泉 鏡花「幻往来」現代語勝手訳(三)
(三)
彼には思うところがあったので、道士に対し慇懃さと、信仰するような気持ちを示して、件の霊草を一枚頼み込んでもらい、これを懐中にして病院を辞した。突き当たりの本郷枳殻寺の通りには、早くも人通りの中に、ちらちらと灯が見える。そんな黄昏の龍岡町を目を瞑るようにして腕組みをし、首を垂れて歩いたが、あの、朦朧とした後ろ姿の束ね髪の婦人を見失った大学の門際を見返った途端、ハッと夢から覚めたようになって、……思わず足を速めた。
こういう風に話したら、橘が強い印象を残したこの町を通る時の言いようのない心の内がおよそ知れるというもの。
私も知っている。――特に病院で名医が匙を投げ、病人も覚悟をしているのを引き取ったくらいなら、到底恢復は望めないから、この上はどんな微かなことにでも縋るより外はない。それは神仏の力であり、あるいはまた道士の奇薬であったりする。
橘は最初、この霊草を持って、直ぐにでも霧島の玄関から尋ね入り、来意を告げ、病人のいる部屋に入って、ちょうど夜だから灯を点して影法師を映してみようと思った。あれほどの女がこの世を去ってしまうのをもったいなく思う私の気持ちは、誰にも引けは取らない。何、一面識はなくっても……と思ったのであった。特に心奪われた気持ちから、何かあの病人とは前世から相通じる因縁があって、自分が家を訪れれば、待ちかねたように、もうその人が門に佇んでいて、言葉を交える前に、既に意を通じることが出来るのでは、と思うに至っては気もそぞろとなった。
徒士町に行く頃にはもう日が暮れた。霧島という邸は人に聞かないでも直ぐに知れた。しかし、この難なく探し当てたほどの立派な門構えは、橘が気後れした理由の一つでもあった。また、その上、門の扉は鉄の釘隠しが犇々と打たれて、固く鎖されていたのである。
奥が覗けるくらい奥行きの浅い家であれば物を言うにも心易いが、こんな風に城壁を築いている家ではちょっと難しい。
豆腐を買いに出る女中もおらず、取っ掛かりもないので、言葉を掛ける機会もなかったけれど、病人は一旦引き返して、またその内に出直せばいいと悠長に構えていられる容体ではないから、そのあたりを立ち去れず、霧島の前を往ったり来たり……。
誰が咎めるということもないけれど、彼は人目を憚って、なるたけ暗い所に身を置いた。露も輝くばかりの良い月夜であった。
やがて、この町に人の往き来が途絶えて、裏道を行く足音が高く聞こえるようになった。
『ええぃ、ままよ、思い切って入ろう』と意を決し、潜り門へ身体を押し当て、耳を澄まして佇んだ時、配達夫が一人、月夜を流れるように衝と来たので、
『わっ!』と思わず退る橘の姿が影と二つに分かれたのとすれ違いに配達夫が潜り門を押してひらりと入った。同時にがらがらという神社の鈴を振ったような音。
吃驚して飛び退く途端に、遙か玄関の方で、
「電報!」と呼ぶのを聞いて、身を翻しながら横町へ曲がって逃げた。
とある薪屋の、戸を鎖した出入口は暗く、月の光に白く光る屋根、それより高く積み上げた薪の蔭に身を潜めて、先ずはひと安心したのだが。
万一、門を開けたら、あの通りがらがらという音がするのだと、橘は冷汗を流して呼吸をついた。動悸の鎮まるのを待って屈んでいたが、人通りもなかったので、少し落ち着き、やがて断念て帰ろうとしてふと傍らを見ると、梶棒を先ほどの薪に押しつけるようにして、軒下に曳き棄ててある荷車が一輌目に入った。月明かりに判然と太い車輪が見える。その上には新しい筵が掛かっており、二つ三つ炭の欠片と干からびた木の葉とが散らばっている。
