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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
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有馬間道を尼崎から

今度は有馬道を歩いてみることにした。散歩していて、今まで3か所で出会った有馬街道(有馬道)。

一度は多田街道を歩いていた栄根近くの花屋敷で。一度は能勢街道を歩いていた池田市井口堂あたりで。もう一度は、神戸住吉あたりで「ありま道商店街」で出会った。

元は船で神崎に行き、藻川沿いに北上して猪名寺、伊丹と進む本道と、もう少し西側を次屋、下坂部、久々知と進む間道があり、本道は大鹿で、間道は昆陽で西国街道と交差。その後、本道と間道は合流し、小浜、生瀬、有馬へと進んでいくそうだ。中山寺や清荒神に寄ったりしつつ有馬に行くのが定番コース。

そして後に有馬温泉が大人気になり、京方面から京伏見街道で池田、加茂と進んで有馬道に入るというコースもオーソドックスになった。花屋敷の有馬道はこれだったのかな。

ありま道商店街はまた別の有馬道らしい。他にも有馬道はいろいろあるようだった。それだけ人気で、あちこちから人が向かったってことかな。

JR尼崎駅からスタートすることにした。本来のスタート地点の神崎よりは西の方だけれど、北上して有馬間道の途中から歩いてみよう。

JR大阪からは宝塚方面行きホームからでも神戸方面行きホームからでも尼崎に行ける。尼崎から宝塚方面行きと神戸方面行きとに分かれるみたい。

電車の中、尼崎駅に近づくと、途中、マネケンや極楽湯が見えた。見覚えのあるそこは、中国街道を歩いていて通った、神崎川を越えたあたり。

神崎川の渡しを降りると、中国街道は西へ、有馬本道は北へ、有馬間道は北西へと進んで行ったのかな。


JR尼崎駅はにぎわっている都会の駅だった。

2階にある改札を出ると、「久々知・下坂部方面」と案内されている北口方向へ。駅から続く歩道橋は広くて、あちこちに下りの階段があった。

「梅川の像」が目立っていた。着物を着た女性の像だった。駅の北側の再開発が平成11年に完了。その記念に設置された像だそうだ。梅川は近松門左衛門の「冥途の飛脚」なる物語に出てくるヒロインで、新町遊郭(大阪)の遊女らしい。

尼崎と近松門左衛門は縁があって、久々知にはお墓もあるのだって。大阪にもお墓があったと思うのだけれど、どちらが本当の墓なのか等は、よく分からないそうだ。

歩道橋を北に向かい、つきあたりのホテル前を右折して、歩道橋を下った。

そのまま東に進むと潮江1丁目交差点で、ここを左折。角にさっそくパン屋があった。ダンクブロードだって。まだ歩き始めたばかりで、邪魔になるとは思いつつ、せっかくなのでここでパンをゲット。

この南、JRの向こう側は長洲や常光寺で、前に中国街道歩きで歩いたあたりだった。けっこう古くて、面白かった一帯。

駅北のこちら側は都会だった。けれど古い福祉会館などあって、このあたりも地方都市風で古いところだったのが最近化けたのかなって感じがした。それが平成11年に完了したという再開発なのだろうな。左手にはちょっとレトロな商業施設があって、おしゃれだった。ちょっと芦屋みたいないでたちなのだけれど、出入りするのはこてこてのアマのオバチャンたち。

「アミング潮江」の文字が目立っていた。再開発でつくられた「未来型都市」の愛称が「アミング潮江」なのだって。再開発前はキリンビールの工場などがあったそうだ。


北上していくと、浜3丁目北交差点で、左手に大きな旧家があった。右手には教専寺(真宗本願寺派)。レトロでかわいい集合住宅(恵住宅)もあった。

やって来た広い道はこの先で少し右寄りに進んでいくけれど、直進する道もあり、なんだか古そうだった。この道を進んでみると、金蓮寺と潮江素盞嗚神社があった。クスノキが立派だった。

後で知ったことには、尼崎には素盞嗚スサノオ神社がとても多い。ただ古い記録があまり残っていなくて、その理由などはよく分かっていないみたい。大阪に近くて急速に住宅密集地になった尼崎では、古いものにはこれまであまり注意を払われてこなかったらしい。

江戸時代に牛頭天王が流行し、多くの神社が牛頭天王を祀るようになったのだけれど、明治時代、神社には神をまつりなさいとなって、牛頭天王はスサノオ神だってことにされた。そんな話をよく聞くし、高槻では、織田信長が牛頭天王を信心していて、牛頭天王を祀る神社は焼き討ちにされなかったから、みんな牛頭天王を祀るようになり、後の明治時代、牛頭天王はスサノオってことにされたと説明されていた。

尼崎でもそんな感じだったのかな。

ここはかつて、享禄年間に三好さん(三好長慶)が時の権力者の足利さんと戦い、池田へ進撃中に祈願した神社だと伝わるそうだ。ただ・・・その頃、三好長慶は10歳にもなっていないような・・・。今は窮屈そうに車道の近く、玉垣の中に押し込まれていた。

