてきたからにはという気になっていて、中山寺奥の院に行くことに決めた。
中山寺から奥の院、清荒神と歩くハイキングコースがあるらしくて、そこを歩いてみよう。
中山観音駅からは、すぐ北に中山寺がある。
中山寺は2度目で、前回はよく見えていなかったいろいろのことにも気がついた。参道の左側に池があることとか、「花山院道」と書かれた古そうな碑が山門前にあることとか。表玄関の山門は仁王門になっていて、小さなわらじがいっぱいかけられていることとか。
この山門は徳川家光によって再建されたものらしい。そして仁王門にかけられたわらじは、かつての風物詩。仁王の堂々とした健康体は街道を行く人々にとってはあこがれで、無事に目的地に着きますようにと、自分のはいてきたわらじを仁王門にかけ、そこにある他のわらじをはいてまた歩いたりしていたらしい。
今は願掛けした小さなわらじをかけることがならわしになっているようだった。信貴山朝護孫子寺の仁王門の大きなわらじも、そういう意味があったのかな。
ここを通る人々は、多くは巡礼道を行く人々だったみたい。西国三十三ヶ所を巡礼する道で、23番勝尾寺、24番中山寺、25番播州清水寺へと進む。西国三十三ヶ所には番外が3つあるそうだ。その1つが花山院菩提寺。法道仙人開基と伝わるそうだ。中山寺と播州清水寺の間の三田にあるらしい。それでここは花山院道とも呼ばれたんだな。
前にやって来た時、中山寺境内から奥の院へ向かう道があった。けれどすっかり忘れていて、市杵島姫神社から行けるということだけ印象に残っていたから、門前を市杵島姫神社に向かって歩いた。
その途中、右手ののぼり坂には墓地、左には細い道を下っていく坂があって、つい下って行ってみた。
石の階段の先には小川が流れていた。階段にはドクダミが花を咲かせていて、歩くと、踏まれて匂いがたった。
ここは、細くて素敵な小川の湾曲した部分だった。昭和の時代には小学生たちの夏休みの格好の遊び場所だった感じの、ちょっと隠れ家っぽい小川。天王寺川になる川だった。
聖徳太子が開いたという中山寺のそばを流れる川が天王寺川なのはどうしてだろう。聖徳太子が開いた四天王寺と同じく、天王を祀る天王寺がこのあたりにあったのかな?
市杵島姫神社の西側の道を進んで、いきなり道がなくなった。それで中山寺の境内から奥の院に行けるのだったな、と思い出して中山寺へ。
結局中山寺からのスタートに。本当は神社の東側の道を上がって行けばよかったみたい。
中山寺では小さな赤ちゃんの泣き声がしていた。
境内に入ってすぐのところに五大力不動があった。地元の住吉大社には「五大力」なる一角があって、そこには「五」「大」「力」と書かれた石がばらまかれて(?)いて、それを3つセットで探し出してお守りにできる。
五大力ってなんだろうと今更思って調べてみると、不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王のこと・・・なのかな? 不動明王を中心にして、四方にほか4人を配し、五大明王とも呼ばれるのだって。
住吉大社も元はお寺と一緒になった神社だった(明治時代の神仏分離で寺は廃寺になった)から、元はそこに五大明王のお堂があったとかかな。
エスカレーターをのぼって左に進むと、ガラス張りのきれいな信徒会館があって、その奥に「奥の院」の案内があった。
そばには「亥の子地蔵」がいて、説明によると地蔵は「大地を包蔵する」ってことで地蔵らしい。虚空像とは対になるのだって。仏教って・・・ムズカシイ・・・。
ただ念仏を唱えればいいっていう宗派が庶民に受け入れられたのも分かる。お地蔵は、「大地を包蔵する菩薩。そして菩薩とは・・・」なんてことは無関係に、ただ手を合わせる、辻にいる身近なかみさま、そんな存在でいい。
伝わる話によると、聖徳太子の時代、人々は物部守屋らの悪霊に苦しめられていたのだって。守屋さんが蘇我氏(with 聖徳太子)によって殺されてしまった後のことだな。
四天王寺建立がうまく進んでいなかった聖徳太子は大仲姫(神功皇后の夫である仲哀天皇の最初の妻。子に忍熊王らがいる)の声を聞き、紫の雲のたなびく地に寺を建てたのだって。
そうすると大仲姫のお告げの通りに平安が訪れ、しかもそこには大仲姫の墓(白鳥塚古墳)があった。
中山寺境内にある白鳥塚古墳(6世紀後半)は、実のところは大仲姫の墓というには時代も合わないらしい。
