西国浜街道と酒蔵
6月初め、暑い日々が続いていた。そんな中、暑さが一休みすると予報された日があった。
天気予報は曇り時々雨。暑いよりはずっとましだと、西国浜街道の続きを歩きに行った。西国浜街道は前回、西国本道と分岐する打出から西へ、魚崎八幡宮まで歩いていた。
阪神本線魚崎駅に向かった。
以前には、大阪湾岸の都会を見て、低湿地だったとか聞いても全くぴんとこなかった。けれど、今はなんとなく分かる。前は目の前の都会しか見ていなかったけれど、今は、大阪湾の周りの一円として頭に描けるようになったのかな。
このあたりを走る電車は阪急(神戸線)、JR(神戸線)、阪神(本線)。阪神電車が走るのは一番海側で、阪急電車が走るのは一番山側だったけれど、芦屋駅あたりからは阪神電車でさえ山に近かった。このあたりは山と海が近くて、平野が狭いんだな。
そしてたどり着いた魚崎は都会で、びっくりした。前に歩いたことはあったけれど、川沿いの道で、そんなに都会だとは思っていなかった。
けれど駅から見ると、ビルや建物が多い都会だった。阪神電車の急行も止まるのだものな。地名は神戸東灘区だった。
西国浜街道は海沿いの道で、駅からは南方面を通っていた。けれどせっかくなので、その前にまずは駅すぐ北の東求女塚古墳に行ってみることにした。
処女塚古墳、西求女塚古墳には行ったことがあって、もう1つの東求女塚古墳も気になっていた。
むかしむかし、一人の兎原乙女をめぐって二人の男(莵原壮士と茅渟壮士)が争い、乙女は自殺。男たちも後を追って死んでしまった。乙女のお墓が真ん中の処女塚古墳、その左右から乙女塚古墳のほうを向いている求女塚古墳が二人の壮士のお墓という伝説があるそうだ。東求女塚古墳は茅渟壮士の墓。
実のところは築造された時期もばらばらで、豪族の墓と思われるそうだけれど。
魚崎駅の下には住吉川が流れていた。高台の方ではあんなに大きかった住吉川は、このあたりでは随分小さかった。川に下りて、遊べるようになっていた。
川の横を歩けるようになっていたから、西側を北上。足下をなにか走ったと思ったら、トカゲだった。
六甲ライナーの魚崎駅を過ぎたところで西に向かえば東求女塚古墳のようだったけれど、対岸にしか上に上る階段がなくて、飛び石伝いに東側に移った。階段を上がり、橋を渡って西へ。飛び石も随所にあって、便利な川だった。このあたりの人には飛び石を飛ぶのは日常茶飯事なのだろうな。
橋の名前は五百崎橋だった。元は五百崎だったのがいつしか魚崎になったっていうからな。
なんだかしゃれているおうちが多くて、緑も多くて素敵なところだった。
「是ヨリ南魚崎村」と書かれた石があって、その先(西)は急坂になっていた。
坂を下るとしゃれた感じはなくなって、普通の住宅街だった。右手には墓地。海抜5m以上の表示があって、びっくりした。海に近いこのあたりは、海抜2m以下かと思ったら5m。それで古墳があったりするんだな。
求女塚東公園があり、そこに東求女塚古墳があった。
他の2か所とは違い、緑に覆われた感じもなくて、ただの公園って感じだった。
東求女塚古墳は明治時代、どんどん土を削りとられて壊滅状態になっていたのだって。わずかばかりでも残っただけでもましなのだろうな。
4世紀後半の80mの前方後円墳だったらしい。そして他の2つの古墳とはちょっとだけ違った説明がされていた。
「茅渟壮士」はここでは「芦屋の菟名負処女を愛した信太壮士」になっていた。
茅渟(和泉とか泉南とかあたりかな)といわれると範囲が広くていまいちぴんとこなかったけれど、信太と限定されると、より具体的で面白かった。
かなり早い時代から渡来人も住み、かなり進んでいた信太。都会からやって来た壮士、って感じだったのかも。
前方後方墳の西求女塚古墳が3世紀後半、同じく前方後方墳の処女塚古墳が4世紀前半、東求女塚古墳が4世紀後半の頃のもの。
