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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
16/46

西出町と海の豪商たち

湊八幡に面した広い道を高速に向かって南下していった。

阪神高速の下を七宮交差点でくぐると、その向こうには大きな看板がいっぱいだった。その看板の向こうが七宮神社だった。

生田裔神八社の1つで、けれどここだけ祭神がおかしくてオオナムチを祀っているというところね。

けれど実は、ここを訪れたときにはまだ何も知らなかった。生田裔神八社のことも知らなくて、神戸には一宮から八宮まであって、そのうちの1つが三宮だということもここで初めて知った。

高速下で窮屈そうな神社だった。神社より社務所が大きくて立派だった。

ここも空襲で燃えてしまったのだって。八社の1つとされているけれど、元は北風家なる神戸の名家が会下山に祀っていたといわれているそうだ。会下山はここから北西に1kmくらいのところ。

じゃあ本当は七社だったのかもしれないんだな。


神社の東側の西出町歩道橋を渡って東へ。ここも広い道で、信号も小刻みにあったけれど、車も人もあまり通ってはいなかった。いちいち信号待ちするのが無駄に思えるくらい。もっと人通りが多くなることを想定してつくられた道路なのかな? それともかつては多かったのかな?

すぐに右手に竹尾稲荷が現れた。小さな神社で、高田屋嘉兵衛なる人の生い立ちなどが大きく書かれていた。

江戸時代に伏見稲荷から地元の人たちが勧請したのかな。元はもっと大きかったのかな。

そのまま進むと、すぐのところに「本店の地」とあった。ここに高田屋嘉兵衛の商店があったそうだ。

高田屋嘉兵衛なんてわたしは知らなかったけれど、「海の豪商・高田屋嘉兵衛」として説明されていた。

淡路島生まれの人で、24歳のとき、兵庫にやって来て船乗りに。叔父が廻船問屋の堺屋喜兵衛で、そのつてだったそうだ。

たちまち頭角を現し、北風家の後援もあって、4年後には北前船の船頭に。

最初は雇われ船頭だったけれど、船頭は積み荷の10%分を自分のものにできるとか、儲けの一部をもらえるとか、才覚によってはいくらでも儲けられたみたい。

後援したという北風家は、七宮の北風家。古代からの神戸の名家で、当時は諸荷物問屋の豪商として、七宮の南あたりに住んでいたのだって。

嘉兵衛はやがて自分の船を持ち、廻船問屋となって、ここに本店を置いた。函館には支店も開設。

蝦夷に詳しいというので依頼され、クナシリ・エトロフの間の航路(千島航路)を開拓。ついでにか、現地に漁場を量産して、現地のアイヌ人たちに漁を教えたのだって。どんどんニシンを捕ってくれよ、というわけかな。

ニシンを原料にした肥料は復路に載せる主要品目で、いくらでも売れたそうだ。

こうして嘉兵衛は北前船交易で「海の豪商」に。このあたりは入江になっていて、ずらりと嘉兵衛の蔵が建ち並んでいたのだって。

晩年は故郷の淡路島に戻り、59歳で亡くなった。

「蝦夷の開拓」の他、「らち」とか「日露問題解決」とか説明されていた。初めて聞くことばかりで、あまりよく分からなかったけれど、なんとなくだけ分かったことを書いてみると、こんな感じかな?

まだ日本が鎖国政策を行っていた時代、ロシアとかは貿易しようとせっついてきていた。日本はNO! 日本に入ってくることもお断りしていたのだけれど、とあるロシア人(名はゴローニン)がクナシリに入ってきて、役人によって捕獲。海軍の艦長だったみたい。

ゴローニンの上官は助けようと奔走。けれど状況もつかめない・・・ってところに現れたのが嘉兵衛の船。上官は嘉兵衛たちを捕獲。嘉兵衛は穏便に交渉して解決にもっていけるように手を貸したのだって。


そのまま進み、西出町についての説明板などのある交差点へ。右(南)には、200mで「神戸港(浮ドッグ)」とあった。浮ドッグって、船の修理のための施設みたい。修理のために船を浮かせるんだな。

