有馬本道を小浜まで
田舎の様相の中、広い県道335号中野中筋線と交差したのは、鴻池交差点だった。
ちょっとした丘の上だった。真上を飛行機が飛んでいった。次の辻を左折。
まっすぐ進むと鴻池の集落で、「酒蔵発祥の地」とか「鴻池神社」とかあったようだった。気になっていた鴻池にせっかくやって来ていたのに、気づけば通り過ぎていた。
疲れがでてきていたかな。小雨も降り、照る時間帯もありつつもほぼずっと厚い雲に覆われていた一日ではあったけれど、蒸し暑かった。結局はおかあさんとで1000mlの水が必要だった。
鴻池って、東大阪方面を歩いていた時にもあった。鴻池家が新田を持っていた一帯で、鴻池財閥についてはそこで知った。
鴻池財閥は元は伊丹の造り酒屋だったらしくて、それがここだったのかな。
調べてみると、ここには鴻池と呼ばれた池があったそうだ。それで鴻池村となったみたい。
そこに武士の身を捨てた若者|(かな?)が山陰から大おじを頼ってやって来た。大おじも荒木村重らに仕えた武士で、隠居して鴻池村に住んでいたのだって。
若者はここで酒蔵を始めた。そしてある日、酒の樽に灰が混じる事件があり、偶然にも澄んだ酒(清酒)ができたのだって。それまでは酒と言えばにごり酒だったらしい。
「清酒発祥の地」については諸説あるそうだ。けれど、清酒の大量生産が可能になり、清酒造りが本格化したのは、このときのノウハウによるものだったのだって。
それにより、伊丹をはじめ、池田や灘でも次々と酒蔵ができていったのだって。やがて一家は大阪にうってでて、海運や両替商、新田開発などにも進出。鴻池を名乗ったのだって。
そして大財閥になっていった。
鴻池神社は創建は不詳。今の祭神は安閑天皇だけれど、元は蔵王権現を祀っていたそうだ。蔵王権現って修験道の仏さまだそうだ。修験道って役行者が始めたっていう、山岳をめぐる人たちの宗教。
牛頭天王=スサノオみたいに、蔵王権現=安閑天皇ということになぜがなっていたから、明治時代の神仏分離で、蔵王権現を祀っていたここの祭神は安閑天皇とされたらしい。
有馬本道を進むと大福地蔵がいて、旧家があった。
広い道に出て、ここを渡り、すぐの天王寺川をむこうばやし橋で渡るのが有馬本道。けれどこの広い道を渡るための信号は少し西側にしかなくて、天王寺川を鴻池橋で渡って、川沿いをむこうばやし橋へ。川沿いを歩くと前方には山が見えて、素敵な光景だった。
天王寺川を越えたあたりで、宝塚市に入ったようだった。ここが姥ヶ茶屋って地名だったところ。
道沿いで新築工事が行われていて、作業員の人同士が中国語で話していた。何度か歩いた伊丹では、前にも中国の人が多いみたいだな、と思ったことがあった。
おうちの表札にも時折、中国人と思われる名前があって、関空に近い日根野に中国や韓国の人が多かったみたいに、伊丹にも中国の人が多いのかな。
古い道標があって、「右中山寺」とか彫られていた。旧家や地蔵もあり、このあたりにも坂本さんがいた。
有馬本堂の続きを行くと道が下りになり、三叉路に。なんだか気になって立ち止まって見ると、ここには石造物がいろいろあった。
反対から南下してきたところにある道標は「寛文八年(1668年)紀年銘道標」らしかった(・・・けれど、どれがその道標なのか分からなかった・・・)。
南下してきて、左に進むと、今来た有馬本道(というか大坂道)、右に進むと、有馬間道だったみたい。前に有馬間道を歩いているつもりで間違えていたのだけれど、本当ならここをやって来て、有馬本道とここで合流していたんだな。
もう少し行くと北に「下の池公園」の案内が見えて、そちらに進んでいった。
下の池公園は、素敵な池畔の公園だった。
公園の中を北上していって、公園を出ると方向が分からなくなっていた。
北にある安倉小学校の横(西)のバス通り(県道142号米谷昆陽尼崎線)を北上するのが有馬本道。
しばらくはこの道を進み、広い通り(国道176号線)の安倉中交差点に至る直前に左手に現れる、水路沿いの道に左折。
ここを進んでも、カーブして国道176号線の上安倉交差点に出た。そして途中で左手からやって来る道が、前に有馬間道のつもりで歩いていた尼崎道だった。
