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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
15/46

西国街道を三宮から

それから西国街道の続きを歩きに行った。

かつては大阪から西国に向かうメインルートは中国街道だったそうだ。秀吉さんの頃には伏見から大阪へ、大阪から西国へ。けれど徳川家康が大阪を経由するのを嫌ったかなにかで、大阪を通らずにもう少し北を通る、軍用道路として形成されていた道をメインルートに決定したのかな。今まで散歩してきて知ったことを犬なりに解釈するとそんな感じ。

それが西国街道。西国街道には灘あたりではもっと浜側を通る脇道もあって、それが西国浜街道。

親王寺あたりから山側を歩く本街道と、浜側を歩く浜街道に分かれて、三宮でまた一つになって西に向かっていく。本街道も浜街道も西に三宮まで歩いたので、一つになった三宮からの続きを歩くことにした。

天気予報は曇のち雨。

曇と言っても朝からの降水確率は40%。夕方頃には80%の確率で降りだすでしょうってことだった。

6月のその日、最高気温の予報は24℃ほどで、雨が降っても暑いよりはましだからな、と、おかあさんは折りたたみ傘を持って家を出た。

想定外にむしむしと暑い中、神戸三宮駅(阪神本線)を西出口から出て、そごう方面へ。

そごうと車道を挟んで向かいにある三宮センター街を西に向かった。

センター街はまだオープン前のお店も多くて、広いアーケードの中心あたりに業者の車が一列にずらりと並んでいた。前に通った時は夕方前で賑わっていたけれど、また違う顔だった。

いくたロードと交差して、前回はここを右に、生田神社に行った。今回は左へ。こちらが西国街道らしい。

生田神社の鳥居を出て、進んでいった。すぐ道は行き止まり、目の前には大きなホテルが建っていた。地図によるとここから南は旧居留地なのだって。

江戸時代、長く鎖国政策をとっていた日本。安政の時代、海外との交流を久々に再開することになった。

けれど不慣れだったからか、結んだのは不平等で有名な修好通商条約。相手はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランス。その後もいろんな国と同じような不平等条約を結んだ。

そして一部の港と都市が条約の相手国に対して開かれた。横浜、長崎、函館、新潟、神戸、あとは大阪など。

開港となったら、貿易を行う外人さんたちが住み暮らし、外国の商館もいっぱい建つことになる。それが居留地ね。

このあたりは港からも少々離れ(神戸港はもっと西にあるみたい)、ど田舎だったところで、あえてここを居留地とし、土地は外国人に競売にだされたのだって。前に行った大阪の川口居留地もそうだったな。

そしてここには、多くのおしゃれな洋館が建ち並ぶようになった。居留地時代の古い建物は、けっこう残っていたそうだ。けれど、神戸空襲、神戸・淡路大震災でほぼすべてなくなったのだって(一部再建はされている)。

代わりに「神戸旧居留地」として、区画は当時のままでおしゃれな街になっているみたい。

ホテル前を右折して、西に向かった。暑くなっていた。曇りで、最高気温は24℃って言ってなかったっけ? 日は照りつけて、すでに24℃を超えていそうだった。

左手に大丸が見えていた。居留地40番地だったところらしい。


大丸の手前の交差点に三宮神社があった。祭神はアマテラスの子(一般的な「子」ではないけど)、タキツ姫命だって。宗像三女神の一人。創建など詳細は不明。元は矢田部神戸村にあったのだって。

ここは明治維新の頃まではうっそうとした森だったそうだ。けれどこの南が居留地となって、異常な発展を遂げたのだって。

ここの地名が三宮になったのは、この三宮神社があるから。そして三宮神社は、生田裔神八社の1つ。

生田神社の裔神社(末神社)が8つ、生田神社を取り巻くように存在しているらしい。それぞれ「一宮」「二宮」「三宮」と「八宮」まで。ただ六宮は道路拡張のために取り壊され、八宮に合祀されているそうだ。

神功皇后が三韓征伐からの帰り、広田神社や生田神社などを祀ったのと同じ頃に、アマテラスの子である八神を裔神八社に祀ったとも言われているそうだ。

アマテラスの子と言うか、スサノオとアマテラスの誓約で生まれた8人の子どもたち。宗像三女神と5人の男の神をそれぞれに祀って八社・・・のはずなのだけれど、5人(本当は5柱ね)の男の神の一人、イクツヒコネが欠けていて、代わりに「七宮」にオオナムチが祀られているのだって。

