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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
18/46

池田(和泉)の大津街道

久しぶりに南方面へ行くことにした。

今年もまた暑い夏がやってきて、しばらく遠出もできなくなる。その前に、気になっていた池田春日神社と黒石に行っておこう。どちらとも前に行ったのだけれど、さらっと見ただけだった。後でいろんなことを知り、もう一度行ってみたいと思っていた。

6月のその日、天気予報は曇のち雨。夜になって降りだすだろうという予報だった。どうだろうな?

前の散歩では、予報と違ってずっと照っていて、ひどい暑さだった。今回は本当に曇りで、涼しいといいな。

夜から雨ならいらないな、と傘は持たずに出発。ずっと曇とか雨とか言っていても照って暑い日々が続いていて、暑さしか心配していなかった。

南海高野線から泉北高速鉄道で和泉中央駅へ。和泉中央駅は標高の高いところにあるのだけれど、どのあたりから高くなるのかな。電車の中で観察してみた。深井はまだまだ低地だった。深井って、西には羽衣や鳳、まだそのあたり。東には日置、美原、太子町、二上山。

それから泉ヶ丘にかけて、だんだんと高くなっていった。陶器を登り窯でつくっていた一帯かな。泉ヶ丘あたりの泉北ニュータウンは、古墳時代から須恵器の生産地で、大量生産して各地に流通させていたところ。西には泉大津や信太。東には金剛、富田林、竹内峠。

泉ヶ丘を過ぎると、ここまでほぼ南に進んできたけれど、西よりに向きを変えて、山と谷だっただろうあたりをつっきっていった。西には岸和田や久米田。東には河内長野ってあたり。

ダイナミックなところに、ダイナミックに造った感じの和泉中央駅。最初やって来た時は、その規模に驚いたものだった。線路と町、道路までみんな計画的に造られたところ。

改札を出ると左へ。エコールいずみにつながる通路の下の道路に階段を下っていった。駅の南の幹線道路(府道223号三林岡山線)を東に。いぶきの病院を左に見ながら進んでいった。

いぶき野大橋東交差点へ。下を泉北高速の電車が走る、その上の大きな橋がいぶき野大橋。前にはこの橋を渡って、ぐるっと和泉中央駅周辺を散歩したことがあった。

今回は橋は渡らずにそのまま直進。コナミを越えて右折。すぐ左折。223号線の一本内側(南側)の道で東に進んでいった。ここから南南東の方角に池田春日神社や黒石はあって、まずは東に進んでからひたすら南下していくつもりだった。

このあたりにはコナミとかブックオフ、大きな喫茶店とかが並んでいた(当時)。商業施設が駅周辺に固まっていて、住む人はここに来ればなんでもある感じだった。便利な町なのだろうな。けれど規模の割には駐車場はがらすきで、時間のせいかもしれないけれど、存続が危ぶまれる感じもあった。

そしてなんだか日が照って暑くなってきた。駅を降りてしばらくは陰っていて、いい感じだったのに、やっぱりか。

右手が宅地造成中で、家々かマンションかが建つのかなと思われた。隅っこには小さな池。その向こうには旧家がいっぱい見えていて、古い集落だと思われた。地名は万町で、万町と言ったら契沖も滞在したという伏屋のいたところだな。

同じ和泉市の中、信太山の南あたりに伏屋町があり、そこで知ったことには伏屋町は、和泉国池田郷万町村の庄屋、伏屋が開発した新田だったところ。伏屋さんは酒造業などもしていて、有名なのは伏屋素狄。医学を学び、「日本実験生理学の祖」と呼ばれる人らしい。

