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大阪を歩く犬7  作者: ぽちでわん
12/46

京伏見街道を池田から

前に有馬間道を尼崎から中山寺近くまで歩いた。実は途中から道を間違えていて、正しくは「歩いたつもりだった」のだけれど。

もうちょっとのところで行かずじまいだった中山寺に行こうと家を出た。

阪急電車の宝塚線やJRの宝塚線に中山寺駅がある。でも、京伏見街道を歩いて中山寺まで行ってみようかな。

京の人の間でも有馬温泉が人気になって、京、伏見、それから西国街道あたりを通って池田へ。池田、加茂と進み、有馬道に合流。その京伏見街道を池田から西に歩いて、有馬道にある中山寺を目指してみよう。

その日の予想最高気温は30度。けれどまだ6月で、朝は曇っていて涼しかった。これならば行けるかもと出発。途中で無理そうだったら、すぐに帰ってこよう。


池田には阪急の宝塚線急行で。下調べしなくても、もう分かるようになった。池田には阪急宝塚線。

池田も面白いところで、能勢街道歩きや呉服クレハ街道歩き、西国街道歩き、多田街道歩きなんかで何度もやって来た。

いろんな古いものもあるけれど、ほぼすべてがクレハ・アヤハとからめた話で語られているところ。クレハ・アヤハというのは応神天皇から仁徳天皇に変わる頃(古墳時代ね)、他の国からやって来た機織はたおり職人の姉妹。二人はアチノオミって人に連れられて日本にやって来て池田に住み暮らし、季節に合った布でつくる服を日本にもたらした。

池田駅の改札は2階にあって、正面の窓からは北の五月山が見えている。そちらの方向に降りていって、サカエマチ一番街の入口を右手に見ながら、駅前の通り(国道176号線)を進んでいった。

源立寺があり、池田ビリヤードがある。前にも歩いた道だった。

祠があり、左手に壽命寺。クレハ・アヤハが来日してきたときに持参した薬師如来が本尊というお寺ね。

後(奈良時代)に行基が二人を祀る神社に参っていると神託があり、二人を守護して船で一緒にやって来た薬師如来が、上陸した唐船渕にいる、みたいな話だった。唐船渕というのは猪名川沿いにあって、二人が上陸したところ。ムコの水門を通り、猪名川を遡ってきたみたい。行基は薬師如来を探しだし、近くのここに安置して寺としたのだって。壽命寺の西が猪名川だった。

昆陽野とは猪名川をはさんで隣り合っているとあってか、池田には行基のからむ話も多い。


壽命寺の北側の細い道に進んでいった。

池田の176号線の周辺って面白い。今までに歩いたところでは、現役の井戸があったり、壊れた祠があったり、素敵な洋館風の旧家があったりした。

ここも進んでいくと面白いところで、住吉大明神や虫切地蔵が祀られていた。

それから猪名川に出て、呉服橋を渡った。

川西まで1kmだって。猪名川を越えると川西市だったから、川西池田駅あたりのことをいっているのかな?

呉服橋を渡りながら見た右手の光景は素敵だった。山と、猪名川、そしてビッグハープ(新猪名川大橋)。右前方には山にニュータウンが見えていた。

橋を渡ると「清和源氏のふるさと川西市」とあった。多田街道歩きでやって来たことのある川西市には、清和天皇のひ孫の源満仲が新天地を求めて開墾したという多田があった。尼崎の近松公園のそばの石の上から、どこに新天地を求めるべきか矢を射たら、多田に飛んだっていう話だった。

源満仲の息子には頼光、頼信などがいて、この後に有名になる源氏たちはほぼみんなこの人の子孫。

なんだか、ずいぶん蒸し暑くなってきていた。

橋を越えてすぐ左折して、高速(阪神高速池田線)沿いを南へ。

一本裏道に入ってみると、橋詰地蔵とか、赤いぼろぼろの鳥居のある白龍大神とかが祀られていた。寂れたところではよく見る風景だったけれど、こんな住宅密集地でこんなボロボロなのは珍しかった。

