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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
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巡礼街道を中山寺から

周辺には稲野さんのお宅が時々あった。

途中、ハイキング姿の人たちが坂を下ってきた。中山寺からの定番のハイキングのルートがあるらしい。中山寺から奥の院へ、清荒神へと歩くのがスタンダードみたい。

それから右手に市杵島姫神社。小さな神社で、工事中だった。ここも元は中山寺にあったのだけれど、神仏分離で別々にされたのだって。

小さな川(足洗川)を山ノ内橋で渡った。元は山中だったけれど、家々が建ち並ぶようになった感じのところだった。

てくてく歩いていくと、池が現れた。池の左手(南側)を歩くつもりだったのだけれど、日差しが強すぎて、少しでも山に近いように北側を歩いた。右手はすぐ山だった。それでも暑かったなあ。

池を過ぎるとカトリック宝塚瞑想の家があり、カトリック御受難修道会の名があった。ここを過ぎてすぐ右折して、坂道を上っていくと、式内社・売布めふ神社だった。

山道を登って参る神社だったのだろう。けれど今や舗装された道ときれいな家々の中にある神社になっていた。

メフ神社って尾張や出雲、丹後、但馬にもあるらしい。

ここも中山寺と同じく、高台にあって、遠くまでよく見えた。本殿の裏山に上がっていける道が右手にあったようだけれど、立ち入り禁止だった。

推古18年、下照姫(大国主の娘)と夫の天稚彦アメノワカヒコ神を祀る、だって。下照姫は稲作と機織りを伝えた人だと説明されていた。

シタテルヒメって、アヂスキタカヒコネの妹だ。アヂスキタカヒコネも河内地方に稲作を伝えたとか言われていた。

アヂスキタカヒコネは鴨大神と呼ばれた人だけれど、ここから東に3kmほどのところに鴨神社があるのは、偶然なのかな・・・。

弥生時代の高地性集落(加茂遺跡)があり、弥生時代後期に集落は東西に分裂したというところ。


天皇家の祖、アマテラスが、オオクニヌシの国を譲ってもらおうと人々を派遣していて、一人目のアメノホヒはオオクニヌシに心酔して帰らなかった。

そこで次に送られたのがアメノワカヒコ。

けれどこの人もオオクニヌシの娘(母は宗像三女神の一人)のシタテルヒメを妻にして、帰らなかった。そして突然死する。

そんな夫婦が推古天皇の時、ここに祀られたんだな。聖徳太子が開いたと伝わる中山寺と同じ頃の創建なのかな?

聖徳太子らによって物部氏が滅ぼされて、物部氏の勢力地だったところに聖徳太子が寺などを建てていっているから、ここもそうだったのかも。物部氏に大メフって人(イカガシコオの末息子)がいて、このあたりは、その人の子孫の若湯坐わかゆえ連の本拠地だったと思われるのだって。


アメノホヒ、アメノワカヒコの失敗があって、タケミカヅチ(とフツヌシ)で成功するけれど、その過程の中で、加茂遺跡の集落の分裂などが起こったのかも。

古来からの国津神(オオクニヌシ系)につくか、新鋭の天津神|(アマテラス系)につくかで分裂していったのかも・・・。

神社の西側の道を下っていった。

ここは駅(阪急宝塚線売布神社駅)近のようで、周辺は住宅密集地になっていた。丘陵の竹林のままに残されているところも少しだけあって、巡礼道はその中の小道だった。丘陵は切り取られていて、すぐ横は車道なのだけれど。大きくなったタケノコもいっぱい見えた。

売布小学校に出て、小学校沿いに西に向かった。

すぐ横の中国自動車道の下をくぐって進んだ。

橋本関雪別邸なるところがあって、ここがめっぽう広かった。橋本関雪は高名な日本画家らしい。明治生まれで、昭和20年に亡くなったのだって。

墓地もあった。

巡礼道の左手は崖下のようになっていて、右の高台は高級住宅地のようだった。地名は清荒神だった。

ここも元は米谷村だったところで、清荒神駅ができて、地名も清荒神になったらしい。清荒神があるところは、今も地名は米谷だって。


右手に八坂神社が現れた。格子の向こうに小さな本殿と小さな賽銭箱(大きい貯金箱くらいのサイズ)があるだけだった。

こんなの初めてだな、と思ったのだけれど、拝殿などは大震災で倒壊。再建されないままなのだそうだ。

再建するにはかなりの寄付が必要だけれど、周辺は新しく越してきた人々の多い住宅地で、なかなかそんな話にならないのかな?

元は清荒神の境内にあり、源平の戦いで焼失するも源頼朝が再建したと言い伝えられるそうだ。その後、荒木村重事件で再び焼失し、八坂神社として再建したそうだ。

源平の戦いや、信長の村重追討がこのあたりでも繰り広げられたんだな。村重さん事件では中山寺も焼けてしまったそうだ。

このあたりでは巡礼道は有馬古道でもあるのだって。前に歩いた安倉から北西に1kmほど進んだ地点のようだった。

また「義経道」とも呼ばれるそうだ。平氏追討の義経軍が進んだ道なんだとか。

後白河さん(日本一の大天狗ね)から平氏追討を命じられた源頼朝は、弟の範頼、義経を平氏のいる福原方面へ派遣。

平家物語によると、義経の兵は1万余騎。範頼軍は西国街道を、義経軍は丹波路を進み、三草山(加東市)へと向かったのだって。そして三草山にいた平氏を破り(三草山合戦)、主戦力は一の谷(須磨)へ、義経は鵯越(神戸の長田)へ。

そこで一般的には「藍那道とも呼ばれた鵯越への道」が義経道と呼ばれているみたい。けれど平家物語はちょっとあてにならないのだって。義経の兵は1万余もいなかったと思われるし、本当に丹波路を行ったかも疑問で、本当はこの有馬古道を通ったのではないかといわれているらしい。

加東市なんて初めて聞いたけれど、明石のずっと北のほう。元は賀茂郡だったのが東西に分かれ、加東・加西となったのだって。「畑」ってところもある。カモ氏や秦氏が住んでいたのかな?


この近くに清荒神駅があり、北にずっと行けば清荒神だった。行ってみたかったけれど、もう夕方に近くなっていて、帰ることにした。

八坂神社から、抜け道みたいな道も通りながら南に下っていくと、すぐ清荒神駅だった。

駅からは、北に向かってずっと参道商店街が続いていて、この道が清荒神の表参道らしい。

清荒神駅から梅田までは280円だった。ずいぶん遠くに来た感じなのに、お安いなあ。梅田にも近い感の漂う価格。

電車で外を見ていると、ずっと山裾の素敵なところを走って行ったけれど、雲雀丘花屋敷駅と川西能勢口駅は都会で、ビルと新興住宅の街って感じだった。

暑かったこの日、おかあさんと水1600mlを散歩中に空にした。がんばったな。

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