東求女塚古墳については分からなかったけれど、他の2つは山陰系の祭祀用土器などが出土していて、山陰とのつながりが考えられるのだって。
公園の隣はこども園や住之江児童館だった。
こども園は、あの久原財閥の久原さん(前に岡本で知った、住吉に住んでいた大富豪の一人)がつくった園だそうだ。元は仲という地名で、水平社がつくられたところだったらしい。後に住之江と改称されたのだって。
阪神電車の線路沿いに魚崎駅に戻っていった。小さな公園に「雀の松原」とあった。有名な松林だったのだって。
平安時代は佐才という集落だったのかな。けれど住吉川の氾濫で人々は魚崎に移り、佐才は松林となったのだって。佐才の松原は「雀の松原」と書かれるようになり、歌などにも詠まれているそうだ。
佐才にあった神社(雀神社)もまた魚崎に移り、それが魚崎八幡宮なのだって。魚崎八幡宮には「神依松」があった。その場所に雀神社を移したのかな。
元は八幡じゃなかったけれど、明治の時代、間違って八幡宮として申請してしまい、そのままになってしまったそうだ。なんだそりゃ。
少し坂を上り、魚崎駅へ。
地下通路を通って駅の南へ。地下通路を出て、また住吉川沿いの遊歩道を南に向かっていった。他の人たちも歩道の1つとして普通に川べりを歩いていた。
シラサギもいて素敵だったけれど、高速(阪神高速神戸線)下あたりはおしっこ臭かった。
飛び石を渡る老夫婦がいた。おじいさんがおばあさんの手を取って。わたしたちも渡った。橋がかかっているところで川から離れて公道に上がっていった。
本当は高速の下の国道43号線あたりが西国浜街道のようだった。けれど旧道は、このあたりでは震災で壊滅したらしい。それならいっそと思って、浜街道より南の、並ぶ酒蔵をめぐりながら西へ向かうつもりだった。
魚崎は酒蔵で有名らしい。ただそれも、阪神・淡路大震災で、かつての面影はほぼなくなっているらしかった。
川べりを上がると、すぐ西側に菊正宗酒造記念館があった。記念館は入館無料。一部は古い建物だった。
東には魚崎郷、西には御影郷が案内されていた。
前に知ったことには、かつてはこのあたりで一番栄えていたのは池田だった。池田が都会で、酒造でも栄えていた。伊丹もまた酒造で栄えていた。
そこに地の利を活かして、灘が台頭。おおいに栄えた。その中心が御影郷。他に魚崎郷と西郷。そこに今津郷と西宮郷も加わって、灘五郷となったのだって。
記念館の西側を北上。大釜が路上に展示されていた。樽マイスターファクトリーとかがあった。
広い菊正宗の建物を過ぎて左折。大きなマンションとの間の道はなんだかしっとりとしていて、しかも涼しくて最高だった。
それから工場と住宅が続いた。
右手に白鶴酒造資料館。御影郷の老舗が菊正宗で、その分家が白鶴みたい。
ここで右折して北上。デイホーム呉田があった。幼稚園跡だったけれど、震災後に子どもが減って閉園となったのだって。
阪神高速の下で左折。東御影交差点まで白鶴のブロック塀が続いていて、作業着を着た人々がなにかを採取していたのは、ここだったかな?
東御影交差点で43号線を渡ると、「すぐ大坂道」の道標があった。
このあたりで見た消火栓の蓋のデザインが可愛かった。パン職人やロープウェーの絵が描かれていた。
この少し西の浜中交差点から北西に少しだけ西国浜街道の旧道が残っているそうで、浜中交差点を目指して西へ。
明治14年にたてられたという道標には「住吉ステーション」とあった。
菊正宗の製品工場や、「酒かすの小林」の看板、酒まんじゅうが名物らしい「虎屋」とかがあった。
北には山と一緒にタワーマンションが見えていた。御影のタワーマンションだな。
それから浜中交差点へ。浜中交差点で弓場線を渡り、右手に分岐する道に進んでいった。
近くに「パン屋のIto」があって、ここでパンをゲット。パン屋への途中、灯篭のある駐車場があった。元はここにも神社の旅所か何かがあって、震災で無くなったとかかな?