玉依姫(海神の娘)を祀る糺神社を合祀しているってことだった。

ただす」といえば糺の森。下鴨神社の鎮守の森で、下鴨神社の正式名称は賀茂御祖かもみおや神社。他にも糺神社が鳥取米子にもあって、正式名称は鴨御祖かもみおや神社。カモワケイカヅチ(上賀茂神社の祭神)の母、タマヨリヒメと、その父、カモタケツヌミを祀る神社のようだった。

それからいうと、ここの玉依姫タマヨリヒメもカモタケツヌミの娘じゃないかな?って気はしたけれど、海神ワタツミの娘のタマヨリヒメなんだな。


そのまま北に進む道は、昔は商店街だった感じがして、面白そうだった。そこを北上してもよかったのだけれど、神社と寺の東側の道を北上していった。ぐねぐねした道だった。川が流れていたのかな。

急に昭和前半の頃みたいな集合住宅地帯になった。近くの工場に働きに出る工員たちの時代のままのようなアパートたち。外にも物があふれていたり、朽ちていたりした。

左手に川田かわた公園があった。かわたって、そういうことかな。

下坂部小学校につきあたり、左折して小学校の西側を北上。細い道で、ここも川だったところかと思われた。まあだいたいはこのあたりから有馬間道に入ったと思われた。北西に進む有馬間道に南からやって来た感じ。

小学校の北側には水路が見えた。尼崎は大部分が中世になって土の堆積でできたらしいから、低湿地で、川も縦横無尽に流れていたのだろうな。

そんな尼崎市にも弥生時代後期の遺跡も見つかっているらしい。大きなものでは田能遺跡、武庫荘遺跡。どちらも阪急電車よりも北の高台のほう。下坂部でも、この少し東で弥生時代後期の遺跡が見つかっているらしかった。弥生時代後期にはこのあたり(阪急とJRの間くらい)まで土の堆積が広がってきていたのかな。


細い道の右手に蓮生寺(真宗大谷派)が見えて、寺の前の道を北上。

古そうな建物もあった。川田公園のあたりとは違い、広い敷地に古いおうちがあり、同じ敷地内に新しいおうちもあったりした。旧家が一部だけ新築したとかかな。

左手に空地が見え、その奥には地蔵や祠などがあり、おばあさんが手を合わせていた。行ってみると「常願寺跡・厳島神社跡」とあった。

空海の実の弟にして弟子の真雅なる人がいたそうだ。尼崎に立ち寄り、常願寺を建立。常願寺を中心とした寺内町を形成して栄えたそうだ。下坂部村は環濠集落だったのだって。

戦乱の時代、環濠集落だったってところに度々出会う。周囲を堀川や土盛り、塀などで囲んで、限られた橋のかかった木戸からしか入れなくした集落で、堺をはじめ、大阪の平野や喜連や桑津や玉出や遠里小野、久宝寺とか東大阪の池島とか。

環濠で村を守っていたのだろうけれど、天正の時代に、常願寺も燃えてしまったそうだ。荒木村重が織田信長に謀反を起こし、有岡城、尼崎城、花隈城と移りながら戦ったのが天正時代だものな。その後、再建されたけれど、大正の時代に廃寺になってしまったそうだ。

末社に弁才天を祀る社もあり、後に厳島神社と改称。弁財天を祀るのでは神社として認められなくなったので、弁天さんは多くのところで市杵島姫命いちきしまひめを祀る厳島神社に変身したのだって。そしてそれも後に伊居太神社(尼崎)に合祀されてしまったらしかった。

隣には幼稚園があり、園児たちに指導する大きな声が聞こえてきていた。


「ありま道」の新しい道標があった。南に神崎、北に久々知が案内されていた。

前方に高速が見え、道がまっすぐになって、元環濠集落を抜けた感じがした。

車道と交差して、少し西にある交差点は「下坂部城ノ堀」だった。これも環濠集落だった名残と思われるのだって。環濠集落はほぼ城みたいなもの。その堀があったあたりってことかな。

そのまま進んでいくのが有馬間道だったけれど、高速が上を走り、ここからは高速の下を通り抜けられなかった。左手の信号(下坂部4丁目交差点)で渡ってから、元の道の続きへ。ここにも「ありま道」の新しい道標があった。

地名は久々知だった。つきあたりまで北上して、右折。

広い県道(41号大阪伊丹線)に出ると、その向こうが伊居太イコタ神社だった。きちんと整った車道と家々に囲まれた感じの神社だった。

けれどここが、前方後円墳の後円の部分なのだそうだ。削られて神社になっているけれど、元は全長100m近くの市内最大級の古墳だったと思われるのだって。5世紀末のものらしい。

近くには下坂部遺跡のほか、若王寺なこうじ遺跡も見つかっていて、古くから人の住んでいたところだということだった。

若王寺遺跡って、下坂部遺跡と同じく、弥生時代後期からの遺跡だそうだ。鞴や鉄滓なども見つかっていて、製鉄も行われていたと思われるのだって。

神社の創建については不詳。池田市の伊居太いけだ神社とともに式内社(平安時代の神社目録に記載のある神社)の伊居太神社かもしれないところ。元は違う名だったけれど、式内社の伊居太神社を意識してどちらも伊居太神社と名を変えたのかな?