万町の伏屋さんのうちには蔵書なども豊富で、「国学の祖」と呼ばれる契沖も滞在して書物を読んでいたことがあるってことだった。


道なりに進むと道は下って行き、万町北1号交差点で223号線に戻った。しばらく223号を進んでいった。

室堂大橋(全然大きくない)で越えたのは槙尾川。黒石の方から流れてきて、大津川に注ぐ川。前に歩いた三林の穂椋神社跡あたりを流れていた。

川は田舎の感じなのに、左手には車がごうごう走っていて、妙な感じだった。国道480号線と交差する室堂町北交差点で右折。

この道は大津街道らしくて、大津街道をずっと南下して行くと池田春日神社にたどり着く。

1つ目の信号を越え、右手のシャトレーゼも越えたところに右手に分岐する道が現れた。この道をジグザグしながら南下していくのが大津街道だった。

その入り口には大きな旧家(津村さん)と地蔵堂があって、地蔵堂には1mくらいのお地蔵さんがいた。

町内の掲示板には「ホウ酸だんご」づくりの講習会のお知らせがはられていた。

古くて面白い一帯で、うろうろと歩き回った。迷路みたいな路地、そこに並ぶ旧家、旧家、旧家。藤原さんがいっぱいだった。

ぐるぐる歩き回った後、大津街道の続きを歩くと、次には横田さんが多かった。

じぐざぐ道の途中、じぐざぐ曲がらずに直進していった行き止まりあたりに灯篭が見えて行ってみると、個人宅の庭先の灯篭で、目の前には山と水田が広がっていた。田植えのすんだ水田は美しかった。


右手に室堂会館が現れた。室堂町は前に父鬼街道を歩いたときにも通った。

その時は南大阪変電所近くの幹線道路を通っただけで分からなかったけれど、こんなに古くて面白いところだったんだな。

泉北ニュータウンは谷にまとまってある古い集落はそのままに、ほぼ未開の丘陵部だけを開発していったそうだ。このあたりは槇尾川がそばを流れる谷間で、それで万町、室堂町なんかは古いまま残っているんだな。

森光寺(真言宗)があった。かつては大きな寺院だったのだって。境内には、地蔵の並んだ一角、石仏のずらりと並べられた一角が隣りあってあった。

その石仏の感じが、独特だったな。元の場所から動かされ、外ではどんどん時代が移りすぎていっていることを知らないみたいに、昔のままの雰囲気をたたえていた。

そして、もう少し行ったところには牛舎みたいな建物があり、本当に牛舎だった!

牛たちがおとなしくいっぱいいた。顔だけでわたしよりよっぽど大きかった。耳にはナンバーを書いた黄色い札が取り付けられていた。

ここからしばらくは紀之定さんだらけだった。

森光寺でもひときわ目立っていた、あまりにも古そうな地蔵が紀之定さんの寄進だったような。かなり大きな旧家も紀之定さんだった。でもやっぱり藤原さんや横田さんもまだ多かった。

前に父鬼街道歩きで通った納花のうけを思い出させるようなところだった。古く、静かでありながらただものじゃなさを感じさせるような。それもそのはず、納花町はこのすぐ南だった。


それから古い感じがなくなり、右手は低くなっていて、ここは池の堤とかだったところじゃないかという気がした。

また少しだけ古い家も点在するようになり、井上さんのおうちが多かった。

鹿之辻地蔵のいる辻に出て、ここは前に歩いたことがあった。父鬼街道を南下していったときだった。ここは父鬼街道と大津街道との辻だったんだな。

和田町交差点で国道480号線を越えると、今来た道の続きが国道の左手に分岐していて、そちらに進んでいった。

左手に和田金刀比羅神社の案内が現れた。ついでだから行ってみよう。

左折して案内の方向に行ってみるとつきあたりで、その先の案内はなかった。ここは右だろうと右折すると、すぐに左手の上り道の先に鳥居が見えた。階段を上っていったところにある小さな神社だった。稲荷もあった。

いいところだったろうと思われた。山の中にあって、かつては海の方まで見えていたんじゃないかな。西を向いていて、その西側には低地が続いていた。大昔には、岬だったようなところだった。

右隣には一段低く小さな児童公園があり、左隣には一段高く、なにかと思えば光明池自動車教習所だった。神社の横をゆっくりと練習中の車が通っていった。

北から東にかけては、すぐ近くに光明池があるようだった。

そして役行者かと思われる人の像が祀られた祠は、石室っぽかった。説明の類は何もなくて、よく分からなかったのだけれど。

説明の代わりに、注意書きはいっぱいあった。前に歩いたあたりでは賽銭泥棒対策に「防犯カメラ」のステッカーがいっぱいだったけれど、ここではいろんな文言が書かれた紙がいっぱいだった。「必ず天罰がくだります」とか書かれてあった。


金刀比羅は金毘羅こんぴらとイコールかと思っていたのだけれど、「ことひら」とも読むらしい。

香川の琴平にある金刀比羅宮に始まるのだって。金刀比羅宮の創建については不詳。大物主を祀る海運の神様だったのが、仏教のコンピラと習合したのかな?とかいわれているみたい。江戸時代に大流行したそうだ。

