泉 鏡花「幻往来」現代語勝手訳(四)
(四)
それから二度、三度と重ねて通ったが、まったく愚かなことだった。あれほどまでに可懐かしんでいたのに、いざ行って見ると、先年の相方はちっとも意中の人の面影に似ていない。いや、似た所さえなかったのである。落胆した。その上、行燈に後朝の歌を書いたその女は、彼が「交際だけだから」と言って震えていた時、「あい」と艶麗に笑っていたのに、今度はさっぱりと様子が変わり、
「去年は書生さんでおいでなすったからよかったけれど、もう卒業なさったろう。気晴らしで入らっしゃるんじゃ有難味がありませんね」などと言ってあまり構ってもくれず、水のように淡々と待遇ばかりである。なのに、それでも通った。未練なのだろう。しかし、面影はどうして消えないのだろう。
唯一度、送られて出る時、廊下が切れて、向かい側の廊下に行くための板が渡してある所――そこは土蔵の戸の前で漆喰のたたきになっている――を歩いていると、浴衣を着たしどけない姿の女が急ぎ足でばたばたとやって来て、翻然と伝いながら、一瞬自分の左に並んだ時、廂から射す月明かりに照らされた顔が……おぉ、似ているような……と思った。だが、直ぐに上草履でばたりと向こうへ飛んだ時、月よりも明るい廊下の電燈の光でよく見れば、髪だけはほつれ、色だけは白いけれど、顔は露ほども似ていないのである。
それでももう一度行った。――またもや、もしかしてと思って行ったのだが、やはり見つけることが出来なかった。何度行っても思いを遂げられないので、もうこれで最後にしようと、十月中旬、今にも亡くなりそうな美人を一夜塀の外で看護した時から数えて三年目、日までは覚えていないが、ちょうど時節もその頃、単衣だけでは冷ややかに感じる夜のことである。
例のごとく二階へ上がる。
「こちらへ」と燭台を持って導かれたのは中庭に面した小座敷であった。博多の挟み帯のあの胸を突き出す婆さんが酌をしながら適当なことを饒舌っていたが、
「ちょいと」と言って立ち際に長くなった蝋燭の燃えさしの芯を切り、
「蝋燭の火が思わせぶりにちらちらしているのは、今日も泊まるか泊まらないか迷っておいでなのですねぇ。(後書き)……おや、恐ろしいほど蝋がするすると流れるよ」と言いながら出て行った。
橘は独り蝋燭が芯を燃やすチリチリという音を聞いていた。が、ふと頭を上げて床の間を見ると、香を焚いている一人の支那美人の画軸が目に入った。はじめは何の気にも留めなかったが、熟と目を凝らしていると、お民の面影が髣髴として浮かんで来る。目許、口許、眉つきなどまったく同一であった。もちろん髪形とか衣服とかは我が国のものではないが、偶然とはいえ、不思議だ……と自ずから心もあらたまり、こんな遊里に自分がいることも忘れ、神聖な仏像に向かう思いで、清々しさも感じたのである。
顔を打つ留木(*10)の薫りがして、相方が座敷に入って来たことに気づいたが、もしやこの画像が抜け出てやって来たのではあるまいかと思うまでに気を取られていた。しかしながら、その画が意中の人に似ているほど、傍らに座った相方はいよいよ似ていない。あぁ、もう思い切った、これで最後だと思ったから、少しばかり酒を飲み過ぎた。その画を残したまま立ち去るのが名残惜しくて見返りがちな座敷ではあったけれど、こっちへ、こっちへと言われるまま、ふらふらとするのを助けられながら、やがて一室へ導かれ――羽織を脱ぐと横になった。
厠へは帰りがけに行こうかと思ったのだが、しばらくしても相方が来ないので、橘は起き上がって廊下に出た。厠は二階の奥の方にあり、廊下には電燈が点いていないので、連子窓と欄干の間の狭い廊下を先に灯る電燈を当てに透かしながら厠へ行く。
厠の灯は明るい。一段上がって表から一続きの広い板敷きへ出ようとしたその時、向こうから懐手をして、すらすらと来る遊女があった。
擦れ違う時、橘はどこか慄然と寒さを感じて、思わず振り向いて見送ると、今来た下の廊下の方へスッと通って行く。震い付きたいほどの後ろ姿である。撫で肩がもの淋しく、鶴の翼をあしらった派手な裲襠を細い襟足に悄々と纏い、あたかもその鳥になったように、歩くにつれ、白い羽と黒い羽はゆらゆらと渦巻いて揺らいでいる風情。