聖徳太子云々は作り話で、中山寺はこの地の豪族の氏寺だったのかもしれないのだって。一説によると交野にも中山観音寺があって、それが移転したとか言われているらしい。
見晴らしのいいところだった。
「奥の院」の案内のある方向へ、墓地の横の道を下っていった。
右手に公園が現れて、中山観音公園(梅林公園)だった。前に中山寺にやってきたときにも梅林公園には上ってみたけれど、このあたりまでは来ていなかった。分岐があって、左が奥の院、右は東尾根コースだって。
これから先もあちこちに分岐があった。売布神社駅に下りていける道などなどあって、山中に道がいっぱい交差しているみたいだった。
左の奥の院方面に進んでいくと、だんだん山道の感じになっていった。
卜部左近の墓があった。卜部左近は江戸時代初期の儒教の学者で、播磨の人だったそうだ。中山寺で極楽浄土を体現し、ここに永住したのだって。
それから北中山公園。東屋も見えていて、ここに「シンボル広場」があったのかな? 素敵そうだったけれど、地元の人と思われる人でいっぱいで、スルーした。おじさんたちが各自、好きに過ごしていた。
直進して階段を登って行った。
道々に「大地を包蔵するもの」がいっぱいいた。
けれど左側には、家がずらりと並んでいた。古そうな山道の左手の高台は昭和の時代にか住宅地になったらしく、住宅の背中の部分が並んでいた。
「左 本山道」だって。本山道って、奥の院への参道のことみたい。元は奥の院のあるところに中山寺は建っていたそうだ。けれど荒木村重事件で焼失。豊臣秀頼のときに現在地に下ってきたのだって。
織田信長によって焼かれ(多くは、反逆した荒木村重を倒すための戦いによる)、豊臣秀頼(秀吉さんの息子)が再建や改修って、よくあるパターンだ。豊臣秀吉亡き後、豊臣家の巨万の富を失わせるため、徳川家康が秀頼さんに各地の寺社を再建させたっていうものな。
丁字石がところどころにたてられていて、彫られている文字が享保だったりした。
丁字石がたち、地蔵がいっぱいいて、雰囲気はすごい山の中。けれどすぐそばには家が並んでいて、夢の中の光景のようだった。民家の門だけが残って、家があったらしきところは森になっている、そんなところもあった。
住宅地を離れ、本当の山中に入って行った。土はドロドロで、ウグイスが鳴いていた。大きな石があちこちにあって、その平らな上にも地蔵たちがいた。
他にたくさんの石を積んで円すいの形にした、塚みたいなものもいくつかあった。
十丁あたりに夫婦石があった。夫婦石はまあまあ大きい石だった。右手の奥には東屋もあって、展望所もあったらしかった。けれどこの時は知らなくて、なんだか大勢の話し声が聞こえていたし、スルー。
代わりに東屋と反対側に進んでいった。ここも展望がまあまあよくて、遠くの山も見えた。ただ、木々が邪魔だった。
ウグイスがすぐ近くで鳴いていて、見上げると、木にウグイスの姿が見えた。
このあたりから、ハイカーに時々あった。
前日は結構雨が降っていて、道はぬかるんでいた。14丁くらいからは、赤っぽい石みたいな山の表面が見えていた。このあたりにも分岐があって、山頂への道と奥の院への道に分かれていた。
山中にあった地図によると、ここを北に行くと中央展望所と山頂展望所。そこからは更に満願寺へ。西に進むと中山寺奥の院。
歩き始めてすぐにあった分岐点で「東尾根コース」を進んでいても、「天空塚」を通って山頂展望所へ行けたようだった。「天空塚」って気になるな。
奥の院には、山頂展望所からも下って行けるようだった。せっかくだから山頂まで行っちゃう? とも思いつつ、奥の院方面へ。「罪深い放火には灼熱地獄がまっています」とか書かれていた。
それから十六丁あたりに天保の文字の入った道標があって、「従是南東 放生地」とあった。放生地って、捕らえた獲物を放すところのことだって。
このあたりから道がワイルドだった。ドロドロで、石もゴロゴロ転がっていて、のり面がくずれかけていたりもした。
「厄神」云々とか、「聖徳太子修行」とかの文字を見た。天空塚やこのあたりで聖徳太子が修行をしたといわれているのだって。
それから「宇多天皇御自彫天神」とあって、岩に肖像が彫られていた。貴族らしい姿で、浮彫になっていた。宇多天皇が自ら彫った天神(菅原道真)ってことかな。わざわざ浮彫りで天皇が自ら彫ったとはちょっと思えなかったけど・・・。