ここもそれで江戸時代に勧請されたのかもしれない。けれど石室(?)といい、裏には光明池があったり、周辺には和田や納花や三林や、古くてただならぬ感じの集落があったりもして、以前からなにかの神が祀られていたところって感じがした。

この近くにも藤原さんのおうちがあった。前に行った黒石もそうだったし、室堂も(あと万町、国分町なども)藤原さんだらけだった。あの藤原さんの子孫なのかな。

藤原不比等の妻、美千代さんの実家の県犬養家は和泉が本拠地だったとかいう。

美千代さんが不比等との間に産んだ光明子は和泉の生まれだという伝説もあるし、美千代さんが最初の夫(美努王)との間に産んだ橘諸兄は、和泉に行基が久米田池を造成するのに尽力している。

美千代さんを通じてか和泉に縁ができたか、和泉郡池田郷は後には藤原氏の荘園だったらしい。池田郷は、万町、和田、室堂、納花、黒石、三林なんかの一帯。

池田郷にあった式内社が穂椋神社(祭神はアマテラスの息子、アメノオシホミミ)。


元の道に戻って、続きを歩いていった。また牛の匂いがするような気がした。

このあたりにも大きな旧家がぽつりぽつりとあった。そしてその合間には、昭和の頃に建ったようなおうちがずらりと並んでいた。藤原さんのお宅も混じっていた。

少し前までは田畑と旧家ばかりだったのかな。今も畑が宅地に造成されていて、分譲中の旗が立っていた。

だんだん田舎めいてきて、今も田畑が残る、その水田の向こうに「ツムラ三林工場」と書かれた建物が見えてきた。

とってもレトロな建物だった。黒いのこぎり屋根の。ノコギリ屋根といえば古い時代の繊維工場。ここは繊維工場だったところが薬品会社に買われたとかかな?と思ったら、薬品会社ではあるけれど、そのうちの包帯とかガーゼとか、繊維製品をつくっている工場らしかった。

左手の掲示板に「6月8日樋抜き 三林水利組合」とあった。樋抜きって、池から水路に水が流れるのをせき止めるための板かなにか(樋)を、外して水を通すことかな。

6月8日はすでに過ぎていて、それで田に水が入って水田になり、稲も植えられているんだな。若い稲の並んだ水田が美しかった。

この掲示板の手前を左折すれば観音寺だったようなのだけれど、そのまま直進。

右手にずーっと白塀の続く大きな旧家があった。庭が森みたいになっていた。横は水田で、カマキリの卵かな? 植物になにかくっついていた。

左手に観音寺の参道が現れて、少しバックして観音寺へ。周辺には辻林さんのおうちが多かった。

辻林さんって和泉に多い名前らしく、平安時代に国司からもらった名だと伝わるそうだ。和泉でも特に三林に多いのだって。


観音寺は小さなお寺で、お墓や地蔵も一緒にあった。辻林さんを中心とした小さな集落の中心だったのだろうな。その頃のままを残したようなところだった。

元の道に戻って、続きを歩いていった。静かなところだった。左手の森から鳥たちの声が聞こえるだけだった。その左手に向かう道が魅力的で、行ってみると、ここも辻林さんだらけだった。山へと道は続いていた。山の中の畑とかに続く道なのかな。

元の道に戻り、道が2つに分かれると、左手に。この一帯はボロ屋(古い空き家かな)なんかもかなり残る古いところで、右手の道も面白そうだった。

左手に三林町会館が現れた。

前に歩いたことのあるところだった。北上してきて、この三林町会館から東に向かう坂道を上っていった。その日は暑くて、のどがからからで、坂道の途中の自動販売機で水を買った。その自販機が坂の途中に見えていた。

あの日、今来た道を、この道も面白そうだなあと見ていた。確かに面白かった。大津街道だったんだな。

大津街道は泉大津と河内長野を結ぶ街道だそうだ。

泉大津は滋賀の大津と同じく、古代からの湾港だったところで大津と呼ばれ、滋賀の大津と区別できるように「泉」をつけて「泉大津」としたのだって。

河内長野も長野と区別できるように「河内」をつけているけれど、長野県の長野もこちらの長野(河内長野)が発祥ともいわれるくらい古くから長野だったところで、その2つを結ぶ街道は、きっと古代からあったのだろうな。