橘は熟と見た。この炭屋の向こうに柳の木が一本ひょろひょろと立って、亀裂の入った硝子戸が、きらきらと月に照らされて眩い。これは建て付けが悪く、がたがたと軒も傾いた場末の床屋である。これも寝静まっていたのであるが、その床屋と柳の木を境にして、この横町の片側に、ずっしりと立った一帯の土塀は、先刻から何度も邸の周囲を徘徊して分かった霧島の家の塀である。
これを眺めながら、我を忘れて佇んだが、袂に手を入れるとマッチがあった。懐中には、あの霊草の紙包み。
ここで決心したというのであるが、余りにも思い詰めて、考えがどうにかしていたのであろう。もっとも、先程から見ているように、その様子というのは最早尋常ではない。
筵を密と荷車から取り外すと、かさかさと炭の欠片がこぼれ落ちる。衣服の襟も、帯の下も藁屑で汚しながら、横町を斜めに切り、筵を目の前にある土塀に押しつけて、片隅を圧えながらくるくると開く。塀の腰辺りに筵が立て掛けられた。
その時、心配になって周りを何度も見廻し、懐中の包みを出して、試しにそっと筵に翳してみた。やはり霊草の霊は在るのか、両股の車前草は月に照らされ筵に映った。これだけでも何か験があるように思われる。――橘は一心に、この塀の中の庭の彼方、植え込みの中から見え隠れする青黒い瓦屋根の下に、民が顔白く、鼻隆く、唇朱く、目を閉じて、清らかな額に後れ毛を乱しながら、無言の人たちに見守られて、ゆっくりと死に向かっているのだと仮定めて、心で念じながらマッチを擦って葉に移すと、道士が精魂籠めて鍛えた車前草はパッと燃えた。
その時、部屋の中にいる病人が枕から顔を擡げて、美しい蒼ざめた気高い顔でこちらを向いて寝返った姿が心に浮かび……筵の近くに顔を寄せたと思った瞬間、火尖が畝った。
指の根元に赤く映って、フッと消え、この灯が世の中なら、なくなろうとする時、新筵の中に髪を結った女の影法師の半身が歴然と顕れた。が、あっという間に上に伸びて、力なく筵から放れて大きくなって、土塀にその影を映そうとする時、慌ただしく筵を掴んで、身体で覆い被さるようにして巻き込んだ。橘は気が遠くなって、耳の穴を何かで蓋をされたと思った。頭に言いようのない重みを感じると同時に、水を浴びたように慄然として恍惚となったが、そんな己の身がまずいと気がつくと、直ぐさま踵を返して抜き足で再び薪屋の前まで引き返し、前途を透かして伺いながら一目散に走り出した。それから真っ直ぐに踏切を抜け、お成道へ出ようとした。と、その時、
「おいおい、おい!」辻に立ったのは巡回の警官である。
橘は小使が授けた法に従い、どこかの川へ行って流そうと思って、正にその筵を抱えていたのである。
「待て、こら」
待たんか、と一喝されたから、思わずお成道の柳の根元へ件の筵を打棄ったが、目が眩んでしまい後先もわきまえず筋違いへ出た。万代橋を右に見た時、乗客のない寒そうな鉄道馬車がするすると今来た方へ通った。秋葉ヶ原あたりで轟々という汽車の響きがし、見附にもちらほら人が通っている。夜はまだそれ程までには更けていないようであった。
ようやく我に返って、身体に縄が掛かっていないのを確かめたけれども、糸が一筋背後から巡査の手に繋がれているように思われたそうである。
辻にも橋にも未練を残しながらも辛うじて家に帰ると、帯も解かず、書斎の寝床に倒れたが、胸騒ぎがして寝ることが出来ない。
一旦固くしっかりと掛けた錠をまた外して、
『何時でも入って来い、後ろ暗いことはない』と、やがて捕まえに来る巡査を待つようにもしてみたけれど、それもやはり不安になって再び鍵を掛けた。
