中山寺
ドラッグストアのサーバ(今はキリン堂)を越えたところの四辻で左折して進むと、天日神社の西側の、天王寺川の土手に出た。ここの日陰でしばし休憩。
山と川が素敵だった。暑いせいか、ウシガエルは鳴いていなかった。
天王寺川を渡り、池の湖畔へ。池の中ほどにある橋を渡って向こう岸に行ってみようと思って、少し遠回りになるのにやって来たのだけれど、橋までの距離が暑い中では遠く見えて、池の周りを歩き、向こう岸へ。
池の向こうに見えていた緑の中には、小さな祠があった。
それからJR中山寺駅近くのパンネルを目指した。ところがやけに静かだと思ったら、お休みだった。まあまあ近くにサニーサイドがあったから、サニーサイドまで足を運んでパンをゲット。
パンネルがあるのはたんぼも近い、あぜ道感のある道のそばだったけれど、サニーサイドは広い通りにあって、シックなこじゃれた都市の雰囲気だった。近くにはスターバックスなんかもあった。
この界隈のメインロード的なところなのかな。元はあぜ道だらけの田舎だったのだろうけれど、変わっていくところなのかな。
前回と同じく、パンネル横の「かいづか公園」で休憩。売り切れていたけれど、しばらく待っていると出てきた揚げたてカレーパンは、生地は薄く、生っぽかった。見ると、カレーの中にパン生地の白が混じりこんでいて、本当に生だった・・・。
そして暑い中、中山寺を目指した。
阪急中山観音駅方面を目指して、パンネルの北側のあぜ道みたいな道を西に向かっていった。
そしてびっくり。中山寺が近くに見えているじゃないか。カラフルで小さな塔も、いくつか見えていた。こんなに近いのに、前回このあたりを歩いていながら全然気がつかなかった、ということにびっくりした。
このあたりには墓地がけっこうあった。米谷東墓地の手前で右折して、北上。近くにはまいたに人権文化センターがあったみたい。今までの経験から言うと、中山寺の清掃などに従事していた人々が住んでいたとかかな?
JRの下をくぐり(すぐ右手が中山寺駅)、上り道を行くと中筋1丁目交差点(176号線)だった。丘のてっぺんあたりだったけれど、幹線道路が走って、このあたりは都会だった。
そのまま北上していくと、右手には池があり、阪急電車を西辻ガ池踏切で渡った。すぐ左手が中山観音駅で、駅前を通って北上。参道が商店街になっていて、さらしとか、ソフトクリームとかが売られていた。
駅からのとても短い参道商店街のすぐ向こうが中山寺だった。
お寺前で交差する道は巡礼道らしかった。
箕面や池田あたりでも時々であった巡礼道。西国23番所勝尾寺から24番中山寺に向かう道。中山寺からは、三田の方を通って、25番播州清水寺に向かうらしい。
中山寺に入ると、まずは総持寺などの子院が左右に門を連ねていた。いろいろ子院があって、ちょっとしたお寺のテーマパークみたいだった。
中山寺は聖徳太子開祖と伝わり、日本最初の観音霊場なのだって。安産で有名で、祈願した人には源頼朝、豊臣秀吉、明治天皇の生母などがいるそうだ。それで参道にさらしがいっぱい売られていたんだな。エスカレーターがあるのも、妊婦さんや赤ちゃん連れのお参りも多いからみたい。
ライブカメラを配信していて、決まった時間のライブ映像が配信されるのだって。金剛山みたいだな。
新しくて、カラフルできれいな建物が多かった。一番上あたり(奥の院以外で)の大師堂では、ふりかえると飛行機と平野がよく見えた。
境内に中山寺古墳があった。石室が残っていて、洞穴のようになった石室に入っていけた。進んで行くと、大きな石が頭上にあった。そしてすごくひんやりしていた。
氷室って、洞窟なんかに造られたそうだけれど、それも分かった。外がこの暑さでも、これだけひんやりしているなんてなあ。
そして古墳は、忍熊王たちの母の墓と伝わるそうだ。神功皇后の夫である14代仲哀天皇が、最初に妻にした女性(大中姫命)。その父は大江王。12代の景行天皇とカグロ姫との間の子だって。