阪急宝塚線を過ぎて、マンション群の手前、右手に分岐する道に進んでいった。

地名は小花だった。


右手に川西小学校が現れて、その手前を右折して、観音寺(浄土宗)に寄り道。

昭和35年の水害でここまで水が来たという線が電柱に記されていた。台風で猪名川が氾濫したらしい。

あたりには旧家や祠がいっぱいだった。観音寺よりも、一帯の古い家や道が面白くて、うろうろ歩き回った。

観音寺には「小言の100より情の一言」とあった。

元の道に戻って南下していくと、前方に川があるらしい緑が見えた。飛行機も飛んでいった。猪名川と伊丹空港が近い。

川西小学校を過ぎて右折。栄根踏切でJRを渡った。

すぐ「旧多田街道」の案内板があり、交差するのが前に歩いた多田街道だった。前に歩いて、多田街道のここより北側は、JRの線路や小学校ができて消滅したのだろう、と思った場所だった。

道なりに進むと加茂交番前交差点(県道13号尼崎池田線)。

交差点の右手、上り坂の向こうに見える緑は、前に多田街道歩きで行った鴨神社だろう。祭神は別雷命ワケイカヅチで、加茂遺跡が見つかっているあたり。旧石器時代からの遺跡で、弥生時代には大きな集落があったそうだ。

交差点を渡ると、道の続きを南西方向に進んでいった。地名は下加茂だった。

道なりに進んで小さな石橋を渡り、JAの無人精米機を左手に見ながら進むと、その後も続けざまに2本川を越えた。

3本目が最明寺川で、渡った橋は上加茂橋。川だけは田舎の感じがした。家々が建ち並び、頭上には飛行機が飛んでいくのだけれど。

ちょっとした商店街だった感じの道で、一願地蔵と出世地蔵がいた。

次には加茂橋を渡ると、道は急な上り坂になった。金毘羅と書かれてある灯籠があったけれど、壊れていた。

上りきると右手には鳥居が見えた。鴨神社だろう。左手には旧家。

左手に進んでいった。


阿弥陀寺(浄土宗)が現れた。一帯は高台にあって、古そうなところだった。古い家々がずらりと建ち並んでいた。

宮川石器館とあるお宅があり、常忍寺(真宗本願寺派)があった。

石器館は、昭和の初め、加茂遺跡から見つかった石器を個人の方が展示したものらしい。その向かいは岩田植物生理科学研究所の看板のあがったお宅で、ここはめっぽう広かった。

加茂も池田や伊丹と同じように、灘が栄える以前には酒造が盛んだったらしく、岩田さんも酒造業で大成した人らしかった。

このあたりで京伏見街道は右折するのだけれど、面白くてそのまま進んでいった。飛行機がずいぶん大きく見えた。賑やかな広い通りに近づいて、道をバック。

岩田さんちのそばに斜めに傾いた古い道標があり、「右 小浜 左 伊丹」とあった。ここを曲がって西へ。

そのまま進み、バス通りに出ると信号を渡り、どんどん西に行くのが京伏見街道だった。けれどここでまた寄り道。信号の手前を右折して北に向かい、川西市文化財資料館に行ってみることにした。前に多田街道歩きでやって来た時には休館日(月曜)だった。その時初めて歩いた川西に、再びやって来るとはその時は思いもしなかった。せっかく来たので、資料館にも行ってみよう。

資料館までの道も、面白かったな。大きな武家を取り巻く家々が元は建ち並んでいたのでは?って感じがした。それとも酒造業の関係かな? ここを酒を運ぶ水路が流れていて、後にそこに家が建ったとか・・・。

阿弥陀寺の裏を通り、南花屋敷2丁目交差点へ。この右側が鴨神社だった。前に歩いた時は、この広い車道が京伏見街道と説明されていたように思う。本当はもう少し南側にあったんだな。