元の道に戻って西に向かうと、西方寺(真宗本願寺派)。祠もあって、それから西町会館。一帯は弓弦羽神社の氏地らしかった。
旧街道についての詳しい説明があった。ここは少しだけ残った西国浜街道の旧道だったけれど、それも震災で変わってしまったらしい。弓場線からこっち、震災で全部倒壊し、江戸時代から続いていた古い町並みが失われたのだって。
そのまま進もうにも正面にラブホテルがあって、旧道は終わり。高速下に戻り、さらに南に向かって、最初の辻で右折。ここを西に向かった。また酒蔵通りを通って西に向かおうと思って。
けれどこのあたりも変わってしまったのか、「泉酒造(株)」と書かれた月極駐車場らしき駐車場やマンションがあるだけだった。
天神川を越え、道はカーブして北に。公園があり、井戸などが保存されていた。酒造りに使われていた井戸だったらしい。御影郷についての説明も書かれていた。
ここで休憩。パンもいただいた。
それからすぐの石屋川を磯之辺橋で渡った。川床の岩がごつごつと見えていた。地名は御影塚町。
何年か前までは、ここに泉勇之介商店があって、灘で唯一残った木造の酒蔵だったらしい。母屋、精米所など国の有形文化財にも登録されていたそうだ。けれど経営不振で廃業し、壊さないための署名運動も実を結ばず、取り壊されてしまったのだって。
泉酒造(の駐車場?)があり、酔心館があり、ここを右折。
高速の向こうに大きな鳥居と山が見えた。前に行った東明八幡神社の鳥居だった。そばには処女塚古墳があった。
御影って素敵だな、と思った。
前には御影の高台の高級住宅地を歩き、別世界だな、と思った。それからJR御影駅界隈の下町感のある風景にちょっと驚いて、こんな一面もあるんだな、と思った。
けれど本当の御影は、ここだったのだろうな。お酒で栄えた古くからの町。
今はあまり名残がないそうだけれど、山に近いしっとりした感じが、高速なんかが走っている中にも残っていた。高速道路が走りながらも、負けていない風情をなぜか残していた。
高速下まで北上して左折。甲南漬(高級奈良漬だって)のお店があった。
東灘区から灘区に入ったみたい。新在家交差点で左折。交差点を南下して、最初の信号を右折して、この道を西へ向かっていった。
「旧西国浜街道」の碑があった。新在家駅前で、右手にはモール。商業施設感が大阪みたいにこてこてじゃなくて、なんだかこじゃれていた。
ここには震災前には赤レンガの倉庫が並んでいたのだって。おしゃれな街並みをつくっていて、けれど震災で倒壊。その跡地にできたモールは、犬OK(一部除く)の商業施設なんだそうだ。
左手には大きくてきれいな団地(UR)が続いていた。駐輪場などが酒蔵風につくられていた。
西国浜街道についての説明もあった。西国街道(西国本街道)のバイパスだったと書かれていた。山陽道についての説明もあって、今までで一番わかりやすい、山陽道の説明だった。
7世紀中頃から8世紀に、日本を58国3島に分けたのだって。大化の改新でってことかな。そして各地に通じる七道を開通。その中でも一番重要だったのが山陽道。
後には、京と西日本を結ぶ軍用道路として西国街道が形成され始めた。一部はかつての山陽道とも重複する部分があった。
江戸時代には、徳川家康が五街道を制定。西国街道は五街道には入らず、それ以外の脇往還という位置づけにされた。けれど重要な街道だったのだって。
西国浜街道はこのまま道なりに進むのだけれど、団地の一部のような小さな公園(実は奥に広い新在家南公園)沿いに左折していった。
ちょっと変わっているな、と感じたのだけれど、中にある施設は安藤忠雄の設計だったらしい。
道はカーブを描いて西へ。左手には高いところを車が走っていた。いろんな大きくてきれいな建造物も見えていた。
