有馬本道を小中島から
それから梅雨に入り、7月になった。
なかなか歩けないでいたけれど、梅雨の中休みとなりそうな日があった。
朝は雨が降っていたけれど、その後は上がり、日中は曇りの予報だった。最高気温も27℃あたり。こんな日を逃すと、もうしばらく歩ける日はないぞ、と思って出かけることにした。
梅雨があけたら夏も本番。30℃を越えられると、もう長めの散歩とはいかない。
家を出て、駅に向かっているときにはもう雨はあがっていた。そしてかんかんと照ってきた。くもりだったんじゃないの~?と思いつつ歩いた。濡れているアスファルトからどんどん雨が蒸発していた。
今回歩くことにしたのは有馬本道。
有馬に向かう有馬街道はいっぱいあって、大阪から向かう場合のスタンダードは2本。神崎あたりからスタートする有馬本道と有馬間道ね。
有馬間道と呼ばれる道は、前に途中道を間違えつつ清荒神駅まで歩いて、有馬本道のほうも気になっていた。「間道」とか「本道」とかいうのは誰がいつ名づけたのかもよく分かっていないそうで、藻川沿いを行くのが有馬本道、それより西側を通って行くのが古くからある有馬間道。
神崎から藻川沿いに北西に向かう有馬本道のスタート地点の最寄り駅は、JRの尼崎駅とか加島駅とかになるのかな。けれど尼崎駅や加島駅のあたりは、前に歩いてそうは楽しいところでもなかったし、園田駅(阪急神戸線)から歩いて、有馬本道に途中から入って行くことにした。
阪急電車は十三駅から、東に向かう京都線、いったん北に向かう宝塚線、西に向かっていく神戸線に分かれる。
できれば有馬本道を宝塚駅まで歩きたいと思っていたから、神戸線で向かい、宝塚線で帰ってくる予定。
おなじみになった十三駅の次が神崎川駅で、すぐの神崎川、それから猪名川と渡ったら園田駅だった。
園田駅があるのは、猪名川と藻川にはさまれた島みたいなところ。中州っていうのかな? 藻川は猪名川から分かれて、また猪名川に戻っていく川ね。
きっと海だったあたりだろうな。神崎川駅近くで神功皇后が神集いをしたっていう。このあたりの湾で船に乗った人々が集ったのかな。
東には前に行った服部天神や稲津があって、そのあたりまで湾になっていたのかもしれなかった。服部天神にいったとき、すぐそばまで海だったって説明されていた。
園田駅の北には船詰神社があって、猪名川から流した木材をこのあたりで船に積んでいたからと言われているのだって。猪名川の上流、五月山の北に木部があって、ここに木を流通させる人々(紀部さん)がいたって話だった。
けれど電車に乗ってやって来た園田は、中州だなんて全く分からない普通の住宅地だった。
園田駅は南出口から出て右へ。最初の信号まで進んでいった。おじさんの多い町のように思った。
自転車で行きすぎる人もおじさんだし、公園にたむろすのもおじさん(碁かなにかしていた)。たまにいる女性は、なんだか生活感のない感じがした。交通事故に遭ったらしいハトが道路でぺちゃんこになっていた。
園田には兵庫県がやっている園田競馬場がある。競馬場があるから多いのではなく、おじさん、つまりはかつての労務者の多い町に競馬場ができたのかな?
少し調べてみると、園田に競馬場ができたのは1930年。その後、戦争もあり、不祥事による事件なども多々あり、おじさんと共に歩んできたって印象だった。
信号を左折した先に橋が見えていて、そちらに進んでいった。「ここはトイレではありません」なんて貼り紙があった。
園田橋で渡ったのは藻川だった。中州の園田を出ていく橋。
藻川は素敵な川だったのかもしれないけれど、なんだか残念な感じになっていた。町に緑は少なくて、新幹線の高架がでんとあり、そんな中を流れていく。
橋を渡ると、土手を北上していった。しばらくはここを進むのが有馬本道かな。
けれど狭いわりに車はけっこう通るし、堤の下には案外古そうな集落が見えて、土手から下りていった。
地名は小中島で、祠や、古そうな家もあった。
そして新幹線の高架の向こうには素盞嗚神社があった。
なんだか平べったくなった南向きの神社だった。階段を登って行ったところに拝殿があり、あまり古い感じはなくて、リニューアルしたのかな。元は大きかったのだろうけれど、道がいっぱいできて、拝殿あたりだけ残して周りを削られてしまった感じ。
トンボが飛んでいた。そして境内に「立小便するな」って貼り紙・・・。
横の新幹線の高架下では街路樹の剪定除去作業が行われていて、その作業車には大きく「中高年」と書かれていた。緑化管理の「中高年事業(株)」だって。
園田駅南口から「おじさんの町」って感じで、なんだか、らしかった。2019年当時のこと。
新幹線の高架の下を北上していって、阪急神戸線(園田駅と塚口駅の間)を過ぎてすぐ左折。低湿地だった感じのすごくするところだった。水路と線路の交差する感じの町。
地名は瓦宮で、古い集落のようだった。河原の宮で「瓦宮」なのかな?