あれは正しく……と、はっと思うや否や暗い所で見えなくなった。――隙間から洩れる風がいつまでも身体に絡んでいる気がした。
橘は頭を垂れ、袖をかき合わせて元の場所へと戻ったが、と見ると、同一ような部屋が二つ並んでいて、どちらが自分の帰るべき部屋なのか迷った。
障子の前で立ち尽くし、当惑した。しかし、天は人を見放さず……である。ヒントを与えてくれたように、幸い一つの部屋の前には革の鼻緒の草履が脱いである。
相方はまだ来ていないはずだから、草履のない方がてっきり自分の戻るべき部屋だと、それでも少し気迷うところがあるから静かに開けると、入り口にすっくりと、確かにその姿で、肩から上は雪に埋もれたような鶴の裲襠を着て、蒼ざめた色をして立っていた。一つ一つ取り立てて言わないまでも、画にしても人であることは間違いない。
思わず「おや?」と言って退ったけれども、その遊女は髪の毛一筋も動かさないで石のように立っているから、
「間違いました」と声を掛けて、自分でぴったりと閉めたのである。
「貴方、貴方」と、隣の室で呼ぶのは相方の声。
「何だ、来ていたのか」と隣の部屋に行って枕許に座り……、
「隣は何と言う遊女だい」と訊けば、
「信女」と相方が答えた。
「何?」
「信女さんの遊女と言うんですよ。二階の突き当たりの一番隅で、何でございますわ、内で遊女がたが亡くなりますと、皆お隣へ片付けるんです。人のいる所なんかじゃありません、私がこの部屋に参るのも生命がけでございますよ。
それに、この間も仏様が出たんですもの。肺病で亡くなりました。羽衣と言うんですが、大変お金子のかかった妓なんですってね。病気の中は手当をしてくれますけれども、死んだとなると、それは貴方、酷いんですよ。お経一つ読むんじゃぁなし、多度あった髪の毛もそのままで、丸裸にして男衆がね、石炭箱のようなものへ押し込んで、お棺が小さいもんですから筋が伸びると不可いって、釘付けにした上へ沢庵石を乗せました。そしてね、土用に葬式をするもんじゃぁねぇって、二晩ばかり打棄といたじゃありませんか。……いいえね、こんな所にいるものは皆……と、わざとなのか、しめやかに話す。
それを聞くと、橘はもうここには、いてもたってもいられなくなった。
「生憎混み合ったもんですから部屋がここになってしまい、恐くって、それで遅くなりました、堪忍しておくんなさい」
「否、そんな訳じゃない」と言ったが、引き留めて放さないから、
「私は少し考え違いをしていたのだ。もうこれで来ないんだよ」と判然言って、
「さようなら」。――おのがきぬぎぬなるぞ悲しき(*11)……と。
「旦那、ここらでようございますかい、旦那」
橘は車夫に呼ばれて目が覚めた。そして徒士町の霧島の邸の手前で下りたのである。
最初、遊里の門から乗った腕車は、三島様の辺りまで駈けてくると、
「済みませんが、呼吸切れがして曳かれません。しばらく患っていて、今夜はじめて出ましたが、我慢も限界、これ以上どうにも曳かれません」と言うので、それ以上無理強いも出来ず、その腕車を乗り捨てた。しかし、夜更けでもあり、往来の提灯も少ないので、相乗りの腕車を別にまた坂下で雇って、ここまで乗ってきたのである。乗れば身体をそのまま何処へでも持って行ってくれるのだから、廓で先刻のことがあったついでに、もう一度恋人の住居の辺りを伺ってみよう、晩いから幸い人の目もあるまい。そうして炭の欠片も、木の葉も、藁屑も、マッチの燃えさしも、その時の行いがすべて綺麗に掃除されたのを確かめて、自分もそれっ切り、さっぱりしようと思ったそうであるが、――腕車を曳き出すと、直ぐにうとうとしたのである。
「よし、ご苦労だ」と言って下りる。またも良い月夜である。もっとも筑波の方に細かな白い雲が綿々として重なっていたが、まだ月にはかからなかった。
月明かりを頼りに橘は、この時は少しばかり心強く、過日苦心した時と同一ように邸の周囲を一廻りした。筵を立て掛けた塀の色も変わらず、薪屋も床屋も当時のままである。
ちょっと立ち止まった時、色も鮮明にまた幻が目の前に顕れたから、袖を払って、決然として踵を返す。
曲がり角には自分を待つともなく、相乗りの車がまだ休んでいた。看板の灯りも薄らとして、月はますます明るい。
「車屋」
