泉 鏡花「幻往来」現代語勝手訳(二)
(二)
ちょうどその時から二年前のことである。夏の終わり頃、橘は医学書に一冊買いたいものがあって、本郷に向かおうと、無縁坂を上がり、そこから龍岡町へ出て、豊国の前を通って左へ折れた。と、前途の枳殻寺の方から、警察と区役所の間を担がれてきた一台の駕籠がある。行き違った時、見た中に、黄八丈の敷蒲団、それと同じ掻巻を深々と掛けて、括り枕の大きなのに寄りかかった、もの凄く美しい女がいた。歳は二十歳余り、髪はふさふさとあるのを櫛巻にし、それが枕に溢れて、哀れに見える。痩せた手に絵団扇を持ったのを少し上の方に翳して、白魚のような指の先で、気だるそうにくるくると回しながら、静々と担がれて通って行った。
思わず振り返って立ち止まると、兄妹なら兄だろう、洋服を着たもの優しい紳士と、小綺麗な女中と、乳母とも見える年配の老女とが乗り物の前後に付き添って、日中涼傘で蔭を作り、その中に病人を入れて守るようにしながら、皆沈んだ面持ちで病院のある大学の門に入った。
橘は、それ以来ずっとその面影を忘れなかったそうである。また、大学に籍を置く医学生のことであるから、病院とは伝手があり、「霧島 民」……というその美人の名と、その病は肺結核であることを知った。
用がある時でも、そのことがあってからは、心が咎めるような気がして、病院へ出入りするにも気がさした。で、なるべく遠ざかっている内に一年が過ぎた。その美人の面影は忘れずにいたけれど、思い出すこともなく、時を経るままに、際立ってこれという印象もなくなった。しかし、一つの幻となって、何時も影のように彼に付き纏い、離れなかった。
そうすると、去年の秋のはじめのこと。その夜は、あたかも今年、廓に誘われた時と同じような月夜であった。
橘はその頃、丸山の方に引っ越していたが、本郷に用があって菊坂を上る……と、不思議にも白地で中形の浴衣(*7)に縞の半纏を着て、悄然した姿で向こうから来た女の顔がある。『あぁ、見たことがある』――知っている気がするぞと、やり過ごしてから考えたが急には思い出せない。
それがどうしても気になって、そのことばかりに気を取られ、うかうかと通りへ出た。警察署の角を曲がったところで、ふと気がついた。自分はこんな所へ来る意はなかったのである。
自分でも怪しくなって、引き返そうとすると、五メートルほど先に、後ろ向きになって歩いて行く女がまた見えた。
襟元や髪形、着物ははっきりとは解らなかったが、月の光のせいか、半ば蒼みを帯びて、灰色の濁ったような姿である。橘はそれを見てハッと思い出した。先ほど菊坂で初めて逢った人は、どこかで見たと思ったら、正しく影のように付き纏って忘れもしない面影……あの病人の美人の面影にそっくりだったのである。
そう考えていると、この後ろ姿は、ふらふらと向こうへと遠ざかり、学校の門へ入ったかと思うと見えなくなった。
月明かりにはっきり姿を見せないまま、その後ろ姿を見送って茫然としていたが、何か大事なものをなくしてしまったような気がして、思いに沈んだまま、本来の用事も忘れて、ぼんやりしながら家へ帰ったけれど、さぁ眠れやしない。
翌日は一日、机に寄りかかったまま、うつらうつらの状態であった。が、もうとても堪えきれなくなった。家を出て――「三号室」に掛かった、忘れもしないあの「霧島」という名札でも見ようと思って、大学病院へ行った。医員にも看護婦にも知った顔があるので、遠慮なくずっと奥の内科に入り、それと思うドアの前まで行った時、我ながら動悸が高まった。そのまま札を見ることもせず、通り過ぎ、突き当たりの壁を眺めて佇み、それから思い切って引き返しざまに、凝と視線を注いだが……無い。その人の札は掛かっていなかった。
場所が変わったか、とがっかりすると同時に、橘は自分は甚く間違ったことをしているのではないかと羞かしく思い、人目を避けるようにして急いでその場を離れた。
すでに日暮れとなっていた。薄暗く、ひっそりして誰もいない。玄関傍には赤い緒の草履が、裏返ったのも仰向いたのも構わず一纏めにして積み揃えられ、綺麗に掃除がしてあり、がらんとしていた。腰掛けを置いた所に火鉢が一つあって、火種がまだほんの少し残っていたので、天井を仰ぎながら立ち止まり、煙管を出して、落ち着いて一服し、立ちながら吸って気を静めてホッと呼吸を吐いた。
「やぁ、おいでなさい」と声を掛けた者がいた。小倉の古い洋服を着て、下唇は厚く、への字形の口は締まり、目つきに愛嬌がある、ぽちっと短い眉の極めて濃い、歳は六十ほどの兀頭の小使である。よく知っているので遠慮はない。