十八丁でトイレがあって、舗装道路に出た。いきなり人が多くなり、いくつかのハイカーグループのようだった。
「おお、今日は下見か?」「道がどろどろで、予定変更ばかりですよ~」とか話していた。
中山寺奥の院だった。トイレもあり、建物も新しくて、信心の場というより、ハイカーのたまり場のようだった。上に向かうきれいな階段があって、ここから山頂展望所に行けるのだろうな。
山の中でここにだけお金がかけられている感じがあった。
奥の院前を通り、反対側の下りの道へ進んでいった。「やすらぎ広場」への案内のある方向へ。
我孫子地蔵がいて、嶺名からとったと説明されていた。ここは「我孫子(吾孫子)の峯」と呼ばれていたところなのだって。
言い伝えによると、応神天皇の時、疫病がはやり、「吾孫子の峯」と呼ばれていた当地に忍熊王を供養したのだそうだ。すると疫病がおさまった。
忍熊王は応神天皇の異母兄ね。応神天皇の母の神功皇后に倒された。聖徳太子のとき物部守屋を供養したり、応神天皇のとき忍熊王を供養したりっていうのは、同じ思考で作られたお話のように感じるな。
中山寺は日本で初めて厄神明王を祀ったところとされているそうだ。厄神(厄神明王)は不動明王と愛染明王が合体したものだって。
いろいろなお話があり、本当のところはよくわかっていないみたい。吾孫子にしてもしかり。
地元近辺にはかつてヨサミ池があり、ヨサミのアビコって人がいた。それで我孫子という地名が今もある。ヨサミは一帯の地名で、アビコについては諸説ある。天皇に食物を供する役目の人に与えられたカバネ(称号)だとか、「網引」からきていて漁師のことだとか言われているみたい。
わたしとしてはカバネかな、って気がする。ヨサミのアビコは仁徳天皇(応神天皇の息子)の頃の人。地元に近い鷹合(東住吉区)で知ったことには、海外とも交流を持っていたヨサミのアビコは日本にはいなかった鷹を手に入れ、仁徳天皇に献上。仁徳天皇は日本にいた百済の酒君(王族だったんだとか)に鷹を預けて飼育させ、鷹狩りにはまったのだって。
鷹合の近くには酒君の墓と伝わる4世紀末の古墳があった。
あと日本に公的に仏教が伝来したとされるのは、百済の聖王から皇室に仏像や仏典が贈られたとき(聖徳太子の祖父が天皇だった時代)だけれど、その聖王がヨサミのアビコにも仏像を贈呈。それを後に聖徳太子が寺としたのがあびこ観音らしかった。ヨサミのアビコって呼び方がまだ続いていたのかな、奈良時代に宿禰って称号に変わったそう。
それでいうとここにも、古墳時代から奈良時代までのどこかで、アビコさんがいたのかな?
一瞬、舗装道路に出た。やすらぎ広場まで400m(夫婦岩まで1.3km)だって。
そのまま山道を進んでいったら、道はかなり荒れていて、小さな水場の小さな渡し板は壊れていたり、シダの林みたいになっている間を通ったり。
この道で合ってる?と思っていると、上に舗装道路が見えた。さっきの舗装道路を歩いてもよかったんだな。多くの人が舗装道路を歩くので、下の山道のほうは荒れてきているのだと思われた。そのうち道なき道になるのかも。
けれどあえてそのまま山道を進んだ。そしてたどりついたやすらぎ広場。
トイレや丸太小屋なんかのある地図が掲げられていたけれど、トイレも小屋もなにもなくなっていた。「芝の広場」は草ぼうぼう。3cmくらいに成長したバッタがぴょんぴょん飛び回っていた。
やすらぎ広場の横に赤土の小山があって、上ってみた。展望所には1つも行かなかった代わりに。まあまあ展望がひらけていて、満足した。
それから下って行くと、「演習場につき立入禁ずる」って看板が、あちこちに千僧の自衛隊隊長の名で掲げられていた。
赤土の山肌に松なんかが育ち、大きな水たまりがあったりして、自衛隊員が地を這ったりジープに乗ったりして演習するのに似合う感じがした。「BCTC訓練 ♯1指揮所地域」とか書かれていた。
しばらく舗装道路が続き、演習場みたいだし、道を間違えたんじゃないかな?と思っていると、清荒神への道標が現れて、矢印の方向には久しぶりの山道が現れた。
ほっとして山道に入って行った。
小さな池があって、白いハス(かな?)が満開だった。
1cmくらいのオタマジャクシ、シオカラトンボ、黄色い体長4cmくらいのトンボもいた。そばの低木には白い泡がついていた。なにかの卵かな。