どうやら湾港幹線道路っていう湾岸線とつながった自動車道で、その向こうには神戸製鋼所の大工場などがあったみたい。埋立地なのだろうな。その向こうは海。
広い道に出て、道の向こうに「西郷酒蔵の道」が続いていた。
雰囲気のある白塀にはさまれた石畳の道になっているのだけれど、塀の向こうに見えているのは殺風景な大きな倉庫などで、変な感じだった。
このあたりはかつて西郷だったのだって。灘五郷の1つ。
新在家村と大石村が合併して都賀浜村に、それから改称して、大正時代に西郷となっていたそうだ。
若宮八幡宮があった。創建当時(1678年)、この南側は海岸線だったそうだ。そして酒蔵は、埋めたてられた地に並んでいたそうだ。今は更にその南も埋めたてられて、工場地帯などになっているんだな。
酒蔵の道は続き、「サワノツル」なんかが見えていた。沢の鶴は西郷を代表する酒蔵らしい。
右手に古そうな寺が見えて、これは妙善寺(真宗本願寺派)。1640年代の創建らしい。そこが本来の浜街道のようだった。サザンモール六甲の南側の道を道なりに進んだところ。
そのまま「西郷酒蔵の道」を西に向かった。途中で工場の敷地内のようなところを抜けて、つきあたりまで。大石川(都賀川)が四角い護岸の中を流れていた。前に歩いた都賀川公園あたりから続いている川。もう少し南で大阪湾に注ぐ。
左手のしょうへい橋で川を渡った。
川にはカルガモなんかがいた。ここも川の横を歩けるようになっていて、歩く人がいた。
右手には高速と山、左には湾港幹線道路と海が見えた。昔、浜街道を行く人が見た光景とは全く違っているのだろうなあ。
橋を渡ると西郷会館と住吉神社があった。住吉神社には「敏馬神社旅所」とあった。横に沢の鶴資料館。震災で倒壊したけれど、再建したそうだ。
川沿いを北に向かっていった。「酒蔵の道」も終わりのようだったので、浜街道に戻ろうと思って。
途中、大石についての説明が書かれてあった。
豊臣秀吉の頃には石の産地で、御石と呼ばれていたんだとか。1683年には全国に御石を運ぶ専用船(通称ダンベイ船だって)が72隻あったのだって。1690年頃から水車産業が盛んになり、油などを生産。油を搾るための菜種や綿実が浜に運ばれてきて、それを水車で絞り、油にして全国に出荷。
その後、酒造が盛んになったのだって。大石にも40軒の酒造家があったそうだ。灘五郷のうちの1つ、西郷だったのだものな。水車はお酒作りのための精米に活躍したのだって。
住吉神社が創建されたのは、この頃(1681年)のことだそうだ。廻船も盛んにやって来る浜に、海の神様、住吉神社を祀ったんだな。廻船って、整備された海運の流通網の中、海を回った船のことみたい。
東隣の新在家は、大石から室町時代に分かれて新しくできた村なのだって。東大石とも呼ばれていたらしい。「新」在家といっても室町時代なんだなあ。酒造、お酒の運搬、水車を使った素麺づくりや菜種油づくりで栄えたそうだ。
菜種油はてんぷらなんかにも使われたけれど、主に明かりに使われたのだって。
今の感覚で考えたらだめだなあ。小皿に油を入れて、そこに芯となる細紐の端を浸し、火をつけて行燈をともしたのだって。
けっこうな高級品で、お金をかけられない庶民は魚の油を代替品にしたりしていたそうだ。あと東北の方では、櫨の木から蝋燭を作っていたそうだ。
火はいろんな匂いがするものだったのかな。
大石には蕪村の弟子(松岡さん)がいて、蕪村が西国に行くときは、松岡邸を訪れたという説明もされていた。
説明板からもう少し北上し、橋のかかる信号まで行くと、旧西国浜街道の碑があって、ここが西国浜街道。
左折して、ここからは西国浜街道を歩いた。