「どうだね、爺さん」
「また雨だ。この様子じゃ、二百十日は暴れるでがす。一両で四升買えた米は二、三合減りそうだね。恐ろしいじゃありゃせんか。こちとらの若い時にゃ、まぁもっともその時分は、お前さん、昼三といって、部屋持ちの飛び切りの花魁が三分だったがね、米なんぞ安ぅござったで。ご存じでしょう。当百って言う天保銭なんかでも米は沢山と買えたもんでがす。人間もそんな時にゃ暢気でさ、ですからお前さん、病人なんぞ根っからありゃしません。
ところが、近頃出来るものといえば病人と子どもだ。何のことぁない、苦労をしに生まれてくるようなものでね。そいつの嵩じたのが労咳、えぇ肺病って言うヤツです。昔でも労と名が付くと難しいね。直ぐさま過去帳へお届けを出すくらいなもんで、今の時代、世の中はこの労でもって持ち切りだね。内のご病人なんぞ半分以上がそれです。悪いことに若い人に多いでがすから、気をつけなきゃぁなりません。今日もお前さん、可哀想なことに。えぇ! もう……」
橘はこの小使から、あの意中の美人がもはや恢復の望みがなくなって退院したことを聞いた。一年以上いた病院の玄関を駕籠に担がれて出る時、幽かな声で何か言ったそうである。付き添いのものは二度、三度と聞き直したが、病人は
「……龍岡町を通るの?」と言ったのである。通りますよと答えると、頷いて目を閉じた。そのまま亡骸を運び出すようにしたのをここで見ていたと、小使は言って聞かせた。
『龍岡町を通るの』……橘はこれを聞いて蒼くなった。女に心奪われていたから無理もない。特に同じように駕籠で出たといえば、その時のことが見えるようであった。
声も震えて、
「何処の方だって?」と何気なく訊いてみる。
「龍岡町を通るって、確かにそう言ったっけ。下谷の徒士町の邸だそうでがす」と教え、小使は嘆くように拳で小さく胸を打って、溜息をつき、
「昔々からある病気の中でも、今で言う肺病なんざやっぱり死病てぇ折り紙がついていましたよ。木の根の黒焼きとか草の葉をランビキ(*8)に掛けたとかじゃぁ、そんなのいくら浴びせたってどうにもならねぇ。ところで、不思議と言うものは今の世の中にゃぁ流行らねぇそうでがすが、昔はお前さん、とてもいけねぇというその病気が、私の知ってます方法で治ったから不思議じゃがぁせんかい。病院の先生方に話できるものではなし、また入院をしようと言うほどの人たちには言ってみたって用いませんから、見放されて出て行くのを見る毎に私ぁ目を瞑ってまさ」
「どういう方法なんだね」と真顔で尋ねる。
「何、下らねぇ、車前草の葉なんでさ」と、自ら嘲るように言い捨てたが、内心では大いなる自負を抱いていることが顔の色に現れている。
「車前草の葉をどうします」
「や、お前さん、若いのに似合わねぇ、聞きますかい」
此奴は話せるぞと思ったのだろう、だぶだぶして少し裂け目の見えるポケットへ手を突っ込み、古びた印伝皮(*9)の三つ折れの財布を出した。そして、その底から小さな紙包みを取り出して開け、草の葉の色をしているが、何やらよく分からないものを取って掌に置いた。
「これだ、こりゃね、こう二岐に分かれていましょう。二岐の車前草って滅多にゃないもんでさ。そうして何だね、陰干しにしたのにね、油を塗っちゃ乾し、塗っちゃ乾しして、こりゃぁもう相当に丹精を籠めなくちゃできない代物でさ。で、どうするかというと、労病の寝ている部屋をね、夜なら灯りを消します。昼間でも雨戸を閉め切って真っ暗にして、それから病人の寝床の横に新筵を一枚敷き並べます。ようがすかい、そこでこれだ」と言って掌を動かした。車前草の葉は、ぶるぶると揺れた。
「これに灯を点して、こうその病人の額の上へ」……と言いかけて、への字形の口を屹と結び、葉を取り直して、抓んで前へ出して、目を据えて透かして見せた。
「頭の方を照らしまさ。影が映りましょう。病人のその影が右の筵に映るのを、そのまましっかり巻き込んで、スウと引放して、持って出て、直ぐに川へ行って流すんでがすよ。魔法じゃぁがせんから、呪文も何も要りやしません。私が覚えてからも、それで治ったのが七人ありまさ。学問をなさるお前さんにゃ、馬鹿馬鹿しいでがしょう」……と言う時、天を仰いで呵々と笑った。小使のその時の風体は一人の不思議な道士のように見えたと――橘は言う。
<注>
*7 中形の浴衣……浴衣の柄として、大紋(大形)と小紋(小形)の中間の大きさの模様型を使用したもの。
*8 ランビキ……蒸留器。
*9 印伝皮……鹿皮。
つづく