オオナムチって、アマテラスに国を譲ったオオクニヌシの若き日の名前だとされている。

イクツヒコネは、よく分からない人。一説には「生島神」もこの人だとか、「生野」の地名もこの人と関係している、とかともいわれるらしい。地元の生根神社も祭神は少彦名スクナヒコナだけれど、元々はイクツヒコネだったのかもって説もあるそうだ。根拠は多分、名前ね。

イク-ツ|(~の)-ヒコ(男)-ネ(尊称)で、イナツヒコ、キビツヒコなんかと同じく、イク地方の王的な人を指す名だったのかな。

イク地方って、大阪湾岸にあったのだろう。大阪にも生根神社や生野神社やイクタマさんがある。イクタマさんは正式には生國魂いくくにたま神社。生島大神と足島大神っていう正体不明の神を祀り、創設は初代、神武天皇だとも言われている。

生田神社のイクもイク地方のイクで、アマテラス(もしくはその妹)のことだとされている祭神ワカヒルメも、実はイクツヒコネにかかわる誰かなのじゃないの?とか思った。

生田神社の元々の祭神がイクツヒコネとその妻だった、とかなら、その裔神にイクツヒコネがいないのも分かる。


三宮神社には神戸事件についても書かれていた。神戸事件は三宮神社前で起きたのだって。

明治新政府より西宮の警備を命じられた備前藩。時は慶長4年で、慶長4年のその年は、年内に明治元年になった年でもあった。

新しい時代をつくろうとしている薩長なんかを中心にした王政復古グループ(幕府ではなく、かつてのように天皇に、主権のある国をめざした明治新政府)と、幕府との間で戦い(戊辰戦争)の起こっていたとき。

尼崎は幕府側で、そのおさえとして、備前藩が西宮に配置されることになったらしい。

備前藩は西国街道を通って西宮に向かっていた。三宮神社あたりで、その大名行列を横切ろうとした外国人水兵二人。

大名行列を横切るのは当時御法度で、制止しようとしてもみ合いになり、あれやこれやで銃撃戦に。

西国街道のすぐ南側が居留地の予定地(今の神戸旧居留地)で、各国のお偉いさんたちが視察に来ていたそうだ。それで水兵や海兵隊もいたみたい。

少し前にも武蔵で同じようなこと(生麦事件)が起きていたから、衝突を避けるために、もっと山側を通る徳川道を幕府は通して、大名行列が居留地を迂回するようにしていたらしい。けれど、みんな西国街道を通っていたのだって。

備前藩はこれはやばいと撤退。けれどすでに時は遅し。大問題になったそうだ。

結局、最初に横切ろうとした水兵を槍で制止しようとして、軽傷を負わせてしまった侍が永福寺で切腹。

それでけりをつけた(?)のだって。

その後、第二次世界大戦のとき、三宮神社は焼失したそうだ。神戸空襲でだろうな。そして再建。


続きを進んでいった。大丸を過ぎると、元町通1丁目交差点。

ここを左(海側)に行くとメリケン波止場だったみたい。居留地だった頃、神戸港第3波止場があり、そばにはアメリカ領事館があったので「American」⇒メリケンとなったのだって。

直進の道には、アーケードのある元町商店街が続いていた。

この長い元町商店街を西に進んでいくのが西国街道だった。けれど少し南には南京町があって、長安門から西安門までは南京町を歩いた。

食べ歩きできる飲茶のお店や、定食屋、食べ放題のお店が多かったかな。定食屋と食べ放題は普通の価格だったけれど、食べ歩きにいい、単品で買える飲茶はめっぽう高かった。

時間帯もあってか人はあまりいなくて、通り過ぎるのは中国の観光客らしき人が多かった。

神戸港が開港され、居留地ができたころ、中国は清国だった。清との間には条約を結んでいなかったから、清国の人々は居留地には住めなかったのだって。

けれど、条約相手国である国から船でやって来る外国人たちは、途中立ち寄った清国からの商人を連れてくることが多かったそうだ。自分たちは漢字に不慣れだから、清の人を連れて来たかったのかな。