池の向こうに道が続いていたけれど、もっと高所の展望のいいほうにも道があって、どちらも同じところに出たみたい。あとは一本道を歩いていくと、右手にカラフルな屋根の並ぶ新興住宅地が現れた。近頃は山の中で尾根だけじゃなく屋根の連なりもみられるんだな。
それからしばし山道を行くと、広い駐車場に出た。大林寺があって、山に近いど田舎だからか、境内がどこまでか分からないくらい広いようだった。
近代的できれいな新しいところだった。墓地が相当に広そう。
駐車場横の歩道を行くと、屋台のようなお店が並んだ小道に出て、ここを右手に行くと清荒神駅、左手に行くと清荒神らしかった。
何度かやって来た清荒神駅。清荒神への参道には店が並んでいて、歩くのを楽しみにしていた。その参道であるらしかった。
ただ参道のほぼ終盤あたりのようで、さびれた屋台風の店がちょこっとあるだけで、すぐに清荒神に行き着いた。
立派なイチョウがあり、建物も立派で、参拝者も多かった。こじんまりしたところにいくつかのすっきりとした立派で近代的な建物が整って建っているという印象だった。
一番奥の滝まで行ってみたけれど、よくある山岳地帯の寺みたいに急坂をけっこう上るってこともなく、舗装されたきれいなゆるい広い上り道を少し行った先に滝があった。
その途中には境内に鉄斎美術館があった。富岡鉄斎は江戸時代の生まれの文人で画家だって。清荒神の和尚だった人が熱心な収集家で、それを公開する美術館ができたらしい。
清荒神は元は長尾山山上にあったのだって。そちらを元清(旧清)というらしい。
そこから西の谷に移転したというから、長尾山って売布あたりのことだろうか。
元は宇多天皇の勅願所として建てられたのだって。伊丹の金剛寺と一緒だな。宇多さんは天皇として初めて熊野詣に行った人だし、神仏が好きだったのかな。
境内の地図によると、中山寺には白鳥塚古墳(中山寺古墳)があるほか、銅鐸も出土しているのだって。
中山荘園(長尾山西部)には飛鳥時代の八角墳があるらしい。八角墳なんて初めて聞いたけれど、飛鳥時代には天皇や皇子の墓にも多く用いられたのだって。
東には中筋山手古墳群、中筋山手東古墳群もあるらしかった。
今回、中山寺奥の院まで行って感じたのは、このあたりは瀬戸内の要所で、おさえておきたいところだったろうなあってことだった。
すぐ南の小浜のあたりまで瀬戸内海から続く海がせまっていたというし、中山は瀬戸内を見張るのにも格好の場所だったのかも。
清荒神を去り、参道を清荒神駅に向かっていった。楽しみにしていた参道だったけれど、ずいぶんさびれていた。すぐ横は山だったりして、素敵なところだったけれど。
「当店にて発売中『世にも不思議なお墓の話』」とあるお店はシャッターがおりたままだった。「透視占」「ハブ姿焼」、面白そうな文字がいろいろあったけれど、どこも閉まっていた。
そして、あっという間に駅だった。パン屋もなかったし、食料はなにもゲットできなかった。和菓子屋があるにはあったけれど。
このまま帰るのもなあと、清荒神駅まで歩いていた有馬道の続きを宝塚駅までだけ歩いて、宝塚駅から帰ることにした。
清荒神駅の東側の踏切の道を道なりに進むのが有馬道だった。
すぐに右手に玉垣が見えた。前に巡礼道歩きで通った八坂神社かな。このあたりでは有馬道(有馬古道)と巡礼道が同じ道になっているということだった。
昔のままのようなところもあった。竹林があって、高低差があって、昔の姿がしのばれた。
ゆるい上りの道を行くと、右手に皇太神社が現れた。階段の上のほうに神社はあって、ついスルー。疲れてたんだよね・・・。10世紀、源満仲の御家人の創建と伝わるのだって。地名は川面だった。
そして宝塚駅に到着。案外田舎町の感じの残るところだった。歌劇団のある都会ってイメージをもっていたのだけれど、山手で、竹林なんかの似合うところだった。
川面や米谷も古墳のあった古い土地だったみたい。
どなたの勢力地だったのかな。中山寺には忍熊王の母の墓と伝わる古墳などがあって、忍熊王の母方の一族の勢力地だったのかな?と単純に思っていたのだけれど、宝塚には神功皇后の母の古墳もあるのだって。
宝塚には長尾山古墳(4世紀初頭の前方後円墳)など、4世紀から古墳が多く作られていて、神功皇后の母の墓と言われる古墳もあるらしい。
ふぇるへんなるパン屋があって、パンをゲット。おうちに着いてから、くつろぎつついただいた。