前の有馬間道歩きでは、ここから中山寺方面に向かった。有馬温泉に行く途中、中山寺や清荒神に寄り道するのが人気のコースだったらしくて。
今回は寄り道せずに、有馬道を小浜方面へ。有馬道(有馬間道と有馬本道が一緒になった道)はもう少し北上して、京伏見街道と一緒になって小浜を目指すらしかった。前に少し京伏見街道を歩いた時も、東から中筋7丁目交差点あたりまでやって来た後、北に中山寺を目指して終わりにした。その続きの京伏見街道は、中筋7丁目交差点からそのまま西に進み、天日神社のそばの第一荒牧橋で天王寺川を渡り、上の池の南側を通って(そのへんは前に天日神社に行ったときに通ったな)有馬道に合流するみたい。
有馬道は、住宅地になりつつも、なんだかさすがな古さだった。
前も通った松林寺前の交差点を渡り、前は寺の右側に進んだけれど、今回はそのまま寺の左側(西)の道を北上していった。丘の感じのところで、まだ更に上っていった。このあたりにも坂上さん。
中国自動車道に道を阻まれて、少し右手に自動車道の下をくぐれるトンネルがあったので、そちらに。
トンネルを抜けたら左折。道なりに進んでいった。山が近かった。
中国自動車道が走る水田地帯だというのに、このあたりも住宅地になっているのに驚いた。けれど考えてみれば、この北には阪急が走っていて、駅近なのだ。
迂曲する道の途中、直進すると上の池と上の池公園があるようだった。そちらからやってくる京伏見街道と、このあたりで合流。
「泉町」と地名の書かれた四辻で左折。
さっきくぐった中国自動車道の下を、またくぐった。中国自動車道ができて、こんな妙な街道歩きになってしまったんだな。
中国自動車道をくぐると、小浜宿案内図などがあった。「東門跡」とあって、小浜宿にたどり着いたらしかった。
宝塚市は古墳の多い田舎で、古い時代には小浜あたりが一番栄えていたのだって。国府が置かれていたこともあって、宿も置かれて、小浜は一帯の中心地だったらしい。
北の中山には聖徳太子が開いたという中山寺があって、こんな山奥の田舎だったところに・・・と思ったのだけれど、実は栄えていたんだな。中山寺には忍熊王の母の墓(伝)なんかもあった。
一帯には物部系(イカガシコオの子孫)、オオメフさんの末裔が住んでいたとされていて、それで物部さんが聖徳太子らに滅ぼされた後に、この地に中山寺が建てられたのかな。
平安時代以前には、海がこのあたりまでせまっていたのだって。それで「小浜」。浜だったところらしい。かつては栄えていた湾岸あたりだったんだな。
この南にも古墳群があったっていう塚口や、弥生時代の集落跡の遺跡なんかもあるから、伊丹段丘あたり(このあたりまで続いている伊丹台地)は陸地になっていて、その西側と東側は海だったのかな。それがやがて武庫川と猪名川になったのかな。そこをクレハ・アヤハを乗せた船が進み、池田市に上陸したのかな。
少し南の安倉には住吉神社があって、住吉神(海の神)がやってきて、それまでこの地にいたワルたちを平定して、この地を治めたとか書かれていた。住吉神がやって来るにふさわしいところだったんだな。
後にも小浜は三方を川(大堀川)に囲まれたところで、城(小浜城)が築かれたこともあったのだって。城というか、城と化した寺内町。北、西、南に湾曲して川が流れていて、東側は池を掘って守りとしていたそうだ。
江戸時代には有馬街道の宿場町に。東門と北門、南門とがあって、有馬道は東門から入って北門から出ていく感じらしい。
その東門から入ると、少し高くなったところに小さな愛宕宮があった。その感じは塚口城の門跡にも似ていて、「土塁の跡」ってやつなのかな。
つきあたりまで進み、右折。前には黒くて素敵な建物が見えていて、法仙寺らしかった。そちらには進まず、すぐを左折。
このあたりは歴史を強調したところだった。ハイツにも行燈かなにかを模したものが置かれていたり、小浜会館横には高札場が再現されていたりした。
ニセ薬の売買はだめだとか、親孝行するんだよとか、火つけは厳罰に処すとかは、前にも見たことがあった。文禄堤でだったかな。ここには他にもいろいろおかみの伝達が掲示されていた。
印象的だったのは「きりしたん札」とある一枚だった。キリスト教は禁じる、隣近所のものが信心しているむねを報告した者には褒美をとらせる、みたいなことが書かれていた。