元は阪合部の祖、大彦命を祀っていたのかも、とも言われ、つまりは何もかもあまり分かってはいないみたい。

大彦命の子孫の坂合部(さかあいべ・さかいべ)連がこのあたりに住んでいて、祖を祀り、地名も坂部になったのかな?とか言われているけれど、想像の域を出ないみたい。坂合部の仕事は国境を定め、標をたてることだったのだって。

大彦命は孝元天皇(8代)の皇子。四道将軍の一人で、こしに派遣されたとされる人。久々知に住んでいたと思われる久々智氏もその子孫だそうだ。

大彦命の子孫には他に阿倍氏などがいるらしい。


41号線を少しだけ北上し、ファミマ前を左折すると、北に住の堂公園、南に近松公園があった。

住の堂公園は小さな公園で、その北側には伊佐具いさぐ神社が鎮座していた。神社の説明には、市内唯一の式内社だと書かれていた。祭神は五十狭城入彦命いさきいりひこのみこと

景行天皇(12代)のたくさんいる息子の一人。景行天皇の最初の皇后がオオウス・コウス|(ヤマトタケル?)らを産んで亡くなった後、美濃国から迎えた皇后が産んだ子の一人。

12代景行天皇の父は11代垂仁天皇で、その母方のおじいちゃんが大彦命だったから、大彦命と関係なくもないけれど、関係あると言えるほどでもないような・・・。

神崎は古くは「神前泊かんざきのとまり」と呼ばれていたそうで、一説によると、この神社の前っていうので神前、後に神崎と書くようになったのだって。

伊佐具神社には、神功皇后も参ったという話もあるらしい。敏馬神社で知ったことには、神功皇后が神前松原で神集いし・・・という話もあった。当時はまだこのあたりまで堆積していなくて、海辺だったのかな。

伊佐具神社は今では住宅密集地の中の小さな神社だけれど、赤松円心も戦勝祈願したことのある神社らしく、円心を弔っているらしい五輪塔もあった。


周りには旧家もあり、そして南の近松公園は広かった。外から見ると、素敵な静かな森みたいだった。

鳥のいる池や水辺もあり、おじいさんおばあさんが結構いた。ここでちょっと休憩。JR尼崎駅近くで買ったおいたクリームパンをいただくと、まだ温かかった。

リュック姿でウォーキングしている人たちがいた。ウォーキングコースになっているみたいで、それも分かる。「ありま道」の文字があったりもし、公園は素敵で、周辺も探索にふさわしい感じだった。

園内に近松記念館があり、近松門左衛門の像がたっていた。

このすぐ西側に廣(広)済寺があって、ここに近松門左衛門の墓があるらしい。生前には近松門左衛門が蟄居して、執筆していたと伝わるそうだ。

すぐ北には須佐男スサノオ神社があり、近松公園とつながっていた。

元は牛頭天王と妙見さんを祀り、広済寺とも一緒になっていたそうだ。けれど明治の神仏分離政策でバラバラに。そして牛頭天王はスサノオってことにされたのね。

須佐男神社(というか牛頭天王社)は源満仲が勧請したそうだ。

源満仲は多田源氏の祖。清和天皇のひ孫で、武士だった。住吉大社に参って、どこを居城とすべきか問うたのだって。すると北に向かって矢を射、その矢の落ちたところになさいと神託があった。それで矢を射ると多田に落ちた(というか、多田で九頭竜の体を貫いていたんだって)。

源満仲が上でその矢を射いたという石が須佐男神社の境内にあった。とっても小さくて、冗談みたいだった。

多田に住んだ満仲さんは武士団を従え、息子には頼光(茨木童子を退治するなどの伝説の人)、頼信(河内源氏の祖)などがいた。

頼信さんの孫が八幡太郎義家で、その孫の孫あたりが源頼朝、義経、木曽義仲たちね。

源満仲は妙見さんを崇敬していたらしい。それで武士たちの間でも妙見信仰がはやったのだって。その関係でここにも妙見さんが祀られたのかな。神社の横の庭の玉砂利を敷いた一角に小さな祠があって、それが妙見さんだったのかな。

周辺は森だった気配があった。元は近松公園は森で、そばに神社も寺も一緒にあったのだろうな。小川が流れ、鳥が鳴き、木立が風に揺れる。有馬道が通っている。すぐそばには伊佐具神社の森や伊居太神社の森もあったのだろうな。

そこで近松門左衛門は梅川さんの物語を書いていたのかな。

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