境内には忍熊王の墓と伝わるという石棺もあった。このあたりは大江王と呼ばれる人の本拠地あたりだったのかな。
大中姫命が産んだ仲哀天皇の息子は2人いて、香坂皇子と忍熊皇子。二人が生まれた頃、父はまだ即位していなかった。後に父が天皇になり、神功皇后を皇后とした。もしかしたら皇子らと神功皇后は、そう年もかわらなかったのかな。
父は神の怒りに触れたとかで謎の死を遂げ、神功皇后は仲哀天皇の死後けっこう経って息子を出産(後の応神天皇)。
忍熊王らは神功皇后が息子を天皇にすることを阻もうとするけれど、香坂王が事故死したりで雲行は怪しくなった。
神功皇后は関西の豪族たちを味方につけ(たのだろうな)、忍熊王は逃亡。追いつめられ、五十狭茅宿禰と共に入水したのだって。
五十狭茅宿禰は、アメノホヒの子孫だそうだ。生田神社の社家となった海上五十狭茅は、この人の息子とも言われるのだって。
当時、大阪湾岸にはアメノホヒ・アメノホアカリの一族が力をもって分布していて、彼らと手を結びながら天皇家は大きくなっていったのかな。アメノホヒやアメノホアカリの子孫がこのあたりの古いお話によく登場するし。
後の戦いでも、氏族VS.氏族じゃなく、いろんな氏族の編成グループVS.編成グループだった。天皇家やアメノホヒ一族たちも、敵味方になって戦ったのだろうかな。
仲哀天皇の父、ヤマトタケルを産んだのは、播磨は加古川あたりの人だって。
ヤマトタケルの兄であるオオウスの子孫が和泉の池田氏(全国の池田さんの発祥とも言われる)で、わたしは勝手にこの池田氏が池田市などにも住むようになったと思っているのだけれど、大阪湾岸から加古川の方までも大物たちが広がっていたなら、全くありえる話だな。
たとえば若きオオウスが、和泉の姫との間に子をもうけ、その子か孫か、子孫かが猪名川の東に住み、地元でと同じく池田だか伊居太だかを名乗った、そんなことがあったのかもしれないな。
応神天皇の時、アチノオミは異国(呉)からクレハ・アヤハを連れ帰り、ムコの水門へ。けれどその頃、応神天皇は亡くなっていて、クレハ・アヤハは船で池田へ。
応神天皇が亡くなった後、だれが天皇になるか決まらなかったか空白の期間があって、仁徳天皇が即位。仁徳天皇は池田で亡くなったクレハさんを祀り、それが伊居太神社なんだとか。
池田や和泉は当時から畿内って感じだったのかな。
中山寺から奥に山を少し上っていくと、中山観音公園があった。
芝生の広場があって、その周囲に藤棚とベンチが並べられていた。それだけのところだったけれど他には誰もいなくて、素敵なところだった。
さらに上に上っていけるようになっていた。山の斜面が一部コンクリで固められて、そこに大きめの石もやや等間隔に埋め込まれて固められ、そこを歩いて上がる感じ。
上ってみると、すごい見晴らしのよさだった。遠くの山の形状までよく見えた。そして目の前、南の方角には、一面の平野に都市がひろがっていた。古代には一面が海だったりしたこともあっただろうな。
降りるときは、埋め込まれた石がかえって邪魔だった。おかあさんはスピードを出すと石につまづいてこけそうだと、ゆっくり下りていた。
中山観音公園からは、墓地や梅林公園にもつながっているようだった。梅林公園の方向に行くと、約2kmで奥の院だって。元は中山寺はそこに創建されたのだけれど、時流で下に下りてきたみたい。
行きとは違う道をぶらぶら歩いて下っていくと、古いお墓のあるやぶ道みたいなところを通り、階段を下り、小さな門を開閉して中山寺に戻った。小さな門は、イノシシ対策とかかな?
表門から出ていって、門前の巡礼道を西に向かった。
近くには売布神社や清荒神があるらしく、行けるところまで行ってみようと思って。
巡礼道と同じく阪急宝塚線も西に向かっていたから、どこかできりをつけて電車で帰ろう。