今にも車前草を点した所から燃え上がって、徒士町に火事が起こるだろう、さもなければお成道に人殺しがあって、棄てた筵が血に染まって、自分は嫌疑を掛けられるだろう。
『何をした、一体、何をしでかしたのだ、この間抜けが!』
罪にはならないまでも、人に話せることではない。次第に癇が昂ぶって、今にも巡査が踏み込みそうに思え、また本郷に向かって消防車が「カン、カン、カン」と警鐘を鳴らして走って行くのが聞こえそうで堪らない。橘は『あぁ、もう死んでしまおう、自殺をしよう』と思いながら、心身共に疲れ果てて綿のように眠った。
翌日になった。昨日のことはまるで夢。自分の身体がひとりでにあの場所からあの場所、あの場所へと月夜の中を動いていたと思ったくらいである。
その日も、翌日も、恥ずかしくて戸の外には出ないで引き籠もったが、別に何事もなく、日が経つに伴れてようよう生き返った心持ちになった。――よくも、あんな時、放心したような頭で放火犯や人殺犯の魂が入らずに済んだものだ。細い町の両側から、薪屋と床屋の家が迫って、挟み潰されなかったものだ、腕車に轢かれなかったものだと、身震いをして謹んでいたのであった。
そんなことがあった後、あの法学生に引っ張り出されたのである。橘が廊下で後ろ姿の遊女に逢い、再び段階子で出会った時、慄然としたのは、彼が菊坂の上や大学の門で月夜に見た櫛巻の婦人とそっくりだったからなのである。
彼は不夜城での美人がどうやって目の前に突然現れたりしたのか詳しくは分からなかった。横からついてきたのか、背後から歩いてきたのか、あるいは先回りして待っていたのか、よくは解らない。けれど、つまりは廊下で会った女と段階子の女の二人ともか、あるいはそのどちらかか、それとも相方だった女があの病美人にそっくりそのままだと思ったのであった。
元々そのために彼が自殺をしようとまでした可懐かしい人の幻は、ずっと頭に残っていたから、一度大釜の鳴る楼に遊んだ後は、その人に似た面影の恋しさは忘れることは出来なかった。……
だから意味は違っても、友達の法学生が山下で言った言葉のツボに嵌まったのである。が、その時、余りに判然と言葉を返したので、今更一緒に行こうとは何としても言い出しにくかった。
幾らかの金を懐中にして、一度その法学生の所へ行ったのだが、一緒に行ってくれとは何となく言いそびれ、そのままとなってしまい、遂にその年は越えてしまった。
夏の試験に及第して、首尾よく学士の称号を得たものの、あの病美人の肺結核が難治であることを思う度、思い切れないのはその面影である。
秋風が身に沁みて、月が冴えるようになった。
彼が夜の町を歩く度に幻が迫るのである。
『よし、今日こそ行こう』と家を出たが、どんよりと曇った晩、馴れない悪所へ行くのだから、さすがに良心も咎め、星が一つ見えたら行こうと、自分に言い聞かせて、雨模様の空を仰ぎながら歩けば、ますます暗くなるばかり。
『これは行くなということだな、出直そう』と引き返していると、龍岡町を横に見た。――と、もうとても堪らなくなった。
切通坂の上から見える下谷のどこかの灯を、とりあえず星と見做すことにして……、
「車夫」と声を掛ければ、
「へい」と言って、車を引き寄せ、
「お乗り下さい」と。
「吉原まで」と言ったのを、聞いたのか聞かなかったのか、
「ご免よ」と威勢がいい。
腕車の上から、
「ちょいと、吉原だよ」ともう一度。
「あい、ご免よ」
「いいかい」と念を押しても、
「ありゃありゃ」などと言いながら駈ける
「おい、解っているのかい?」
「旦那ぁ、ご冗談を。解ってまさぁ」
次回最終です。