大津の港に船をつけると、大津川、槙尾川とさかのぼり、天野山を越えて河内長野に入ったのかな。それが今の大津街道になったのかな。

天野山には大きな寺社(金剛寺)もあって、前に行った時には、こんなど田舎になぜ寺が、と不思議なくらいだった。行基が開き、空海もやって来たというところ。南北朝時代にもあれこれあった。

古代からの交通の要所だったなら不思議じゃなかった。

天野山からは天野川(今の西除川)も流れていて、かつては住吉大社の方まで流れていたのじゃないかな、と思う。

住吉大社、天野山、大津、みんな川でつながっていたのだろうな。

そこにいたのは、ワタツミの子孫たち(和泉の八木の八木氏など)、大物主の子孫たち(陶邑のスエツミや、その子孫など)、アメノホアカリの子孫たち(津守氏など)、アメノホヒの子孫たち(石津連など)、ツヌコリの子孫たちなどなど。

いろんな有力氏族が住み、関係をもっていたのだろうな。大阪湾の一帯は海の民たちの行きかう都会だったろうな。


三林町会館からしばらくは前に歩いた道だった。前方には山が見えていた。

この先に池田春日神社。12代景行天皇のたくさんいた息子の一人、オオウス(ヤマトタケルの兄)の子孫が住み、池田氏を名乗ったのが全国の池田氏の発祥とも言われる一帯の山麓部に鎮座し、境内には三林古墳群がある。

左手に池が現れた。曇予報のその日、やっと空が曇ってきていたから元気になっていて、池を周遊した。

小さな池だったけれどベンチなどが置かれ、遠くの山々がよく見渡せた。北から東にかけてみんな山だった。

池の横は古い繊維工場らしき建物だったかな。池を過ぎ、池田春日神社が現れる前に左折した。神社の裏からせめてみようとか思って。

だんだん高くなっていく水田の中の道だった。その年初めてのトンボを見た。ウグイスも鳴いていた。うっそうとした木々の間の坂を上ると農道につきあたった。ここを右折。

右手に池。その手前、神社が藪の向こうに見えていて、ここから神社へ。

前回、神社を出てから住宅街をけっこう歩いたところにも神社の所有地が残っていたりして、元は一帯が神社地だったのだろうな、と思った神社だった。

本殿裏と参道脇に古墳があるらしい。

けれど本殿裏は藪だったり、ふかふかの土だったりで思うように進めず、ここで古墳を見つけることは断念。本殿裏を探索するのは少々気が引けたし。

参道脇の古墳を探そうと参道へ。けれど参道脇では木々が切られているところで、切られた木々が積まれていて、ほぼ何も見えなかった。

鳥居まで参道を進んだところで、参道脇に「三林古墳群」とあった。けれど、ここにも切られた木々があって、近寄れなかった。奥の方に、横穴が1つだけ見えていた。

三林古墳群は古墳時代後期、多くの人の墓が横穴式でいっぱい作られたっていう時代のもので、かつては周辺に100くらいもあったそうだ。多くは壊されたけれど、今も神社境内にはいくつか残っているのだって。

せっかく来たけど時期が悪かったなあ、と神社前の道を南に進んでいった。前に歩いた裏参道が現れた。山と田の、なんだか大阪とは思えない光景だった。

右手には黒々と山々が見え、畑ではカラスの子が3羽、兄弟なのか遊んでいた。ちょっとしたタイムスリップ気分だったなあ。

道は信号に出て、いきなり都会になった。車がいっぱい走っている。

ここを左の上りを行くとニュータウンで、右に行くと前に歩いた黒石大橋。下に谷間の集落があった長い橋。別の日にはその「下の集落」も歩いた。

ここを直進していった。左手に久住織布。白く塗装されているけれど、元はのこぎり屋根の古い繊維工場だったらしかった。

藤原さんや久住さんの大きな家があった。そして辻に出て、ここをまっすぐ行くのが大津街道だった。

けれど気になっている黒石に行きたいから、左手の「男縄池新設」の碑のあるほうに進んでいった。

鴨ふれあい農園の案内の出ているところ。

ここまでは前に歩いたことがあったけれど、この先は初めてだった。この先が黒石の古い集落。

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