居留地に住めない中国の人たちは、居留地の西に隣接するここに住み暮らしたのだって。居留地に住む外国人の雇った外国人は、居留地の近くに住むことが許されていたらしい。

その後、中国との間に条約が結ばれると、華僑の人々が独自にやって来るようになり、北野あたりに多く住んだのだって。

後に神戸大空襲で南京町は全焼。戦争が終わると進駐軍がやって来て、南京町は「闇市とパンパンの町」になったそうだ。

今の南京町は、「中華色の強い商店街」って感じ。


南京町を西安門まで歩くと、一本北のアーケードのある元町商店街に戻って、西に。

興味深いお店がいろいろあった。ちょっと個性的なお店が多かったかな。靴屋さん、かばん屋さん、ごはん屋さんなんかが多かった。

アーケードがずっと続いて、日陰で涼しいのがなによりよかった。

放香堂ってところは「日本最古の加琲店」とあった。天保時代創業の京都のお茶屋さんらしい。明治維新の頃、元町でコーヒーも取り扱っていたのだって。そして最近になって「日本最古の」珈琲店としてコーヒーショップを始めたみたい。

他にもレトロな元町映画館があった。動く恐竜がいて、びっくりした。右に行くと花隈駅と案内があった。花隈って、花隈城の花隈だろうな。荒木村重が一時いたお城。

老祥紀(豚饅)があって、左手に走水神社の案内が現れた。走水と書いて「はしうど」だって。はしうど(間人)氏が住んでいたとも言われるらしい。けれど詳細は不明。元町の天神さんとも呼ばれ、かつて菅原道真がここにやって来たことがあると伝わるそうだ。

神戸も尼崎と同じで、詳細は不詳ってところが多いな。

ちょっとレトロなお店が多くなり、右手に西元町駅の入り口があって、商店街が終わった。

大きな里程元標のある緑地を抜けて、そのまま直進。JRの高架下を通った。

高架下は左側は新しくてきれいなのだけれど、右側は昭和の感じで、ごちゃごちゃといろんなお店が並んでいた。左手にはすぐ神戸駅で、駅周辺から工事して、高架下をクリーンにしていっているようだった。

このあたりは最近変わってきたところなのだろうな。もう少し前には、大阪の環状線あたりに似たところだったのじゃないかと思われた。

この道をそのまま行けば、湊川神社だった。


湊川神社は楠木正成を祀る神社らしい。寺みたいな構えで、中はたいそう立派だった。国策の匂いのする立派さ。

ときどき、名も知らずにいたけれど、古い歴史のある立派な神社にであう。その一部は、天皇や忠臣を祀った神社で、一昔前、国威を示すためにお金をかけたなって感じがした。ここもそんな神社に思えた。

神社の前の通りは多聞通りだった。楠木正成の幼少期の名が多聞だったらしい。

湊川の戦いで楠木正成はこのあたりで亡くなったのだろうってところに、尼崎藩主となった人が墓を建てたそうだ。そして楠木正成の勤皇ぶりを理想とする水門光圀が墓の前に碑文をたてた。

それが今もたっていた。光圀公の碑のたつ楠木正成の墓に参っているんだな、っていうのが不思議な感じだった。

墓所は、光圀公が碑文をたてたことで有名になったそうだ。けれどまだその頃は小さなお墓でしかなかったそうだ。その後、郡家の大庄屋、平野さんが近辺の300坪以上の土地を購入し、尼崎藩に献上。郡家の大庄屋、平野さんって、御影駅近くの弓弦羽神社で知った人かな? 神社になり、その後もさらに立派になったのだって。

王政復古を願う義士たちにとっても楠木正成は目標とすべき人で、松田松陰なども参っているそうだ。松田松陰は塾にも楠木正成の像を置き、弟子たちにその志を教えたのだって。


湊川の戦いってどういう戦いだったか、改めて調べてみた。

政治の実権を握ろうとした後醍醐天皇。家臣とした楠木正成や足利尊氏、新田義貞たちの戦いで鎌倉幕府を倒し、建武の新政を始めた。けれど鎌倉幕府を倒すのに力を貸した武士らを全くないがしろにしていて、武士たちの不満が高まり、ついに足利尊氏が反逆。

けれど敗色濃くなり、足利尊氏は九州に逃げたのだって。そしてそこで戦力をたてなおし、京へ向かった。尊氏に同調する武士は幾多いて、京に向かう間にも味方は増えていった。