「おや、先ほどの旦那でございますか。参りましょう、貴方お一人でげすかい」と言った。
「ん? どういうことだ」……
「姉さんはどうなすったんで」と言いながら差し寄ってくる。
「はじめから一人だよ。連れなんぞありゃしない」と言うと、……ほくそ笑んで、
「冗談を仰っちゃ不可ません。坂本の通りでお供をしました時から、ご一緒だったじゃぁありやせんか、へい。曳き出すと、何故か看板の灯りが消えたようになりますので、おや? 消えたのかと思うと、なぁに点いてるんで。それでまた歩き出すと、また暗くなります。おかしいなと看板の提灯を振ってみると矢っ張り点いている。変に陰気で縁起が悪いですから何度も振り向いて見ましたが、旦那……乗ってたじゃありませんか。上野へ出ると、こっちも気が強くなりましたから、それからは見返りもしないで一呼吸に曳きましたがね。一緒にお下りなさいましたが、櫛巻で、色の抜けるほど白い、病み上がりのような凄い別嬪の姉さんで」
「本当か?」
「えぇ、威かしちゃぁ不可ません」と腕車をがったり止めたが、
「ははははは、何か隠していらっしゃる」と高笑いをして、また駈け出した。
橘は顔を蔽い、目を塞いだ。丸山の家が間近になった時、急に大粒の雨がぱらぱらと降ってきた。母衣を下ろす隙もなく、一呼吸に家の門につけたけれど、その間にびっしょり浴びたようになって、それから直ぐ瘧(*12)という病で寝込んだ。
その晩、坂本から相乗りを雇ったのは橘一人だけではあるまい。乗せた車夫も、乗った人も、互いに見違えて、婦人と相乗りをした一組は別にあったのであろう。であるけれども、しかし、そんなことがあったとしても、女の魂は道端の柳にも、屋根瓦にも、車にも、月にも奪われることなく、ひったりと橘の身体に着いていたのである。
<注>
*10 留木……香木。「留南奇」とも表記されることもある。
*11 おのがきぬぎぬなるぞ悲しき……あなたとわたしはそれぞれの服を着て別れていく。それは、ほんとうに悲しい。
*12 瘧……寒さ、震え、高熱が一定の間隔で繰り返し起こる病気。「おこり」とも言う。
(了)
「幻往来」は今回で終了しました。
この作品も鏡花特有の時制の「テレコ」(入り乱れ)が若干あり、時系列が少しばかり読み取りにくいものとなっています。その上、私のぎこちない訳で、さらに分かりにくくなったかも知れません。
話の中で、病美人の霧島民と遊郭で見かけた遊女(相方や掛け軸の支那美人も含む)と路上で見かけた女が時系列の混乱と共に、渾然一体となって何が何やら……状態になります。
私も一応メモ程度に時系列でまとめたものを作りました。それによって、少しだけ流れが分かるようになりましたが、話が冗長になりそうなので、ここでは挙げません。興味のある読者は試みてはいかがでしょうか。
まぁしかし、結局、不明瞭さはすべて私の読みの浅さに拠るものだと思います。
賢明な読者の皆さまは私よりもすっきり腑に落ちていらっしゃるのかも知れませんね。
* * *
久しぶりに鏡花作品の現代語勝手訳に取り組みました。歳のせいか、あるいは体調の悪さのせいか、根気がなくなり、作業も途切れがちで一向に進まず、自分自身でも嫌気がさしたりもしました。
しかし、折角手がけたのだからと、ようよう仕上げましたが、苦労した割には……という気がします。やはり、鏡花の文体は難しく、誤訳、誤理解が多々あるかと恐れます。
何度読み返しても、手を入れたくなるのはいつものこと。またいつの日か、全面的に書き直すことが出来ればと考えています。
*追記*
原文は「来てはちらちら迷わせるんでございますね」です。
らいどん氏から、この部分は「扇歌作の都々逸」の
『来てはちらちら 思わせぶりな 今日も止まらぬ秋の蝶』に拠るものだろうとのご指摘をいただきました。私もこの部分の意味を取りあぐねていましたので、貴重なご指摘を頂戴したと感謝しています
そして、そうであるなら、「止まらぬ」は「泊まらぬ」ではないかとも考えられます。
そう解釈すれば、この箇所は「蝋燭の火が思わせぶりにちらちらしているのは、今日も泊まるか泊まらないか迷っておいでなのですねぇ」みたいなことにもなります。
らいどん氏のご指摘を参考にさせていただき、私なりに勝手訳を変更しました。
(2023.11.18)