ただ、そんなふうに歴史を強調しているわりには古い建物とかはほぼなくて、普通の住宅街になっていた。普通の住宅街に、懐古趣味を施したようなところだった。
左手に小浜宿資料館があって、すぐの四辻に首地蔵や毫摂寺への新しい道標がたてられていた。ここを右折して北へ。
右折する手前、直進する急な下り坂の向こうに神社が見えて、ちょっと寄り道。皇大神社だった。室町時代の創建と伝えられているそうだ。だんじり庫があった。
神社前の道には「京伏見街道」「兵庫西宮街道」とあった。
四辻に戻って北へ。このあたりに小浜宿について説明が書かれてあった。
神戸・淡路大震災で被害を被り、ほぼ昔の趣はなくなったのだって。それで「懐古趣味を施した普通の住宅街」の感じになってしまっているんだな。震災前の姿を見てみたかったなあ。
またつきあたって左折。すぐの道は皇大神社前を北上してきた道で、この道をもう少しだけ行けば「北の口」だった。有馬に通じる北門ね。ここにも愛宕地蔵がいた。
小さな宿だなあと思った。少し歩いただけで、もう出て行ってしまうんだな。
北門跡を出ると、国分橋。小浜にあったっていう国府関係からの命名なのかな。かなり下の方を川が流れていた。これが大堀川。
左手、下の方には小さな橋が見えた。川も素敵、橋も素敵だった。今度来たら、絶対あそこを歩こうと思った。また再来するだろうと予感した。今回はこのまま去っていくけれど、今度はもっとゆっくり歩こう。
後で知ったことには、その橋を渡るのが古くからの有馬道。秀吉さんと千利休も歩いた道だそうだ。
こじんまりした宿場だった町は、1つの集落として完結している感じで、魅力的だった。建物はほぼ壊滅してしまったようだけれど、地形はこんなに昔のまんまなんだな。
門すぐの大堀川を渡ってすぐに左折。
民俗資料館があった。立派な建物で、犬の身なので遠慮したのだけれど、ここは旧和田家であるらしかった。米谷村の代々の庄屋さんのおうちで、宝塚市に寄贈されたのだって。小浜宿資料館になっているところも小浜の旧家跡らしい。大堀川を渡ったここは米谷だった。
裏手(南)は窪地のようだった。崖下のようになっている、ずいぶん下のほうに町があった。そこが小浜宿の西の一帯。かつては海だったのだろうあたり。
和田さんってワタツミのワタからきているという話も聞くけれど、ここの和田さんとは全く関係ないのかな?
途中右手の高台に常夜灯が対であった。
西に向かう道の左手は、ずっと低地のままだった。窪地じゃなく、ずっと続く平野だった。全部海だったんだな。
米谷1丁目交差点を過ぎてそのまま進み、石仏や薬師如来のいるところで右折。すぐのJR福知山線の踏切を渡った。線路沿いの車道(国道176号線)を少しだけ進んで、右折して行くとすぐ清荒神駅(阪急宝塚線)だった。
時間と体力が許せば宝塚駅まで歩こうと思っていたのだけれど、ここまでとした。
有馬本道、面白かったな。園田、猪名野廃寺、伊丹郷、大鹿、小浜、一日の散歩コースとしてはかなり面白い道だと思った。
前に歩いた「ありまみち商店街(東灘区住吉本町)」とかの阪急神戸線界隈で見た有馬道は、また別の道なんだってことがやっと分かった。そんなことも土地勘がなさ過ぎて分かっていなかった。
今のJRの住吉駅ができると、有馬への表玄関的な駅になり、そこからありまみち商店街、山田の里、有馬へと進む道が有馬道(反対からは住吉道)として栄えたのだって。
宝塚市小浜は遠いけれど、親近感を持った。地元にも粉浜があるから。
なにか関係はないかと思っていろいろ調べた。
頭がこんがらがるばかりだったけれど、粉浜については面白いことがいくつか分かった。粉浜は木浜と書いていた時代もあって、住吉大社に使う木を陸揚げする浜だったから「木浜」といった、という説もあるみたい。あとは10代崇神天皇のとき、天皇が大阪あたりの桑間宮にいたという話があるらしく、それが今の粉浜で、クワマ⇒コハマになった、という説もあるのだって。
そして崇神天皇が桑間宮にいるとき、よさみ池などを造ったのかもしれないのだって。依羅池って、かつて住吉大社の東の一帯にあった大きな池。松原市の三宅あたりまでの大池だったそうだ。今も大依羅神社が鎮座している。10代天皇の頃に造られたのかもしれないのかあ!