尊氏軍は陸と海から進撃し、新田義貞軍が防ぐも神戸まで退却。そこで楠木正成らが呼ばれ、天皇や公家から神戸で新田と共に戦って来いと言われた。

楠木正成は京あたりまで尊氏軍を進ませて、そこで兵糧攻めにしてから新田軍と挟み撃ちにすべきだと提言した。神戸だと、海軍も多い尊氏側に有利だったろうしな。

じゃあなにか、また天皇に戦場となる京をしばし離れておけと申すか、って感じで尊氏の言葉はスルーされた。

楠木正成は息子(楠木正行まさつら)と「桜井の別れ」をして、死地に赴いた。桜井は一般的には島本町。喜志近くの桜井という説もある。


湊川神社の南、神戸駅(JR神戸線)周辺で、おかあさんが春夏+秋冬という名のパン屋さんを探し始めた。やっと見つかったのは、湊川神社すぐのところだった。神社すぐの階段を下りた地下道にあった。むだに歩き回ったな。

パン屋には行列ができていて、わたしたちも並んでゲット。

焼きたてを運んできて、一日に何回か売り切れるまで売るという支店だった。売られていたのは食パンとミニ食パン。ミニ食パンは具入りの小さな、菓子パンサイズの食パン。

神戸駅周辺は方向が分かりにくかった。多聞通-4交差点から駅方面に向かい、2つ目の信号を右折。左手にJRの高架を見ながら南下していった。

新開地のあたりは化けている感じがした。ガード下に近く、最近まではこんなにきれいじゃなかったのじゃないかな。

西寄りに向きを変えるJRの高架をくぐり、そのまま南下すると湊八幡神社があった。「厄除湊八幡」とあった。

前に行った大石駅(阪神本線)近くの船寺八幡宮も「東向厄除八幡宮」で、八幡神は厄除けの神様の扱いだった。ここもそうなのだろうな。

神功皇后は妊娠したまま三韓征伐に赴き、出産を石をかかえて遅らせた、とかいうけれど、ここに上陸した時も産気づき、この地の石を抱えて祈願。出産を遅らせることができて、その石を祀ったのが神社の始まりなんだとか。これは全くの伝説のような・・・。

神戸あたりに神功皇后が上陸した話から、いろんな神功皇后にまつわる小咄があちこちでつくられたのだろうな。


神社そばには「北前船寄港地」とあった。北前船きたまえぶねって、廻船(荷を運ぶ船)のうち、日本海を通って北国(北前)まで交易した船のことだそうだ。

江戸時代、航路が完成したことで、交易の主要ルートの1つになったらしい。大阪を出港して瀬戸内海、下関を通って日本海側を東に。途中あちこちに寄港し、そのたびに売り買いをしたのだって。大阪を出て、すぐに寄港するのが神戸だった。そしてまた同じルートを戻ってきた。

船を手に入れたら、危険も伴うけれど、成功すれば一回の航海で長者になれたそうだ。だから北前船は、庶民の夢。船を持たなくても、船に乗ると、けっこうな収入になったみたい。

米、木綿、御影石、塩、酒、わらじ等々いろんなものが運ばれて、ニシンやコンブなんかを積んで帰ってきたそうだ。ニシン(干鰯)は肥料として売れに売れて、それで西日本の農作物の生産量が大幅にアップしたと言われるそうだ。

他にも北前船によって各地の暮らしは変わり、今まで手に入らなかったものも手に入るようになった。

より良いものが選ばれ、いろんなものが全国にいきわたるようになっただろうな。

酒は灘だな、イグサは岡山だな、米は新潟かな、漆器は輪島、そんなことも語られたのだろうな。

「湊口惣門跡」ともあった。兵庫の出入口の惣門で、番所や札場があったのだって。西国街道はここをまだ南下。

元々は西国街道は、兵庫を通らなかったのだって。西に向かって進む道だった。けれどそのうち兵庫に南下して寄るようになったのだって。その道筋はVの字を描いて、Vの字の底に当たるのが南の兵庫津あたり、Vの一番上の2点が2つある惣門になるらしい。

ここはそのうちの1つ、東の湊口惣門。当時は近くを湊川が流れていたそうだ。

湊川は今は会下山あたりから西寄りに南下、長田方面に向かって流れているけれど、元は会下山から東寄りに南下していたそうだ。何度も水害をもたらし、付け替えられたのだって。

湊口総門から西国街道は南西に向かい、兵庫津へ、それから北西に西の総門へ。

けれど、その前に寄り道。このあたりには神社がいっぱいあるようだったから、あちこち寄って行こうと計画していた。

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