由来はあまり分かっていないようだった。
このあたりには川原公も住んでいたのだって。継体天皇の息子(母は尾張氏)である宣化天皇の子孫に椎田君(川辺郡椎田)、丹比公(河内の丹比)、イナ公(猪名川近辺のイナ)、川原公などがいて、その川原公が住んでいたらしい。
そのまま進むと皇産霊神社だった。
白くて新しい、ちょっと「仮」って感じのする拝殿の神社だった。けれど境内は、なかなかに古い感じがしていた。田んぼの中を参る神社だった感じ。
本当はここまでやってくる前に、北西にじぐざぐ進むのが有馬本道。
北に南台公園の緑が見えていて、そちらに進んで行く。
南台公園あたりはきれいな住宅地だった。「南台」ほか「北台」もあったから、新興住宅的なところなのだろうな。
公園の西側の道を北上。道は途中でほぼ直角にカーブして西に方向を変えた。
このカーブで交差する道を右に進むと神社があるようで、寄り道して探してみた。なかなか見つからなかった。大きな旧家がいくつかあり、近代的なすごく広い敷地の中に、一部だけ古い建物が残されていたりした。
ぐるりと新幹線の高架下まで回ったところにやっと神社はあった。下食満稲荷神社だった。セミが鳴いていた。
ここの地名が食満で、食満には稲荷神社、中稲荷神社、下稲荷神社があるのだって。食満と書いて「けま」。毛馬と同じだな。ケマは「ケ(=食物)+マ(=土地)」という意味の古代の言葉と思われるのだって。
かなり歴史のある、昔から裕福だったところに思われたけれど、近代化した旧家といい新幹線横の神社といい、なにも語ってくれなかった。
すごくいりくんだ道だったけれど、遠くからでも見えている大きな旧家などを目印に、元の道に戻っていった。
下食満福祉会館や旧家があった。コイン精米機があったり、水路があったりで、今は住宅密集地だけれど、元は田んぼだらけのところだったのかな。
奥に公園が見えて、南浦公園だった。水路と水田、その向こうには旧家。かつての姿を少しだけ垣間見れた。
もう少し行くと、道のえらく湾曲したところを通った。道が何かを迂回するみたいにくねって曲がり、不思議な感じだった。
だんだん人の通りが多くなって、スーパーマーケットが見えてきた。左手には丸橋公園。
それから大井組の碑。藻川からの水路(大井)を共用する組のことみたい。
このあたりにパン屋があった。けれど定休日で残念だった。
このあたりはおばあさんが多かった。園田駅の南側はおじさんの町だったけれど、ここはおばあさんの町かな。
多くのおばあさんたちがスーパーに向かっているようなのだけれど、むちゃくちゃ自由だった。
自転車のおばあさんは、車道をずっと走っていて、後ろからやって来た車にクラクションを鳴らされていた。カートを押すおばあさんは、横断歩道のないところで車道を斜めに横断し(我が家に帰る、いつも通っている最短の道なのだと思われた)、しかもすごい遅さで、車がその間、ずっと待っていた。
まあまあの街中に暮らしながら、感覚は車のほぼ通らないド田舎のままなのかな・・・。
車道を横断して、すぐの園田中学校につきあたるまで北上。それから中学校、小学校と、西側の道を北上していった。
小学校には「犬のふんは持って帰って 困っています」という小学生が描いたポスターがいっぱい貼られていた。
県道41号大阪伊丹線に合流した。しばらくはこの41号線を北上していった。工場地帯のようで、そこに住宅も建っていた。
少し離れて西側には大きな三菱電機伊丹製作所があったようだった。
左手に「フクモトパック」の工場があるところは、なんだか心惹かれた。水路を渡って集落に入って行く感じのところで、その入り口にフクモトパックがあった。その奥には古そうな家々と、雰囲気のある旧道。
たんぼばかりの古い集落だったところに、地元の人が工場を建てたのかなって感じがした。
地名は南清水だった。