うーーーーとサイレンが鳴った。後でも聞こえていたんだけれど、これは作業開始の合図なのだって。

ここを左折して北上。

このあたりの案内の地図で見たのだったか、横溝正史の生誕地もこの近辺のようだった。あと、工楽松右衛門の顕彰碑も。

工楽松右衛門は高砂の漁師の子で、兵庫に出てきて船乗りに。そして高田屋嘉兵衛と同じく、北風家の後援もあって船主となって独立。

当時使われていた帆は、むしろなんかで作ったものだったんだって。工楽松右衛門はもっといいものにできないかと試行錯誤。北風家の番頭、喜多家で研究をしたのだって。

北風家の北風は喜多風とも書き、その番頭など主力メンバーは「喜多」を名乗ったそうだ。散歩していると、あちこちで表札が喜多さんの旧家を見るけれど、もしかすると北風家の番頭だった人の子孫とかも中にはいるのかな? 主力メンバーだった喜多さんは、多くが港近くに移り住んだとも言われるのだって。

松右衛門さんは、当時よく栽培されていた綿花からつくる木綿を使って、丈夫で扱いやすい帆をつくることに成功。

「松右衛門帆」はたちまち全国に広がって、松前船交易が盛んになったのも、この帆のおかげというのもあったそうだ。たしかにむしろで交易はたいへんそう・・・。

松右衛門さんは、函館やエトロフの港の整備も幕府の依頼で行っていたのだって。

そして函館で使っていた土地を高田屋嘉兵衛に譲渡。生まれたのが松右衛門さんは1743年、高田屋嘉兵衛が1769年で、若い有望な良い男に、古い良い男が譲ったんだな。


江戸時代、北海道には松前藩がいて、先住のアイヌを北に押しやり、交易で儲けていたそうだ。自由に暮らしていたアイヌに、松前藩としか交易してはいけないと強いて、不平等な交易を行っていた。

他にも自由を奪われて、アイヌは蜂起。シャクシャイン(アイヌのリーダーの名前)の戦い(1669年)などが起きたものの、アイヌは敗れ、どんどん搾取されていった。

松前藩では給料は米ではなく、交易するための土地などで与えられていたらしい。そのうちその土地を商人に貸して、ピンハネして利益にするようになったのだって。

その商人の一人が工楽松右衛門であり、高田屋嘉兵衛であったのかな。

アイヌの人々はニシン漁などに従事させられるようになっていったそうだ。そしてそのニシンを大量に煮て肥料を作るために、森林伐採もひどかったそうだ。

高田屋嘉兵衛はアイヌの人々とも公平に交易し、漁場を作り、アイヌの人々に漁を教えたそうだけれど、見方によってはそういう側面もあったんだな。


北上していくと、このあたりは、少々だけ「さびれた港町」の感じがあった。海に向かって真っすぐのびた道路、その横の背の低い商店や家家。

左手に古いレンガ塀の建物が見えた。大松邸だって。古くは倉庫だった建物らしい。説明によると、このあたりに「サカエ薬局跡」もあるらしかった。

「サカエ薬局」はダイエー発祥の地と説明されていた。前に行った千林商店街がダイエー発祥の地だったと思うのだけれど。

調べてみると、ダイエー創立者は中内功氏。大正11年、大阪は伝法の生まれ。出征していたフィリピンで終戦を迎え、マニラで捕虜に。

奇跡的に帰ってこられた実家が、ここにあったサカヱ薬局だったそうだ。父は今の大阪大学薬学部を出ていて、薬局をしていたらしい。

功青年はその後、しばらく薬関係の仕事をしていたみたい。そして「主婦の店ダイエー薬局」を千林に開店。・・・やっぱりダイエー発祥の地は千林だな。


そして道路の先に松尾稲荷が現れた。

境内には、建物の中に、所狭しと小さな神様がいっぱい祀られていた。伏見稲荷のミニチュア版、かつ室内版って感じだった。ちょっと怪しい感じもした。

一番奥の方に日本最古老のビリケンがいた。戦前につくられたそうだ。ビリケンというか、山伏みたいだった。

周囲は商店街だったような名残があったけれど、なんだか廃れ果て、ディープな感じが漂っていた。

今は小さな港町のような町だけれど、江戸時代には近くを湊川が流れ、兵庫津があって、「海の豪商」たちがいた、そんなところだった兵庫は、明治時代になるとすぐ近代造船業が盛んになったそうだ。