もう少し北上すると川西市文化財資料館だった。

周りにはいちじく畑と思われる畑の木々に葉と実がついていた。前に多田街道歩きでやって来た時には裸の木だったな。いちじくは川西の名産品の1つ。


川西文化財資料館(無料)ではわたしはバッグの中で荷物と化した。土日には勾玉づくりなどにも参加できるのだって(有料で人数制限あり)。

主にそばの鴨神社あたりで見つかった加茂遺跡について説明されていた。小さなところで、ちょっとの時間で見て回れた。

説明によるとこうだ。

紀元前3世紀頃、最明寺川沿いの今の栄根や下加茂あたりに小さな農耕集落ができた。そして紀元前1世紀には大集落になっていた。最盛期(弥生時代中期)には20万㎡。

20万㎡ってぴんとこないし、他のところと比べてみた。

安満遺跡 35万㎡くらい? 弥生時代前期~

池上曽根遺跡 60万㎡くらい 弥生時代前期~

妻木晩田むきばんだい遺跡(出雲族の集落跡?) 150万㎡以上 弥生時代中期~

吉野ケ里遺跡(九州) 50万㎡くらい 弥生時代前期~

比べる相手が大きすぎたかな。20万㎡でも十分大きいそうだ。

わたしが住んでいる町を調べてみた。だいたいだけれど20万㎡。5000人は住んでいる。

加茂遺跡には500人くらいが住んでいたと思われるのだって。それだけの人々が田畑をつくり、日々暮らすにはちょうどいいくらいだったのかな。

けっこう住んでいたんだなあと思った。

鴨神社があるのが、遺跡の中心部だったあたり。集落は二重の環濠の中にあり、板で方形に囲われていた形跡もあるそうだ。

環濠の中には大型建物があって、有力者の住居、または祭祀用の建物だと思われるのだって。他に環濠の中にあったのは、大型方形周溝墓や居住区。

その外にも居住区はあって、方形周溝墓や木棺墓もあった。その周りにも外濠があった。

環濠の中央部には有力者とその仲間たちが住み、有力者の墓もあり、その周囲にその他大勢が住んだのかな。

うちの町内と同じ広さなら、川だって流れていただろうし、井戸もいくつかあっただろうな。

500人もいたのなら、トイレやごみ捨てはどうしていたんだろうな。


使われていた石器の材料のサヌカイトは、河内のものだそうだ。二上山で採れた石ってことかな。

銅鐸も見つかっていて、栄根銅鐸と呼ばれている。川西では他に満願寺銅鐸も見つかっているそうだ。

資料館には栄根銅鐸のレプリカが置かれていて、その大きさにびっくりした。全国で5,6番目の大きさなのだって。

本物は東京の博物館にあるそうだ。見てみたいなあ。東奈良でつくられた銅鐸だろうか?

武器も出土していて、東の斜面で戦った形跡もあったそうだ。

「東の斜面」って、東から歩いてきた加茂交番前交差点で前方に見えていた、あの、上に鴨神社のある丘の急斜面のことね。ここをやってくる敵を、上から迎え撃つシーンがジオラマで再現されていた。

栄根銅鐸も、この「東の斜面」の下で見つかったのだって。

見つかった明治時代、ここも地名が栄根だったので(今は下加茂)、栄根銅鐸と名づけられたそうだ。

そこは弥生時代には水田だったのではないかと思われる場所なんだって。住居の下の低湿地に水田があったのね。

戦いは倭国大乱ってやつだと思われ、その後、加茂遺跡の集落も規模が小さくなったのだって。

東西2つに分裂したのだそうだ。なにがあったんだろう。銅鐸の多くが壊された形で埋められ、変わって前方後円墳がつくられるようになっていく時代。

本願寺はむかし、織田信長と徹底的に戦うべきか、同盟を交わすべきか、意見が2つに分かれてしまい、そんなこんなで東西に分裂してしまったそうだ。同じようなことが弥生時代の加茂にも起こったのかな。