気になりつつもスルーして北上を続けたのだけれど、集落に入って行けばお寺やスサノオ神社もあったようだった。そしてスサノオ神社があるのは、南清水古墳なる前方後円墳(帆立貝式)の上らしかった。
もう少し北には大塚山公園があって、6世紀前半の前方後円墳があったところだそうだ。壊されて公園にはハーフサイズで古墳が復元されているのだって。
それから猪名寺南交差点で新幹線の高架下を通過。
ここから西に走る新幹線は猪名寺駅(JR福知山線)の北側を通って、古墳のある南神社、古い集落で面白かった御願塚、なにかのいる気配を感じた南野神社と、歩くと、古くてただものじゃない感じのした一帯を、一瞬で通り過ぎていくんだな。
右手には「ヤンマー」と書かれた大きな工場が続いていた。この日歩いた中で、このあたりが一番面白くなくて長く感じたな。
前方、右手には緑が見えていた。神域って感じがした。最初の四辻で右折して行ってみると、小高くなったところにお寺があった。
法園寺だった。そして横には小さな神社があり、「猪名寺廃寺跡」とあった。隣は小さな公園で、公園と神社と寺がすべて一体みたいになっていた。
人気はあまりなく、住宅に囲まれていた。
その感じが、この場所が「猪名寺廃寺跡」という公の場所じゃなく、一帯に住む人々の裏庭って雰囲気になっていた。裏庭というか、前に目にしたことのある斎庭かな。
猫がいた。お寺には、目の不自由な猫同士が協力し合って暮らしています、かわいいからと連れて行かないでください、返してくださいと書かれてあった。
なんだか素敵なところだった。忘れられたような斎庭。
猪名寺廃寺跡とあるお寺(法園寺)の裏に公園が続いていて、その奥には進めないように柵がしてあった(当時)けれど、緑がいっぱいだった。
大きな石が置かれてあって、これは猪名寺廃寺の塔心礎らしかった。
猪名寺廃寺は飛鳥時代後期(7世紀後半)に建てられ、荒木村重事件で焼失したと思われるそうだ。荒木村重のいた有岡城があったのは、すぐ北だからなあ。
法園寺は法道仙人開基(大化元年)、行基によって中興されたと伝わるのだって。法道仙人はインドのほうから牛頭天王と共にやって来たと言われる人ね。わたしは堺の鉢ヶ峰で初めて知った。「鉢飛ばし」の秘法をもち、座ったままで鉢を飛ばして托鉢を行ったという仙人が、鉢を埋めたのが鉢ヶ峰なんだとか。
今まで行ったところでは、加島の富光寺と上神谷の妙見さんこと堺の感応寺が、645年に法道仙人が開いたと伝えられていた。
猪名寺廃寺の南に法園寺が隣接していたか、猪名寺廃寺と呼ばれる寺(寺の名が分からない場合、「地名+廃寺」で呼ばれる)が法園寺と同一の寺か、どちらかのようだった。
そして猪名寺という地名は、この廃寺が「猪名寺」という名だったからと思われるのだって。
北に見えていた公園は、後で地図で見てみれば、佐璞丘公園といい、大きな公園だった。
そこがみんな寺だったところなのだろうな。
そして寺と公園と共にある小さな神社は猪名野神社元宮だった。904年に伊丹に移転していったと書かれていた。
「ことば蔵」なる伊丹の図書館のある道を進んで行ったところにあった、伊丹段丘の南の端のあの猪名野神社ね。ここから北西に1kmほどのところ。
904年、宇多法皇の勅願所として金剛院が建てられ、そばに猪名野神社が移転。元はここのお寺にあった神社だったんだな。
野宮といい、祭神は猪名野坐大神、つまりはスサノオってことだった。
このあたりまではまだ尼崎市で、この北は伊丹市だった。
すぐ東には藻川が流れていて、その川向こうは田能。更に行くと猪名川があって、その向こうには田能遺跡があるらしかった。弥生時代から古墳時代中期と長きにわたる大集落の跡なのだって。埋葬方法などから北九州の人々とのかかわりが感じられるそうだ。
今まで散歩してきたところでは四国の人々とのかかわりを感じさせられるところが多かった。
四国で農耕を行っていた人々が移住してきたのだろうな、と思っていたのだけれど、北九州からも東北からも移住者はいたのだろうな。