昭和初期には川崎造船所や、南の和田岬には三菱神戸造船所があったそうだ。

川崎造船所の正門から新開地へ向かう一本道がこの北にあり、「新開地通り」といって、おおいに賑わったのだって。

新開地は旧湊川を埋め立ててできた新しい町。当時は繁華街で、映画館も建ち並び、淀川長治って人もこのあたりで生まれ育ったのだって。

その少し先には遊郭のある福原もあって、新開地通りは朝夕、工員さんたちであふれかえっていたそうだ。特にJRの向こう側。そこには今も商店街があるらしい。

繁華街だった新開地だったけれど、市役所が三宮に移転し、市電が廃止され、川崎造船所もよそに移転して縮小。さびれていったのかな。

松尾稲荷そばの建物などもちょっと怪しい感じがあった。元はこのあたりもちょっとした風俗街だったんじゃないかと思われた。

神社前を東に向かい、すぐの信号を左折。堤みたいにちょっと高くなった道だった。ここが新開地通りかな。

湊町一丁目交差点で高速下に戻った。七宮神社の北2~300mのところ。

近くには蛭子神社があって、ここにもちょっと行ってみた。赤いフェンスの中、高いところに小さな本殿があった。北にはビルが見えていたけれど、このあたりにはぼろ屋もあった。

詳細は不詳。川崎造船所の拡張でここに移転してきたそうだ。

高速下を過ぎると、高速沿いを左へ。七宮方面へ戻っていった。七宮神社までの短い間にもいくつか神社があって、寄りつつ七宮へ。


まずは西出町鎮守稲荷神社。チヂミ神社とか、ちぢみさんとか呼ばれているそうだ。なんでだろう? または「西出のお稲荷さん」。

高田屋嘉兵衛が淡路島に引退したのちに献上したという石灯篭があった。拝殿の中にはビリケンもいた。ここのビリケンさんも戦前のものなのだって。

神も仏もいっしょくたに受け入れちゃうところがかつての日本だったそうだけれど、ビリケンもかあと面白かった。

高速の下あたりにあり、小さくなっているようだったけれど、なんだかいい感じの神社だった。創建については不詳らしい。

神社を過ぎて右折。三叉路があって、右手に鳥居が見えていたのは猿田彦神社だった。ここには「佐比江の入り江」とか「船入り江」とか書かれていた。

佐比江は内海といっていいような大きな入り江になっていて、七宮神社の北まで海が入り込んでいたのだって。入り江になった浜の、鍛冶屋町に北風家が、西出に高田屋が蔵を連ねていたのかな。

説明によると一帯は花街で、白川(須磨区)の山伏山神社(祭神は猿田彦)から、とある遊女が勧請したのだって。

兵庫が北前船寄港地などとして栄え、花街ができあがっていったそうだ。港に花街はつきもので、江戸時代、このあたりでは佐比江と柳原に花街があったのだって。

それから明治時代、神戸港ができて、宇治川下流に遊郭がつくられた。今のハーバーランドあたりだって。

宇治川って湊川神社の東、西元町駅あたりを流れる川みたい。かつて一帯は宇治と呼ばれていて、八部郡宇治郷だった時代もあったらしい。

けれどそこに神戸駅ができることになり、遊郭は移転。移転先は旧湊川堤防の東側で、それが新しい福原遊郭。後には、近くの新開地と共に、川崎造船所の工員さんたちが遊びにくり出す盛り場だったところね。

戦後には福原は赤線となったそうだ。GHQの指導で娼婦はみんな廃止となったけれど、それは名目上のことで、見て見ぬふりをするって暗黙の了解だった地域があり、そこを分かるように警察が地図上で赤い線で囲っていたとかいなかったとかいうところ。

神戸には他にも多数の花街があったんだって。福原と同じ頃にはやっていたところとしては花隈とかも。

佐比江は今では全く花街の名残もない、ただの住宅地だった。神社には創建についての説明書きもいくつかあり、古い方の説明では清盛が創建したという話になっていた。

平清盛は日宋貿易でこのあたりを拠点としていて、最初は和田京をつくろうとし、次には福原京をつくろうとして、実際に福原に遷都したこともあるのだって。その頃のことね。

清盛さんはクーデターを起こして政治の実権を握り、小さな自分の孫を天皇にしたり(安徳天皇)、福原に遷都したりしたそうだ。勝手をし過ぎたか反感をかい、以仁王、源頼朝、木曽義仲らが立ち上がり、源平合戦に。

清盛さんはすぐに都を京都に戻し、立ち直りをはかるも病死。福原は木曽義仲に焼かれ、間もなく平家は滅んでしまった。


ここまで来ると、湊八幡神社が近かった。

このあたりは、ごうごう道が走る、広い道だらけの都会のただなかだった。神戸って感じは全くなかった。船舶印刷ってところがあったり、自転車の人たちが中国語でしゃべっていたりするのが、少々それらしくはあった。

高速下の2号線を渡ると、右折して少し西へ。マクドの手前を左折。ここが湊八幡から続いている西国街道ね。ここを南下していった。

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