そして大和が統一。

川西は南は川辺郡雄家おべ郷、北は川辺郡大神おおむち郷(大神郷は大物あたりにあったという説も)に属していたのだって。

ここは思いきり南だから、大神郷ね。

6世紀には川西では勝福寺古墳がつくられている。火打2丁目の丘の上、勝福寺の裏山だって。

多田街道歩きでニアミスした、火打の八坂神社近くの古墳。鏡や刀、馬具、ゴールドのイヤリングなんかが出土したそうだ。なんだかただならぬ雰囲気は一帯でしていた。

前方後円墳で、当時としては最新をいく横穴式石室をもつのだって。

古墳時代、初めのころは竪穴式石室の前方後円墳だったりしたのが、徐々に追葬できる横穴式石室の円墳などになっていった。

最初は絶対的な力を持つ唯一の人のための一度限りの大きな墓がつくられたけれど、だんだん力が分散していき、繰り返し利用できる横穴式の石室になっていったんだって。横穴だと何度も出入りできるし。

ここはいち早く横穴式スタイルがとりいれられた古墳で、けれど追葬(後に亡くなった人を同じ石室に埋葬する)ってことが行われず、別に横穴式石室をつくっているのだって。

スタイルだけ取り入れて利用法を知らなかったか、今までの慣習から心情的にやらなかったか、死んでまで同じ墓で隣に入りたくないって思ったか、かな。

勝福寺古墳は、継体天皇の時代の、尾張とのかかわりを匂わす古墳なのだって。

尾張と言えばアメノホアカリ。尾張で勢力を持った尾張氏の祖がアメノホアカリで、他に津守氏とか丹比氏とかもそう。たぶん、船に乗る海の民だったと思われる。ここでも海の民が海外で知った石室スタイルをまねてみたのかな?

古墳はあるものの、古墳時代の集落は「まだ」見つかっていないのだって。きっとある、って書き方だった。

他には古代のベルトの金具が展示されていて、びっくりした。ちゃんと今と同じ構造になっていた。後には石でも作られたのだって。どれだけ匠。


資料館を出ると、すっかり雲はなくなり、晴れ渡ってきていた。日差しが暑かった。

京伏見街道の続きを歩くべく、道を戻った。それから西へ。

バス通りを過ぎると、その先は古さも感じられず、新興住宅地になっていた。

それから川西市から宝塚市に入ったらしい。

造園業をしている人が多いみたいで、緑が多くて、ワイルドなところだった。林の入り口を駐車場にしてる感じの家が多かった。「青面金剛」とある、箕面で知った庚申塔があった。

それから古い集落になってきて、一帯は阪上さんだらけだった。ここまでの新しい住宅地は、最近まで林だったところとかなのだろうな。

このあたりに春日神社があるようで、寄り道して行ってみようと左折して、細道を南に向かっていった。

ウグイスの鳴き声がしていた。竹林があって、タケノコも生えていた。宝塚って、こういうところなんだな。

道がつきあたり、右手は山への道なき道になっていたので、左手へ。

そしてUターン。暑さにやられてきていて、すぐには見つからなそうで引き返した。後で地図で見てみれば、もう少し行けば口谷西春日神社の参道があったようだった。残念。二度と来ることはないと思っていた川西文化財資料館には再びやって来たけれど、ここはさすがに二度目はないかも。


元の道に戻り、続きをひたすら歩いた。

右手に山が見えていた。「和三田」なんてところを通った。

古い集落を抜けたようで、新しい町になってきたけれど、まだ阪上さんは多くて、新築中のお宅も阪上さんだった。あとは金岡さんが多かった。

地名が荒牧になり、ここは伊丹市。宝塚に南の伊丹市がせりだしている、あの荒牧だった。関西スーパーなんかがあって、右斜めに道が分岐するところでその分岐の道へ。広い道(長尾通)に出た。

長尾通沿いにはヒロコーヒーがあり、その向かいにはパン屋さんもあった。けれど残念ながらお休み。

長尾通で川を渡った。川は天神川。前方に山が見えた。北側が長尾町(宝塚市)のようで、それで長尾通というのかな?

左手に大阪芸大短大部。中筋7丁目交差点を過ぎ、「右 中山寺」の道標があった。京伏見街道は有馬街道に合流するらしく、有馬には中山寺にも寄りつつ向かうのが人気コースだったそうだから、京伏見街道も中山寺に向かうのかな?

けれどわたしたちは直進して行った。前に気になった安倉の池(安倉上池)がこの西にすぐだったので、せっかくだから行っておこうと思って。

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