Act3: しらねーよ
私の右腕はきっと稀に見るチキン肌なのだろう。
さっきからブルブルと腕が振るえ、背中からゾゾゾと寒気が這い上がってきている。
私の今のこの状態を生み出している原因は、絶対目の前のこの男にある。
多分、とか、きっと、とかそんな曖昧さは微塵もないのだ。
「イガイ、のイは猪と書きます。左はけものへんに右が人気者の者と・・・そうそう。
イガイ、のガイは飼と書きます。左は・・・なんだっけ・・・あ、食べ物の食!
そう、食に右が司るで・・・ああ、司法の司です・・・そうそう。」
- 何故私は今、この不信感の塊のような男に男の名前の漢字の指導をされているのだろうか。甚だ疑問でならない。
ほら、簡単でしょう?と男は口先だけに胡散臭い笑みを浮かべて私の右手を自身の左手で掴み、手のひらに人指し指で「猪飼」の字をなぞった。
原因は、これだ。
男に手を掴まれている。知らん男に手を掴まれている。初対面の男に手を掴まれている。
別に男に手を掴まれて振り払うほど嫌いなわけではないが、初対面の男に手を掴まれて笑っていられるほど男が好きなわけでないのだ。むしろ苦手。故の、チキン肌なのだ。
私は目の前で腰を落として軽く足をM字に開いてしゃがむ、いわゆるヤンキー座りと称される座り方をする男をじっと見つめてみる。
染めたのか、はてまた天然色なのか。
その男、猪飼の髪は鮮やかな赤、まるで鮮血を塗り付けた様な不透明な赤髪だった。
顔色はあまり良いとは言えず唇も薄く血の色を失っており、緩やかに細められた双眸は深緑で私は密かに男をクリスマス野郎と呼ぶことを決意した。
ていうか、
「あの、」
手、放してもらえないですかね。
何故か私の手は未だに猪飼が握り締めまま離さないという理解しがたい現象の渦中にある。別に手を握られるという行為を恥ずかしく思っている訳ではないし、今はチキン肌を止めたいからという訳だけでもないのだ。自分でも良く耐えられるなと思えるほどの急展開に対する、知らないことへの恐怖と緊張の為に滲んで来る手汗が気持ち悪くて仕方がないのだ。
早くこの不快感から開放されたいと勇気を振り絞り口を開いたのに、猪飼はそれを空気とともに玉砕する様で
「何で?」
と心底驚いたとでも言うような表情を浮かべて見せ、更に恥らう乙女のように薄く頬を上気させて目を伏せたかと思うと鼻を連想させるように微笑んで見せた。
「・・・・・・。」
言葉は、ない。
そこに沸と湧いたのは初対面の人間に抱くにはいささか物騒だと思われる、明確な殺意だけである。
放してくれないならいっそ、と掴まれた手に切り忘れた自分の長い爪を立てる。
自分の爪が猪飼の手の薄皮を切り、血を滲ませた気がして口の端を緩ませると、猪飼の右手が私の手を挟む様に包みんできた。そして慈しむ様に優しい声音でこう言うのだ。
「痛いね?」
と。
痛いのは爪を立てられた自分だろうに、何故だか猪飼が私を諭すように微笑んだところで私は違和感に気づく。じっと目を凝らすと、すぐにその違和感の正体が分かった。何で今まで気づかなかったんだろう。ああ、
- ああ猪飼あなた、透けてるじゃない。